2016年10月14日(金)『国立劇場歌舞伎公演、仮名手本忠臣蔵』
昨日、チケットを取った国立劇場の歌舞伎、仮名手本忠臣蔵を見に行く。国立劇場の開場50年を記念して、10月から三か月連続で、仮名手本忠臣蔵の、完全、全幕公演を行うのだが、その第一部の公演である。。
出演者の顔ぶれを見て、50周年記念公演の割には、演者が薄いなと感じていたが、梅玉の判官、由良之助は幸四郎だった。いつもは出ない、二段目桃井館力弥使者の場、松切りの場、三段目の裏門の場、四段目,扇ケ谷塩谷館花献上の場、が演じられるので、興味深く、観に行った次第である。
10時50分から、人形による出演者の紹介が行われた。江戸時代は、こうして役者を、紹介したと聞くが、現在、忠臣蔵だけでしか見ることができない演出である。「ゆるーりとご覧ください」と言いながら、首がぐるっと回るのは、いつみても、おかしい。
拍子木が、47回たたかれ、幕が、ゆっくり、ゆっくりと、開いて行く。普段より、4倍くらい遅く、静かに静かに、開けていく。幕が完全に下手に引かれると、鶴ヶ丘社頭兜改めの場の、登場人物が、全員を頭を下げ、魂が入らない人形のように、うなだれている姿が、目に入ってくる。衣装の色合いが、美しく、社殿までの遠近法を使った舞台装置、紅白に彩られたその遠景も、ゆっくり姿を現すと、視覚的に、これから始まるドラマの進展に、ワクワクする気持ちが湧いてくるから不思議だ。
直義の役の松江の声が高すぎて、辛い。若く、高貴な役を演じようとしすぎるのではないか。変な抑揚もあるし、普通でいいと思った。仮名手本忠臣蔵で、一番最初に台詞を言うわけで、忠臣蔵を、二、三百年前に当たる足利時代という時代を想定した、時代の雰囲気を、言葉で表せる、力量が、直義を務める役者には、必要だと思う。
幕がゆっくり開くと、若狭之助は錦之助、判官が梅玉、白塗りの美しい顔が、並び、歌舞伎の美しさを見せるし、見るから悪人顔をした師直の左団次の憎々しさが舞台を引き締める。歌舞伎世界の常道、正義と悪の対決という、忠臣蔵の一つの主題が、はっきりと、観客に分からせるように、視覚的に、ストレートに見せた芝居だった。
忠臣蔵の面白さは、見るたびに、発見があると言われる。江戸時代から、劇場が、不入りの時には、忠臣蔵さへ出せば、客が入ると言われる位の人気狂言である。様々なストーリーが、刃傷から討ち入りまで、1年余りの短い時間経過の中で、展開され、それぞれが錯綜し、時には笑いあり、涙がある。観劇する者にも、共感できるところもあるし、反発するところもあり、我が事に降りかかった同じ境遇の物語もあり、毎回見る度に、発見がある芝居である。特に、殿様の、刃傷という、一つ行為が、その後、家来はじめ、塩谷家だけでなく、他家の人間も巻き込んで、様々な人物に、影響を与えていき、運命が変わり、時には、死んでいく。縁と言えば縁、縁にも良縁と悪縁がある。因果応報と考えれば、因果が、あちこちを巡っていく。塩谷判官の、短気なふるまいにより生じる、人間関係のスリリングさが、忠臣蔵の面白さだと、今回私は思った。
仮名手本忠臣蔵では、事の発端が、判官の妻の顔世御前への、師直の横恋慕にあるというのが、面白い所だ。忠臣蔵には、様々な愛がちりばめられている。四段目まででも、判官と顔世御前の愛、師直の顔世御前への横恋慕、勘平とお軽、力弥と小浪、小浪と戸無瀬、判官と力弥の愛を数えることが出来る。更に、判官と大星、桃井と加古川本蔵、判官と斧九太夫の、主従関係とは何かも考えさせられる。主従の愛も交えた愛情が絡んで来るのが面白い所だ。こうした愛情関係が、様々に絡み合いながら、ストーリーが展開する。観客には、その中に、我がことと重なる愛情関係を見い出し、忠臣蔵を親しく感じるのではないかと思う。
舞台に戻ろう、今回一番うまいなと思ったのは、判官を演じた梅玉である。終始感情を押し殺して、6万石の大名という矜持を維持し続けたことが大きいと思う。梅玉のニンと、判官の役が、ぴたりと合っていることが一番大きいと思う。梅玉が余計な芝居を、何もしないことが、歌舞伎のこの判官の役には重要で、テレビや映画なら感情の起伏が激しい判官も必要とするが、歌舞伎では、大名の藩主という威厳、品格をどう見せるかが大事で、語らずとも、藩士への思いを見せる。藩主がそういう人だから、家臣が一丸となって、師直の首を取りに行くのだろうと、観客に思わせないといけない。短気な馬鹿殿様では、馬鹿馬鹿しくて藩士は、命を懸けて討ち入りまではしないだろう。家臣への思いが深い、名君として、家臣団の頂点に立つ、殿様であるから、家臣たちは、家族を捨てて討ち入りをするのである。塩谷判官には、台詞を言わなくても、こうしたイメージが大切なのである。松の廊下で、ねちねちと絡まれても、内心メラメラと怒りを増しているはずだが、顔色を変えず、耐えている処に、悲壮感を感じ、悲劇性が一段と増す。切腹の場でも、黒門付き姿で、言いたいことはたくさんあったはずだが、一言、「加古川本蔵に抱き留められ」というだけ、ここも覚悟を決めて、顔色をかえず、一言、言うに留まる。大名の殿様の尊厳を最後まで失わず、顔色を変えず、姿そのもので、悲劇性を増して見せてくれる。忠臣蔵の世界に我々観客を誘い、引っ張っていく、梅玉の存在は大きい。切腹したあと、由良之介はまだか、という場面でも、オーバーに、言うことなく、淡々と、言う所に、大名の殿様の悲劇性が出る。大星が、やってくるのは、どこの場面化、芝居を長年見ていれば、当たり前のように知ってはいても、もう間に合わないかもしれないという、残念さ、無念さが、体から訴えかけてくる。すばらしい判官である。
幸四郎の由良之助は、何回か見ていて、やはり安定感があるが、梅玉と異なり大袈裟な芝居をしすぎるきらいがある。ここは、検視役がいるのだから、(敵を取る)と、胸を叩くところも、大向こうに見せつけ過ぎて、大袈裟である。形見(かたみ)の刀、敵(かたき)の刀、と、かけて判官が、死の直前に由良之助に訴えるが、ここで、敵を討つと、大芝居を打ったのでは、そのあとが続かないではないか。由良之介は、あくまで策士であるのだから、ひっそりと演技するべきではないかと思う。
秀太郎の顔世御前、年齢的に大丈夫かと、始めは思ったが、品と艶を兼ね合わせていて、まことに結構。高家筆頭で、有職故実を知り尽くしている師直が、顔世御前の色香に迷うだけの色っぽさが秀太郎にあり、下品にもなっていないのに驚いた。
2000石の知行をもらっている斧九太夫が、「由良之助ばかり言って、斧とも九太とも言ってくれない」という言葉が、今回は耳に強く残った。九太夫としても、己のベストを尽くして、判宮に使えてきたのに、いざと言う時に、判官の信任は、自分にはなく、由良之助にあったという無念な気持ち、無力感、信用されていなかった悲しさ。これが引き金になり、悲しさを通り越して、怒りに転嫁して、この怒りが師直のスパイになったというのが、今回分かった。悲しさが恨みに転嫁し、スパイとなろうと、増幅されたのである。殿様が何もしなければ、家老として、そつなく仕切り、我が子が自分の後を継ぎ、家老として、無事に塩谷家に仕えたであろうに、バカ殿さまのお蔭で、平凡な家老の命運も変わってしまったのである。このあたりを、錦吾が上手く演じていた。判官への愛情が、急激に憎しみに転じたのである。新しい発見であった。
力弥の隼人は、綺麗で、美少年役には、うってつけだが、判官の稚児としてかわいがられ、愛されてもきたのだから、もっと柔らかさが欲しかった。切腹の刀を持っていくところで、主従が、対面して、目を合わせるのだが、顔を振りすぎ、判官が、じっと目を見つめているのだから、判官の眼を見ながら、一度、主君が死ぬなんて嫌だと、首を振ればいいのではないか、後ろから見ていて、演技し過ぎで、型通りに務めているのだが、役が心に入っていないのではないかと思った。情を交わした主君との最後の別れの場なのである。小浪との濡れ場も、淡白で、柔らかさがない。小浪の米吉は、幼いイメージが目立ち、りりしい所が欲しかった。
師直の左団次も何回も見ていて、見るから憎々しいのだが、上から目線で、一方的に、言葉で責めるが、もう少し、気品のある役なのだから、責めたら、引いて、又又じわじわと責める、苛めのいやらしさが出るといいいなと思った。直球勝負で攻め続けるのではなく、押しては引いて、じわじわといじめのレベルが上げ、それにつられて、判官の怒りが、燃え上がり、ついに刃傷に及ぶ、その過程が出てこないのではないかと思った。
団蔵の本蔵は、さすが大家の家老職、若狭之守の怒りを、上手に聞いて、ではバッサリと、松を切り、つまり師直を切っておしまいなさいと、藩主に同意し、そそのかしながら、殿の気持を静めるあたり、冷徹な家老職を見せた。この後すぐに、殿のため、いや、お家を守るための行動に移る。殿が刃傷に及べば、お家は取り潰し、殿は切腹、家臣は、解雇され、武士の職を失い、露頭に迷ってしまう。ここは、賂で、納めるしかないという判断力、実行力に、大半の大藩の家老職の手ごわさを感じた。もし由良之助が、江戸にいて、塩谷判官の怒りを聞いたなら、同じようにしたのではないかと思う。知性があり、大藩の家老職として、常識的な判断力と、実行力を持つ本蔵。もし由良之助と立場が入れ違ったとしたら、本蔵は浪士を集めて、師直の首を取った事だろう。本蔵と、由良之助、同じ大名家の家老が、仮名手本忠臣蔵で、同格に扱われている事が、今回の通し公演で、よくわかった。本蔵は、由良之助と、五分に渡り合う位置付けなので、それに耐える役者が必要なのである。団蔵の今回の堂々とした家老の演技を見ていると、山科閑居の場の本蔵も十分に行けると思った。