Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

超人ザオタル(89)探究の道

2022.12.05 10:25

本当の自分を知ることは簡単であり、難しくもあるものです。

古の師たちはそれが簡単であると言っています。

しかし、その言葉を真に受けて信じないことです。

それは本当の自分を知った師の言葉だということ。


ほとんどの師たちは壮絶な修練を経て、そこに至っています。

ただ、知ってしまえば、それが難しいものだという感覚は消えてしまいます。

それを得てしまえば、それは決して消えることがないのです。

そうなれば、それは師にとって簡単なことになります。


何もしなくても本当の自分を知ることができる。

いずれは、次元が変わってそうなるのだという話を聞いたことがあります。

そう信じたいのであれば、それはそれでいいかもしれませんが、

現実には瞑想で厳しい修練をしなければ、本当の自分は決して分かりません。


何も知らない状態から、突然、すべての真実を知ることは不可能です。

本当の自分を知ることは難しいものです。

実際にその理解に至るにはいくつもの障害があります。

その最たるものは自分が自我だという信念です。


この自我の信念は強力です。

初期に於ける気づきなど、簡単に消し飛ばされてしまうでしょう。

あるいは、自我は本当の自分の経験を奪い取って、自分の力にしようともします。

本当の自分という輝かしい勲章を手にれようとするのです。


ただ、本当の自分を知りたいという求めがあるなら、

この自我の問題は早かれ遅かれ乗り越えることができるでしょう。

本当の自分を知りたいという願いも強力なのです。

それが強烈であればあるほど、自我を超える大きな力となります。


さて、実際問題として瞑想で何をすればいいのか。

それはそこに存在しているという感覚をつかむことです。

これが本当の自分になります。

個人を超えた、個人の核となっている真実の自分。


つまり、真我と呼ばれているものです。

これがハルートの真実であり、私の真実だということ。

『私は誰か』の答えは、この存在だということです。

私は存在である。


これは言葉の理解ではなく、

瞑想中の感覚としての理解になります。

存在は『私は存在である』とは言わないでしょう。

無言で存在としているだけです。


この段階では、もはや探究をする必要はなくなります。

真我探究はここで終わるのです。

しかし、すべてが終わったわけではありません。

いや、むしろここからが始まりになります。


本当の自分は存在であると知ったあと、

それでは存在とは何かという問題が残ります。

存在のことを理解しなければ、本当に自分を理解したことにはなりません。

まだまだ、瞑想での探究は続いていくのです。