2016年10月5日(水)「歌舞伎座10月、芝翫襲名、初帆上成駒宝船、女暫、お染久松の道行舞踊、幡隨長兵衛」
歌舞伎座の10月の昼の部に行ってきた。芸術祭、10月大歌舞伎は、橋之助が、八代目中村芝翫を襲名する披露興行で、橋之助の3人の子供も揃って襲名した。
当代三代目の橋之助が、平成23年に亡くなった女形の父芝翫の名前を継いで、八代目の芝翫、長男の国生が四代目の橋之助、次男宗生が三代目福之助、三男宜生(よしお)が四代目、歌之助を襲名した。先代の芝翫は、立女形として、主役を次々に演じてきたとはいえ、歌右衛門、梅幸、雀右衛門に隠れた存在で、気位はあったが、華やかさにかけ、鉤鼻が特徴の、女形としては、着実であっても、地味な役者だった。その女形の父を持つ、橋之助が、4代目の大芝翫以来の立ち役の芝翫を目指し、どこまでこの芝翫という名跡を、大きくすることができるか、今後に注目したい。昔見た必殺仕置き人で、仕置き人を演じた事を思い出した。甘い顔の青年が、芝翫を襲名する、確実に時は流れているのだ。
襲名披露興行は、襲名を寿ぐと言う、華やかで、賑やかな雰囲気があるのが普通なのだが、今回は、歌舞伎座の入口を入った右の場所に、芝翫の奥様、三田寛子が、着物姿で立って、後援会の奥様方と歓談しているだけで、襲名興行とは言え、何か何時もと変わらぬ、歌舞伎座の雰囲気で、拍子抜けしてしまった。襲名披露興行では、襲名を祝う祝祭空間に、自分も入っていく、襲名のイベントに、自分も参加する喜びに溢れているのが普通だが、今回は、私の心の中にも、京都の芸妓との浮気の報道もあり、生涯で一番重要な襲名披露興行を前に、何をやているんだという怒りもあったので、襲名を、心の底から喜ぶ雰囲気はなかったのである。ファンも、何か心から喜べない雰囲気を感じた。
幕内では当然の事と知られた芸妓との関係は、通常は、表に出る話でもないのだろうが、文春のすっぱ抜きで、世の中に出た。松竹の情報管理も不甲斐ないが、芝翫もだらしない。天皇陛下でさえも側室を持てない今の時代、女は芸の肥やし、という考え方は、もはや通用しない。文春も、何も今ではなくてもいいじゃないかと思うのだが、知ってはいても、黙っているマスコミの世界はなくなり、タイムリーなネタと言う事で大きく報道する。嫌な時代になったものだ。私だけでなく、歌舞伎座内は、芝翫の京都の芸妓との不倫騒動が、くすぶっていて、観客も、あえて、それには触れないように、遠巻きにしている様子で、どこか、よそよそしい雰囲気であった。
最初の幕、初帆上成駒宝船(ほおあげていおうたからぶね)、芝翫の3人の子供が、めでたい、富士、松などを持ち、踊る、祝祭の踊りである。3人が、せり上がってきて、登場するところは、演出の妙だが、まあ、襲名した3人の子供を、一緒の舞台に上げて、注目させる工夫である。踊り自体は、さしたることもなく終わった。踊りが上手い、という感想はなかった。この踊りの、私の焦点は、3人が、歌舞伎メイクをすると、どんな顔になるかという点と、役者としてのオーラがどの程度あるのか確認する事だったが、結局のところ、素顔が綺麗な顔立ちの長男国生がやはり、メイクしても綺麗な顔であった。美しく感じたのは、長男国生だけで、二男は不細工、三男は女形なら、メイク次第で何とかなる程度、三人の子供の内、一人でも美形がいれば、これは良しとするしかない。オーラを感じる役者はいるのかと言う点に関しては、染五郎や、海老蔵が持っていた華やかさ、オーラというものは、三人には、全く感じなかった。芝翫も橋之助時代から、華やかさはなく、地味な役者だから、襲名の四人揃ってオーラを感じなかったのは、寂しい所だ。名跡を継ぐことで、役者として一皮むけたり、ぐっと演技が上手くなるというのが、通り相場で、よく言われるが、それは、もともとオーラを持っていて、成長途中の役者が、大きな名前を襲名をすることで、一気に、二段三段と、ステップアップして光り輝き、オーラを大きく放っていくという事であろう。オーラを感じない役者の場合には、名跡を継ぐのは、必ずしも,大化けするとは限らない。さて、この先、10年、20年先、三人は、どういう役者に育っているのだろうか、見守りたいと思う。
女暫は、七之助が、まるで玉三郎のコピーのように演じた。七之助は、メイクにより、とても奇麗になる女顔だが、今日は、勇ましい扮装とは逆に、その上にのっかっている顔は、とても綺麗で、うっとりした。この幕は、女形が、暫の威勢の良さを見せ、事が終われば、途端に、女に立ち帰り、可愛くなる処が、趣向なのだが、七之助は、ここを上手く演じていて、暫を演じている時は、勇ましく、女に戻った時の声や表情が、いかにも女らしく、上手いと思った。花道での、帰路のやり取りも面白かった。玉の後は、女暫は、セブンで決まりだ。
次は、お染久松の道行舞踊だ。お染が児太郎、久松が松也、女猿曳は菊之助。舞台が終わって、ロビーの雑談で、おばさま方が、「猿曳の方が綺麗だから、久松は乗り換えちゃえばいいのにね」、と笑いあっていたが、私もその通りだと、頷きながら、思わず笑ってしまった。お染めの児太郎より、猿曳の菊之助が圧倒的に、美しく綺麗なのだ。私だって、乗り換えてしまう。無理に心中する必要もなくなるのだから。
お染は、主家の油屋が倒産の危機にあるので、養子をもらい、その持参金で、一息継ごうと言う、家は、危機的状況である。その中で、養子をもらう事を拒否し、自分が好きな番頭の久松と、心中しようと言うのだから、お染は、家より自分を優先する、恐ろしい位、自己主張する、気の強い女である。そして、お染は、久松をその気にさせるだけの絶世の美女でなければ、成り立たない。玉三郎のような絶世の美女である女形か、女形の花形役者の時分の花がないと、この役は無理なのだが、児太郎は、時分の花に恵まれない、つまるところ圧倒的な美しさを見せるだけの、顔も演技力もないから、舞台を引っ張り切れない。久松が、主家を裏切ってまでも、お染と心中しようと思う、そんな魅力的な女には、到底見えない。児太郎のお染は、ミスキャストである。菊之助が女猿曳で出たが、むしろ菊之助がお染なら、観客が、菊之助の美しさから、久松が引っ張られてしまうのは、仕方がないと思ってしまうだろう。もっと突っ込んで言えば、現在、美しさが極まる色男、久松の松也も、女形ができるのだから、お染を演じてもいいくらいの美貌である。久松の優男っぷりもいい。結局のところ、菊之助、松也の美貌の前に、美貌に恵まれない児太郎が、浮いてしまったという事に尽きるだろう。これだけ、福助の子供で、役に恵まれている児太郎が、何を演じても、大根では、もう脇に回った方がいいとさえ思う。久松の松也だが、この演目では、久松は、お染に引っ張られる役回りで、しどころが少ないが、うけの芝居で見せる顔が、いつも同じなのが、気にかかる。
最後は、いよいよ芝翫が主役を務める幡隨長兵衛である。時代物役者の当代の芝翫が、世話物の侠客長兵衛をどう演じるか楽しみだったが、見終わると、菊五郎が演じた水野の方が、ニンかなと思った。新芝翫は、世話物の役者ではないという事になる。時代物なら、役そのものが性格付けも固定されているので、ニンに合わせて、演じても、それなりに見えるので、問題ないだろうが、世話物は、自分で、役を作っていかないと駄目なので、人物設定が、難しいのだ。
江戸の顔役、といっても、やくざの頭である。大勢の子分達のトップに君臨する威厳、押し出しも必要だろう。喧嘩の立て曳きのプロでなくてはならない。喧嘩を上手く、まあるくまとめるのも、仕事のうちだろう。表には出ない、様々な揉め事もあるし、色と欲、更には金が絡んだ危ない場面を、何度も踏んだであろう。同じ商売の同業者との付き合い、役人との付き合い、すべて表向きは、一応命がけだが、いちいち死んでいては、商売にならないから、清濁併せ飲まなくてはならない。長兵衛には、こうした、ただ威厳があるだけでなく、人間的な強弱が、必要な役だと思う。舞台上は、任侠の頭で、大勢の血の気のあふれた子分がいる。女房がいて、可愛い子供もいる。その中で、自分が面倒を見ている、歌舞伎小屋の、武士との揉め事を、納めないといけない。相手は、旗本白塚組の水野様だ。揉め事から暫くして、水野から案内が来て、家で仲直りをしたいので、来てほしいと、連絡が入る。病気で行けないとか、代理人を行かせるとか、別の方法もあっただろうが、長兵衛は、殺されても、招きの応じないと駄目だと、意地を通そうとする。時代物なら、これが運命と演じればいいのだが、世話物は、そうはいかない。リアル人間がいる、回りには、人間群像がある、人と人との関係性がある、人情や愛情がある、芝翫の長兵衛には、そのあたり淡白で、悲劇が自分だけで終わり、周りを巻き込まないのが難点だ。子分との関係は薄く、女房との突然の別れなのに、別れの悲しさが出てこない、子別れもそう、子供を抱きしめて、家に中に入れるだけ、段取りだけで、愛情が感じられない。つまるところ世話物の長兵衛になっていないのだ。芝翫芝の演じる長兵衛は、なぜか時代物の長兵衛であり、意地を通すことが、そのまま家族崩壊になると言う、江戸時代の封建制下での悲劇が、現代に繋がらず、悲しさを呼び込まない。まるで時代物の英雄になってしまっている。もっと内面的に、生き方の苦悩を見せないと駄目なのかと思う。最後、湯殿での、水野との立ち合いは、水野役の、菊五郎に、五分に渡り合えず、力負けしている。東蔵が、近藤登之助役で、付き合っているが、老け女形の侍役は、無理だろう。雀右衛門の女房お時も、情が薄いと感じた。