2016年12月4日(日)『12月歌舞伎座、第三部、二人椀久、京鹿子娘五人道成寺』
歌舞伎座の12月は、三部制となっていて、第三部は、玉三郎と勘九郎で、二人椀久。そして玉三郎、勘九郎、七之助、梅枝、児太郎の五人で、京鹿子娘五人道成寺が、今日の演目だった、三部制で、一等席は1万五千円。第三部は、二人椀久と京鹿子娘五人道成寺の踊りの二本立て、踊りだけで、一万五千円とは、高いのか安いのか、後で話そう。
最初の、二人椀久は、舞台に大きな松の木が一本だけの簡潔さだった。勘九郎の椀久は、体が硬く、夢の物語の感じがまるでしない。この世の物語ではない、幻想的な雰囲気が出ないので、玉三郎が出てくるまでは、つまらなかった。玉三郎が暗がりの中、左奥のスッポンから出てきて、前に歩み、椀久と絡むと、ようやく面白くなってくる。玉の松山が、美しくて、あどけなく、今日の松山である。これまで、玉と仁左衛門、雀右衛門と富十郎で、観たが、松山の相手の椀久に、華がないと、この幻想的な芝居は成立しないのである、勘九郎には、その華が感じられない。骨ばった頬骨が目立つだけである。勘九郎には、富十郎のように踊りのうまさはない、結局、玉三郎の美しさだけを観るに終わり、二人椀久の幻想の世界には、誘ってもらうことができないまま、舞台は終わってしまった。
二つ目は、五人道成寺、玉三郎を中心に、勘九郎と七之助兄弟、梅枝、児太郎の5人での道成寺である。二人道成寺は、玉と菊、玉と七で見て知っているが、五人道成寺は、見たことがなく、一体どう割り振るのか、楽しみでもあり、一抹の不安もあった。
道行は、七之助だった。頭からは、玉三郎は出てこないだろうと思ったが、案の定、予想通りだった。七之助の道成寺は、以前見た記憶がある。道行は初めてだったが、順調な入りだった。女形の七之助には、華と色気があり、上々の滑り出しだった。途中、スッポンから勘九郎が登場、二人で踊るが、立ち役の勘九郎と、女形の七之助が同じフリで、踊っていても、どこか違う、女形と立ち役の差であろう。踊りが、早くなり、ぴたりと決まる場面では、勘九郎は、ぴしっと綺麗に形が決まる。七之助は、憂いを秘めているのか、媚びているのかは知らないが、ゆっくりと決まる。その違いが、よく分かった。ただ勘九郎の顔が、ちょっとコミカルカルなのが、印象に残った。七之助が、余裕をもって踊っているのに、勘九郎は、顔の表情一つとっても、硬質で、自然な表情がなく、少しとぼけたようなメイクに見える顔が、澄ましているようにも見え、ロボットのようにも見え、自然な表情には見えなかった。七之助が烏帽子を置きに、袖に隠れると、紅白の幕が上がり、ようやく玉三郎が現れる。観客は、やっと玉三郎が出てきたと、大喜び、拍手がひときわ大きい。じわが寄る。綺麗で、大きくて、若くて、美しい。このまま玉三郎だけで、道成寺が進めばいいと思ったのだが、そうもいかない、引き抜きが終わると、ようやく5人が揃って踊るようになった。私は、玉三郎しか見ていないのだが、玉が5人の中で、突出していなくて、玉自らが、他の4人に合わせて、余裕を持って踊っていたので、五人のボリュームが揃い、圧巻の舞台になった。5人の真ん中に立って踊る玉三郎が、一番若く見えて、超絶的に美しいのは、何故なんだろう、と心の中で思った。玉三郎ファンだからの特別な感情なのだろうか。二人道成寺では、一緒に踊る菊、七を立てて、玉三郎は、一歩引いて踊っていたが、今回は、4人を立てて、踊っている、それでも、5人の中で、一番美しく、華やかである。前から四席目の中央なので、5人を一緒に見ることができず、私は、それならばと、玉三郎しか見なかったのだが、観客の大方も、玉しか見ていなかったのではないだろうか。とはいえ、玉が出過ぎず、バランスのとれた舞台になったようだ。梅枝は、瓜実顔で美しいはずなのだが、今回は、顔がでかく感じ、まだ踊りに余裕を感じられなかった。七之助は、すでにピンで道成寺を踊っている訳で、余裕を感じた。だが玉三郎の美しさには、まだかなわない。児太郎に至っては、一番若く華があるはずなのに、一人だけ、格が違うように見えた。玉と一緒に、福助の息子とは言え、舞台に立っているのが恥ずかしい位下手に見えた。4人に比べ、花形として、個体の美貌がないのが原因の一つで、踊りも下手だった。
ひときわ大きな拍手が送られ、五人道成寺は終わったが、帰りを急ぐ観客は、口々に、「玉三郎は、綺麗ね、一番若くて美しい、化け物ね」とか、「玉三郎だけで道成寺見たいわ」と言う話が、あちこちで聞こえた。一案辛辣だったのが、「児太郎は、綺麗じゃない、歌舞伎を止めたら、いいのに」と言う客だった。いつかは、児太郎が娘道成寺は、一人で踊る日が、なん十年か先にあるだろう。私は生きてないが、その時、観客は、何というのだろうか。児太郎には、芸の力で、恵まれない容姿を補って欲しいと、願うばかりである。
結局、五人娘道成寺とは、何の意味があったのだろうか。若手花形で、ピンで道成寺ができるのは菊之助と七之助しかいない中で、若手に経験を積ませたいと、松竹が思ったのかどうかは分からない。玉三郎が一人で、道成寺を踊り切る力がなくなっているのかもしれない。玉三郎の集客力で、若手花形4人を加え、5人で道成寺を踊れば、玉三郎の負担も少なく、松竹も潤う、そして花形も経験を積める。そんなところであろう。玉三郎が、四人に合わせて、一歩引いて踊り、五人娘道成寺は、バランスの取れたそれなりの舞台にはなったが、観客が満足する舞台ではなかった。観客は、玉三郎ピンの、娘道成寺を観たいのだ。苦肉の策ではあろうが、積極的な舞台ではなく、玉三郎の魅力が、完全に発揮できた訳ではない。玉三郎の肉体の衰えを、若手で補うという考え方はいかがなものだろうか。観客は、現在のベストを歌舞伎に期待しているのだ。高い料金を払って観にきているのだから、当然のことだ。玉の突出た美しさを、後世に残すためには、女形の実力者、魁春、時蔵、雀右衛門と組ませて、四人道成寺を踊ったら、どうであろう。観客は、大喜びをすると思うし、玉もエネルギーを燃やすかもしれない。などと夢想しながら、帰路についた。美しい玉三郎を少しの時間だが、楽しませてもらい、結局、第三部の、15000円は、お得だと思った。