ないことの喜び
2018年4月1日
ルカによる福音書23章56節ー24章12節
絶望の日。
何のためにあるのか。
そんな日が人生にどうして必要なのか。
ルカは、それは準備の日だと言う。
何を準備するのか。
ガリラヤから主イエスと共にエルサレムに入った婦人たちは遺体の処理の準備をしに墓に向かう。
ところが墓には遺体がない。
私たちは「死」は紛れもない事実だとし、
「死」には誰も打ち勝つことはできないと考えている。
それは生きている者が止まるということが起こるから。
死体があるから。
死体こそが「死」の証拠だとする。
その遺体が、証拠がない。
本当に「死」はあるのか。
「死」は絶対の力を持っているのか。
絶望の日。
何のためにあるのか。
主の遺体がないことに慌てた婦人たちは途方に暮れる。
その時、墓の中にいた天使たちが「なぜ生きておられる方を死人の中に探すのか」と問う。
絶望をした人間、失敗をした者、罪を犯した者、
彼ら、私たちが探す未来とはどういうものか。
絶望、失敗、罪、その結果の中で、敗北者として、荒野の中で、
かろうじてある残骸の中から「これから」を探そうとする。
自分にあるものはもはやこれだけ。
自分に許されているものはもはやこれが限界。
「なぜ死人の中に生きている方を探すのか」天使の言葉は
「探している場所が違う」と言っている。
昨日の結果の中に今日を、明日を探すのではない。
かつてガリラヤにいた時、主イエスは「死んで甦ると語ったではないか」。
すでに語られていたこと。
すでに神はなんと語ったか。
世界の一番最初になんと言ったか。
「光あれ」その光を見て神は「良し」と言われた。
この世界は良いと言われた。
私たちは信じることができないかもしれない。
それはイエスの弟子たちとて同じこと。
信じられない。
ただ準備をした婦人たちはその準備がなんのためだったか知らされた。
過去の整理の準備、敗北の後始末ではない。
神が良しと言われた世界でありったけの未来を探す。
絶望はその日に至る準備。
私の過去がどのようなものであっても、遠慮はいらない。
十字架。罪の贖い。
昨日まで私は洗い流されている。
死んでいる。
昨日と私は違う。
良い世界に生まれた良い者である。
イースター、主イエスの復活。
それは私たちのさきがけ。
過去に支配されない新しい私が、今日、生まれる。