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「宇田川源流」 日本にはさまざまな影響を与えた「江沢民元国家主席」死去

2022.12.05 22:00

「宇田川源流」 日本にはさまざまな影響を与えた「江沢民元国家主席」死去


 中国の元国家主席であった江沢民が死んだと発表された。今年の夏に「近影」が表れ、夫婦で写った写真が出てきたことで話題を呼んだが、この時に「白血病」というような話は全くなかった。

 さて、まずは私と江沢民(以下敬称略)の間に関してお話してみよう。江沢民に関しては、実際に私自身あったことがある。まあ、もっと言えば酒を飲んだことがある間柄だ。一番初めはマイカル時代。あの当時、マイカルというのは中国の大連に何しろ400億円も投資した「稀有」な企業であった。しかし投資しただけならば他にも多くの企業があった。実際に当時のマイカルは、大連市内において、いや、少なくとも中国の当時の東北三省において最も売り上げを挙げたスーパーマーケットであり、また共産党のトップであっても予約が取れないホテルであった。

 そのような功績などを加味しまた当時の発展した大連を見るということで、政治局委の会場が大連になったことがあった。もちろん、我々がそのように仕向けたわけではない。向こうが勝手にそのようにしたのである。その時に江沢民夫妻がマイカルに買い物に来たのだ。

 イタリアのブランド物を買うということで、中に入ってきた江沢民は、棚の中の一つのカバンを指さした。私が指示して、そのカバンを棚から取り上げると「そうではない。この棚全部欲しい」ということであった。それだけではなく、その隣も、その隣も、壁一面の商品をすべて買い上げたのである。このようなときには、当然に、ツケになるのだが、江沢民の奥様が差し出したカードを受け取り、そのままカードリーダーに通したのである。「江沢民夫人がカードを出して買い物をした。日本人はそのカードを受け取って江沢民に金を払わせた」という見出しが、少なくとも大連日報の一面には踊ったのだ。そのことから、「江沢民が買い物した場所で買い物がしたい」ということで、様々な人が来るようになった。

 そのこともあって、江沢民にお礼がしたいと申し出たところ、大連にある紡錘島にある江沢民の別荘で接待されたのである。まあ、彼らからすればかなり失礼なことをしたのかもしれないが、それでも「かなりの量の酒」を飲み、そして、酩酊状態で様々なことを言った覚えがある。それでも笑顔で対応してくれたのはよく覚えている。もちろん、その失礼な行為をしたときに、周辺は酒に酔っていながら真っ青になっていたのは忘れられない。

 さて、その江沢民が死んだ。

【速報】中国の江沢民・元国家主席(96)死去 白血病による臓器不全 新華社

 中国の国営メディアは江沢民元国家主席が30日、白血病で死去したと伝えました。96歳でした。

 国営の新華社通信によりますと、江沢民元主席は30日に上海で白血病による多臓器不全で死去しました。

 江沢民氏は1993年に国家主席に就任し、2003年までの10年間にわたり共産党のトップと軍のトップを兼任しました。

 1997年には香港返還、1999年にはマカオ返還、そして2001年にはWTO=世界貿易機関への加盟などを果たしました。

 反日教育を推し進めたことでも知られ、1998年の日本訪問の際には天皇と当時の小渕総理に対し、過去の歴史への謝罪を繰り返し要求し、日本側の反発を招きました。

 政治的には、上海トップ時代の部下らを次々と中央に抜擢(ばってき)し、“上海閥”と呼ばれるグループを形成するなど基盤を固めました。

 2019年10月に北京の天安門広場で行われた「建国70年」の軍事パレードには姿を見せましたが、習近平総書記が3期目続投を決めた今年10月の党大会は欠席していました。

2022年11月30日 17時53分 テレ朝news

https://news.livedoor.com/article/detail/23292836/

 江沢民と言えば、対日関係を強硬派でありなおかつ天皇陛下に歴史認識への謝罪を要求したことで話題になる。当然に、日本人からすれば、その一点をもって許せない相手である。しかし、一方で当時のまだ物価が安い中国において、経済面でもかなり日本やアメリカなどに市場を開放し、その企業をかなり入れていた。一方で、少なくともマイカルのグループは「日本ですでに古くなった技術を持ってゆく」ということから、一時代か二時代遅れたストアポンピューターや警備システムを持って行った気がします。当時の建設の議事録の中に「ライト・サティ程度の内容」(サティとは、当時のマイカルの店舗の名前)とあり、しっかりとしたシステムではなかったことがうかがえる。それでも、紡錘島の飲み会ではかなり感謝されたことを思い出す。

 中国は、それだけ遅れていたのだ。2000年の話である。

 一応日本的に、死者に対して悪いことを言わずに、お話をしよう。

 経済技術ということでは、かなり様々な造形がありまた、中国共産党の中において、鄧小平国家主席の後を受けて、中国の経済的または国力的な発展ということにかなり尽力したのでは話いかという気がする。そのうえで、経済を発展させることで国民を豊かにしながらも、共産党内部の「保守派(我利我利の共産主義者)」相手に、市場経済の重要性を出しながら、その政治的な管理や共産主義の重要性を解くという一貫の中で、最も言いやすい日本に対して「歴史認識問題」をだしたということになるというのが、好意的解釈である。要するに、中国の為政者は、「外交的な問題ではなく共産党内的な問題で外交を左右する可能性が少なくない」ということがいえるのではないか。そのことは、その後の胡錦涛も習近平も同じであるということになろう。

 逆に、江沢民は、そのことから反日であるというレッテルを張られてしまい、江沢民在籍中に経済の発展を得ることができなくなった。そのことが、胡錦涛にほとんどの功績を取られてしまうのと同時に習近平に対して対抗する手段が少なくなってしまったということになろう。そのことが晩年このような形になったということになる。

 「老衰で大往生と思っている時こそ、暗殺の危険がある」というのは、イギリスやイスラエルの情報部の人間の常識である。確かに共産党大会には出ていなかったが、一方で、夏に北戴河会議の時の写真が竜出して話題になった。また白血病などと言うような話は全くなかった。実際に、今回の反習近平デモの中において、江沢民の死と同時に弾圧が強まるという状況になっている。政治的に「習近平を抑える力」が一つなくなったことは間違いがない。

 江沢民の死がどのような影響になるのか。それは歴史だけがわかっているのではないか。