2017年2月8日(水)『国立劇場開場50周年記念文楽公演、平家女護島を見る』
国立小劇場で、文楽、平家女護島 (へいけにょごのしま)を見た。歌舞伎では、俊寛で知られた演目である。私は、文楽でも歌舞伎でも、通しで見たことはないが、今回、歌舞伎と、文楽が、どう違うか、注目して観に行った。
今回は、六波羅の段が出た。鹿ケ谷の陰謀が露見し、俊寛はすでに、喜界が島に流されている。その俊寛の奥さんの、あずまやを、清盛が好きになり、妾にしたいと、教経を派遣するが、教経は、あずまやに、貞女の道を選ぶように促す。あずまやは懐剣で、自殺し、教経は首を切って、清盛に持参する。教経は、「あずまやの心を知らず、美しい顔に惚れたのなら、顔以外は、無用なはず」と言うと、清盛は憮然とする、と言う筋だ。
歌舞伎の俊寛だけを見ていると、喜界が島で、瀬尾が、「お前の奥さんのあずまやは、清盛に殺された」とだけでてきて、あずまやが自殺したという話は出てこない。この幕で、あずまやは、清盛に殺されたのではなく、女の操を守って、自害した事が明らかになった。俊寛に、お前の女房のあずまやは、お前に操を立てて自害した」と言ってしまえば、その時点で、俊寛の心は、絶望に変わり、生きる希望が無くなるので、歌舞伎では、あえて、言わないのかもしれない。平家方にも、敵役の清盛に対し、心ある教経を配したところが、いかにも、二者対立の劇術と言う感じがした。
鬼界が島の段は、歌舞伎とどう違うのか、注目してみた。俊寛の出が、歌舞伎は、下手の岩陰から出て来るが、文楽では、上手の海原を前にした砂浜を、ゆっくりと歩いてくる。康頼は岩を伝って降りてくる。舞台に、庵はない。千鳥は、歌舞伎と同じで、裸では出てこないで、町娘姿で出てきた。やはり歌舞伎同様に裸では、登場はしないのだ。義太夫の語りとは、違っている。
歌舞伎の俊寛の面白さは、赦免を巡って、高僧の俊寛が、泣き叫ぶところが面白いのだが、文楽はこの辺の面白さがない。更に瀬尾が、俊寛に、いかにも憎々しい言い回しをするのだが、この憎々しさが、文楽にはないので、盛り上がらない。文楽より、歌舞伎の俊寛の方が、断然面白いと思った。
舟路の道行より敷名の浦の段は初めて見た。御座舟に清盛と後白河法皇が乗り、清盛が、のちのち清盛追討の院宣を出されてはたまらないと、後白河法皇を海に投げ捨てるシーンが出てきて驚いた。法皇は、海女の千鳥に助けられるが、千鳥は、清盛に踏みつけられて死に、その亡霊が、清盛に取りつくところで、芝居は終わる。平清盛が徹底して、悪人として描かれる、船から後白河法皇を海に落とすシーンがあり、江戸時代の戯作者と観客には、天皇の権威などは、特に関心はなく、皇族が、時の権力者に殺されても、恐れ多いとは感じていなかった処が窺がえ、凄いと思った。観客にとっても、幕末なら露知らず、天皇の存在は、ほとんど関心がなかった事が分かる。天皇の存在すら知らなかったのではないかと思った。今なら、恐れ多くて,こんな芝居は書けないはずで、知らないから上皇を海に投げ捨てるなんて事が芝居になったのだろうと思う。
歌舞伎の俊寛の芝居だけ見れば、高僧の俊寛の赦免を巡る、複雑な思い、その時その時、刻々と動いて行く心理、表情の変化が面白い芝居だと思うので、文楽より、歌舞伎の方が、断然面白く感じた。