2015年11月3日(火)『11月歌舞伎夜の部、海老蔵の長男勸玄君初お目見え』
今日は文化の日だ。歌舞伎座の11月夜の部は、江戸花成田面影(えどのはななりたのおもかげ)が最初の芝居。今年は11世團十郎団没後50年祭だそうで、11代目に似ているという海老蔵、その長男の、勸玄君の初お目見えの舞台である。深川不動のお祭りの賑わいの中、藤十郎を中心に、下手に松緑、上手に染五郎の鳶頭、中央から梅玉の鳶頭が軽く踊った後に、海老蔵に手を引かれて、1歳8カ月の勸玄君が、頼りない足取りで舞台に出てきて、愛嬌を振り巻くかと思いきや、今日は、笑顔一つ見せない。まだ子供だ、いつも笑顔ではいられない。機嫌が悪そうで、それも一興、おかしかった。でも、海老蔵と一緒に、舞台にちゃんと坐り、「堀越勸玄です」と、手をついて、はっきり挨拶したのは偉かった。扇子を帯に挿そうとして、挿せなかったのも、可愛かった。海老蔵父子の周りを、仁左衛門、菊五郎、藤十郎、梅玉が付き合って固め、豪華な舞台になった。勸玄君が成人した頃、藤十郎、仁左衛門、菊五郎は、多分この世にいないであろう。生身の人間の舞台上のバトンタッチにお付き合いした気分になった。。藤十郎が、立ち上がるのに、弟子二人の手を借りてようやく立ったのには、驚いた。体力が弱くなってきているのであろう、立つのがやっとという衰え振りに愕然とした。沢村田之助もいるが、昭和第一世代の唯一の生き残りであるから、もっと頑張って欲しい。私の、心配が、そう思わせたのかもしれないが、声もくぐもっていて、聞えずらかった。
次の幕は、真山青果の元禄忠臣蔵の仙石屋敷が久しぶりに出た。赤穂浪士の討ち入りは、庶民は大喜びだっただろうが、大目付を勤める幕府の高級官僚が、こんなに単純に、討ち入りを喜ぶ訳はないのであって、大石に、仙石伯耆守が、嬉しそうに、討ち入りの様子を聞くなんて、ありえない話だと思う。はっきり言って、どこを楽しめばいいのか分からず、面白くもなんともない舞台であった。役者は、それぞれの役を、熱演していても、台本が悪く、ストーリーの展開がないから、どうすることもできない。この芝居は、何を訴えた芝居なんだろう、とつくづく思ってしまった。
大石を仁左衛門。大目付、仙石伯耆守は梅玉。第一場、仙石伯耆守の玄関先で、伯耆守が、四十七士が吉良邸に、討ち入ったことが、余程うれしいのか、ウキウキしすぎで、おい、大目付というのは、討ち入りに際して、隣家で、大きな提灯を掲げて討ち入りをバックアップした呑気な大名とは違うだろう、幕府の中枢を担う高級官僚で、この事件を、どう収めるかに、心を配る役回りなのに、お祭り騒ぎをして喜んでいる役回りではないだろうと思う。冷徹な幕府の官僚であるから、気持ちでは応援していても、これからどういう対処をするのか、当代の将軍綱吉がどんな態度を示すのか、わからないうちは、保身でも、警戒感を持つはずなので、そうイージーには喜べない立場ではずだが、この芝居の伯耆守は、そうではない。単純で、短気で、精神的に起伏のある馬鹿殿様である、こうした殿様役は、梅玉のにんにあっていて、好演するかなと思ったが、ただ喜んでばかりでは駄目ではないかと思った。
大石の話を聞く、積極的な尋問者としての自分の立場があるはずなのに、その心が薄くなる。なぜ討ち入りをしたのか、どんな状況だったのか、吉良をどう討ち取ったのか、討入った人数は、何人なのか。四十七人討ち 行って、現在四十六人なのはどうなのか聞かないのは台本の不備だから仕方がないが、単に興味本位で大石を尋問しているのではないという腹がないと、この尋問シーンは、薄くなると思うが、まあここはそんなことを梅玉に要求しても、できる訳ではないので、要求する方が無理かもしれない。討ち入りを、ただ喜んで、自分の興味本位で、大石に事の顛末を語らせるだけでは仕方がないが、梅玉ならここまでかと思った。
仁左衛門の大石も悪かろうはずはないのだが、音吐朗々として、暗くなりすぎず、四十七士を討ち入りまで束ねた貫禄を十分に見せた。300名以上の家臣が、結局、四十七人になったところを、聞き、それも人情と,吐露するところは、なるほどと思い、じんときた。去る人には、去る理由があったのだ。去った人達を、責めても仕方がないことだ。そのあたりが、討ち入った者の覚悟もあるし、参加しなかった人にも、それなりの理由と覚悟があるのだ。
ただ幕としては、たいした動きがなく、大石が、老中に、何故討ち入りに至ったのか、その理由を、伯耆守の尋問に、詳細に説明するのだが、伯耆守が、段々身を乗り出して、喜んでくるところが、見どころの一つとなっていて、単純に見れば、このあたり、梅玉はうまかった。にんにはまるというのは、こういうことだ。ただ、幕府の官僚中の官僚という立場を最初は、押しておいて、段々嬉しくなってくる方が、芝居になるだろう。そう見ると、梅玉はうまくないようだが、現在の歌舞伎役者の中で、これができるのは、吉右衛門位のものだろう。
続いて、見慣れた勧進帳は、弁慶が幸四郎、富樫は染五郎、義経は松緑。弁慶役者の幸四郎が、弁慶をやるわけで、悪かろうはずはないのだが、セリフが聞きとりずらく、勧進帳を読み上げる部分、そして勧進帳に対して富樫が質問し、弁慶が答える山伏問答、ここは通常は、二人のセリフ術のぶつかり合いで、舞台迫真となるはずだが、この問答部分が、全く盛り上がらない。染は明確にセリフを言うのだが、弁慶は何をしゃべっているのか、セリフが聞き取り辛く、何回も観ているので、問答の大方は推測できるが、細かに聞えないので、問答がスリリングではなくなって極めて残念。富樫が、義経一行を、通してやる気持ちになるシーンが、見えてこない。弁慶と富樫を親子で演じているが、丁々発止とはならず、親ばかり目立すぎて、富樫が飛んでしまっている。勧進帳になぜ涙を流すかというの、弁慶の主を思う、懸命で一途な気持を、富樫が、どこで受け止めて、義経一行と知りながら通すにいたるか、その決意が、どの段階で起こるのかを推測し、富樫の情に涙を流すのであるから、弁慶だけが目立ちすぎてはいけないのである。段取りで芝居をしているから、観客の涙腺を考えないで、突っ走る。幸四郎の慣れが、舞台をつまらなくした。松緑は、もともと貴公子然とした役はにんにないから、仕方がない。弱く、けなげに見えない義経だ。
最後は、河内山。だが、海老蔵には、まだ、大名を、騙す貫録がなく、それなりに、うつむくと、光源氏かとも思えるメイク、衣装が、僧の服装だから、僧に見えるが、美僧すぎて、つんつんしていても、色気を出しすぎ。悪党が、僧侶に成りすまして、大名を騙すという筋なので、一癖も二癖もあって、したたかで、ずる賢く、世慣れた面がないと、天下の大名を騙すのは、困難だと思う。相談を持ちかけた家から二百両、大名家からも、女を取り戻すだけでなく、ヤマブキのお茶が呑みたい、と小判、お金を要求する悪党らしさ、ふてぶてしさがない。貴公子然とした表情で、詐欺を計る河内山では、最期の「馬鹿め」が効かない。お金を出されて、袱紗を少し上げて、どの位金を出したか確認するとる所も、時計が鳴って驚き、あわて、すっと通常の澄まし顔になるところも、効かない感じがした。梅玉の松江出雲守は、女狂いの、短気で、馬鹿殿らしさがでて、やはり、にんに会う役をすると、魅せる。先月の国立劇場の、伊勢音頭恋刃場傷の、やる気のなさとは別人のようだ。本人も、にんに会う、会わないは認識しているわけで、やりやすいのではないかと思った。