Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 226 (07/12/22) 久米村 (5) Kumoji Area 久茂地

2022.12.08 14:50

久米村 久茂地 (くもじ、クムジ)



12月に入っても天候は不安定で、雨の日が多い。今日は曇り時々雨の予報なので、近場の那覇市内の久茂地を訪問する。



久米村 久茂地 (くもじ、クムジ)

元々の久茂地は旧松下町の東側に接し、久茂地川に沿って延びている町だった。琉球王統時代の久茂地は久茂地川の湿地地帯で、内兼久辺りに人家が点々とあっただけだったが、第二尚氏第10代国王の尚室 (在位1648年 - 1668年) の時代、1667年 (寛文7年) に、紫金大夫金正春 城間親方が、王府の許可を受けて、その湿地地帯を埋立開拓して久米村の分村とした。昔は久茂地久米村とも呼ばれていた。その後、現在では場所ははっきりしないのだが、当時存在していた普門寺 (フムンジ) があった事から普門寺村と呼ばれていた。普門寺は第一尚氏第6代国王尚泰久 (在位1454年 - 1460年) が建立、茶隠和尚が開山し、慶長年間 (1596–1615) 頃まで存在していたと考えられる。第二尚氏第13代国王尚敬王 (在位1713年 - 1751年) の時代、1735年 (享保20年) に久米村から王府に願い出て普門寺村から久茂地村に改名されている。久茂地村 (クムジ) は普門寺 (フムンジ) から転訛したとも言われている。この頃に那覇四町や久米村から久茂地村に移住が始まり、久茂地村は急激に人口が増加している。久茂地には表具師、玩具製造、飾職、飛白結等をはじめ、指物、線香製造、粉挽等の小職人が群居し、那覇経済の中心となっていった。大正2年に久茂地町一丁目と二丁目に整理されている。戦後は街並みも変わり、オフィス街になった。昭和46年に土地区画整理により、久茂地一丁目と久茂地二丁目に改められている。

現在の久茂地三丁目はかつては美栄橋町だった。琉球王統時代には普門寺潟原 (フムンジカタバル) 又は内潟原 (ウチカタバル) と呼ばれる干潟地帯だった。第二尚氏第13代国王尚敬王 (在位1713年 - 1751年) の時代、久茂地長寿寺前から安里崇元寺前まで長虹堤を構築した際の1733年 (享保18年) に、那覇四町と久米村の住民総出で、内潟原 (ウチカタバル) の湿地帯を埋め立て、久茂地川には石橋が架けられた。埋立地は久米村の属地として美栄地 (ミージ)、石橋は美栄橋と名付けられ、久茂地川端の東一帯は新村渠 (ミンダカリ) と呼ばれる様になった。埋立地には道路も整備されて住宅地となり移住者が増え、一時期は久茂地村よりも多かったが、その後、衰退して真和志間切に吸収された。明治12年廃藩置県当時は真和志間切の楚辺原の一部で楚辺原 (ソベバル) と呼ばれていたが、明治29年に那覇区に移管され、明治41年に字楚辺となっている。大正2年に字楚辺は美栄地町 (ミージ) となり、大正3年に更に美栄橋町に改められている。戦後、美栄橋は久茂地に属し、昭和46年久茂地三丁目に変更されている。

戦前には大正8年に東村から県庁が移転し、行政府、専売局、国場土木請負製材所、日高製材所、電気会社などが久茂地川沿いに並んでいた。戦後、琉球行政府、立法院、裁判所、検察庁、警察局、那覇警察署、武徳殿、那覇保険所、赤十字病院など行政施設が立ち並び、民間会社の多くがこの地にオフィスを構えていた。戦前までは東町が行政、商業の中心地だったが、戦後は美栄橋町に移っている。

久茂地の人口についても1960年以前のデータが見つからず戦前はどれほど人口を抱えていたのかは分からない。ただ、戦前には那覇の中心部だったので、1960年以降の人口よりはもっと多かったと思われる。1960年以降では1969年の約4000人がピークでそれ以降は減少に転じ、現在ではピーク時の四割まで落ち込み、減少傾向は今でも続いている。那覇の中心である事からオフィスが多く、地価も高く住居地としては不向きになっている。世帯あたりの人数も1.6人と非常に低い。


久茂地訪問ログ



御成橋

沖縄県庁近くゆいレールの県庁前駅付近久茂地川に御成橋が架けられいる。

かつては浮島への木橋だった。大正10年、昭和天皇が皇太子裕仁親王の時、欧州外遊の際に沖縄を訪問し、県庁に向かう途中にこの橋を渡ったられたことにちなんで命名された。欄干には、那覇市の首里城正殿や那覇大綱挽きの旗頭のデザインが施されている。

この辺りは現在の久茂地町一丁目で御成橋を曲って、泉崎橋下に出ようとする、曲角一帯を東の先 (あがりのさき) と呼んでいた。久茂地はかつては久米村の属地で、久米村から見て東の出端に当っている事からこう呼ばれていた。ちょうど、久米村と久茂地村の境になる。先日、久米村訪問した際に見た財之神 (セーヌカミ) が久米村側の境にあった。


旧那覇役所跡

久茂地川沿いに旧那覇役所跡の案内板があった。琉球王国時代、港町として発展した那覇は、那覇四町とも呼ばれ、東村、西村、若狭町村、泉崎村の4つの村からなり、各村に役場が置かれたが、那覇全体を統括する役所として親見世があった。1879年 (明治12年) の沖縄県設置により、旧那覇里主所に親見世役所が設置され、那覇四町の他に、久米村、泊村の行政も併せて管轄した。翌年1880年 (明治13年) に親見世役所は那覇役所と改称された。那覇役所及び7ヵ村の役場は、「里主所前御余地」と呼ばれた。久茂地川沿いの材木等の荷物置き場 (敷場) があったこの場所に建てられた長屋に置かれ、西・東・泉崎・若狭町・久茂地・久米・泊村の順に、一室ずつ割り当てられた。1893年 (明治26年) 頃、那覇役所は、東村の旧天使館跡に移転し、1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲に至るまで、同地にあった。那覇役所が移転した後の長屋は、沖縄で初の新聞の琉球新報の印刷工場として、1903年 (明治36年) から1937年 (昭和12年) まで使用された。終戦後、同地一帯は米軍により敷きならされ、軍道1号線 (現国道58号) として整備された。


久茂地橋

御成橋から久茂地川を上流に進むと久茂地橋が架かっている。久茂地川を通っている久茂地橋通りの北側は、昔は嘉地という小字だった。称している。古くは、久茂地、嘉地の対立は恰度泉崎と湧田のそれと同様で、那覇大綱引きの村わけの時には、久茂地、湧田は東村に参加し、嘉地、泉崎西村に加勢した。

かつての久茂地橋の写真があった。


那覇大阿母屋敷跡

久茂地橋の南側に琉球王国の女神官の一人だった那覇大阿母 (ナファウフアム) の屋敷跡が置かれていた。那覇大阿母は浜の大阿母とも呼ばれ、高級神女の真壁大阿母志良礼 (マカンウフアンシタリ) に属していた。嘉清年間 (1522 ~ 1566年)、錢氏与那城親雲上直方の娘の真牛金 (モウシガニ) は貞女との評判から、国王尚清に召され、国王の王子の養母となり、那覇士族の女性の頭となり、この時、那覇大阿母に任じられた。那覇大阿母は、代々那覇士族の婦女から選ばれ、楚辺大阿母、泉崎大阿母とともに那覇地域の祭祀を司どった。また、中国への進貢船出船の際は、両大阿母とともに三重城で、航海の無事を祈願した。1879年 (明治12年) の琉球処分後、那覇大阿母職は廃止され、屋敷地は1911年 (明治44年)、久茂地尋常小学校創設に際し、学校用地に組入れられている。


久茂地尋常小学校跡

那覇大阿母屋敷があった場所一帯は1911年 (明治44年) に久茂地尋常小学校の敷地の一部に組み込まれた。久茂地尋常小学校 は1941年 (昭和16年) には国民学校令により久茂地国民学校と改称され、1944年 (昭和19年) 10月10日の那覇大空襲で焼失。戦後、1951年 (昭和26年) に久茂地初等学校校として再開し、その後、久茂地小学校となったが、2014年 (平成26年) に学校統合によって閉校となった。小学校跡地には那覇文化芸術劇場なはーとが建設されている。

この工事の際に発掘調査が行われて、焼けた土の層の下から久茂地尋常小学校の遺構と見られる建物の基礎となる礎石の列や排水溝や水場の跡が見つかっている。沖縄で、尋常小学校の遺構が見つかったのは初めてだそうだ。


美栄橋

久茂地を上流方向に進み、久茂地の北の端、久茂地と牧志との境に美栄橋がかかっている。現在の美栄橋は久茂地川とここで分岐する潮渡川の二つの川に三つの橋が架けられている複雑な形になっている。三つとも美栄橋なのだが、昔の美栄橋はこの場所ではなく少しだけ久茂地川の下流側に架けられていた。

かつての長虹堤の7つの橋の一つである美栄橋になる。ゆいレール美栄橋駅前広場には新修美栄橋碑が建っている。長虹堤建設後、那覇が発展して行くに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまった。そこで、川を浚え、橋を架け替えることになり、1735年 (雍正13年) に着工し、翌年に竣工ている。その経緯を記してあるのが、この新修美栄橋碑だ。碑文にはエ事に要した費用などが記載されている。その後、美栄橋は1892年 (明治25年) に改修されたが、沖縄戦で破壊されてしまったが、この碑は消滅を免れて、現在地に移して保存されている。

戦前の美栄橋

戦前の美栄橋は美栄橋駅の那覇方面に少し行った所にあった。


前回は東町、通堂町、西、福州園 (久米村) と多くを巡り、訪問記の編集にかなり時間がかかってしまったので、今日は久茂地だけとし、残りの時間は図書館で調べものの時間にあてた。



参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)