Okinawa 沖縄 #2 Day 226 (07/12/22) 久米村 (5) Kumoji Area 久茂地
久米村 久茂地 (くもじ、クムジ)
- 御成橋
- 旧那覇役所跡
- 久茂地橋
- 那覇大阿母屋敷跡
- 久茂地尋常小学校跡
- 美栄橋
12月に入っても天候は不安定で、雨の日が多い。今日は曇り時々雨の予報なので、近場の那覇市内の久茂地を訪問する。
久米村 久茂地 (くもじ、クムジ)
戦前には大正8年に東村から県庁が移転し、行政府、専売局、国場土木請負製材所、日高製材所、電気会社などが久茂地川沿いに並んでいた。戦後、琉球行政府、立法院、裁判所、検察庁、警察局、那覇警察署、武徳殿、那覇保険所、赤十字病院など行政施設が立ち並び、民間会社の多くがこの地にオフィスを構えていた。戦前までは東町が行政、商業の中心地だったが、戦後は美栄橋町に移っている。
久茂地訪問ログ
御成橋
沖縄県庁近くゆいレールの県庁前駅付近久茂地川に御成橋が架けられいる。
かつては浮島への木橋だった。大正10年、昭和天皇が皇太子裕仁親王の時、欧州外遊の際に沖縄を訪問し、県庁に向かう途中にこの橋を渡ったられたことにちなんで命名された。欄干には、那覇市の首里城正殿や那覇大綱挽きの旗頭のデザインが施されている。
この辺りは現在の久茂地町一丁目で御成橋を曲って、泉崎橋下に出ようとする、曲角一帯を東の先 (あがりのさき) と呼んでいた。久茂地はかつては久米村の属地で、久米村から見て東の出端に当っている事からこう呼ばれていた。ちょうど、久米村と久茂地村の境になる。先日、久米村訪問した際に見た財之神 (セーヌカミ) が久米村側の境にあった。
旧那覇役所跡
久茂地川沿いに旧那覇役所跡の案内板があった。琉球王国時代、港町として発展した那覇は、那覇四町とも呼ばれ、東村、西村、若狭町村、泉崎村の4つの村からなり、各村に役場が置かれたが、那覇全体を統括する役所として親見世があった。1879年 (明治12年) の沖縄県設置により、旧那覇里主所に親見世役所が設置され、那覇四町の他に、久米村、泊村の行政も併せて管轄した。翌年1880年 (明治13年) に親見世役所は那覇役所と改称された。那覇役所及び7ヵ村の役場は、「里主所前御余地」と呼ばれた。久茂地川沿いの材木等の荷物置き場 (敷場) があったこの場所に建てられた長屋に置かれ、西・東・泉崎・若狭町・久茂地・久米・泊村の順に、一室ずつ割り当てられた。1893年 (明治26年) 頃、那覇役所は、東村の旧天使館跡に移転し、1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲に至るまで、同地にあった。那覇役所が移転した後の長屋は、沖縄で初の新聞の琉球新報の印刷工場として、1903年 (明治36年) から1937年 (昭和12年) まで使用された。終戦後、同地一帯は米軍により敷きならされ、軍道1号線 (現国道58号) として整備された。
久茂地橋
御成橋から久茂地川を上流に進むと久茂地橋が架かっている。久茂地川を通っている久茂地橋通りの北側は、昔は嘉地という小字だった。称している。古くは、久茂地、嘉地の対立は恰度泉崎と湧田のそれと同様で、那覇大綱引きの村わけの時には、久茂地、湧田は東村に参加し、嘉地、泉崎西村に加勢した。
かつての久茂地橋の写真があった。
那覇大阿母屋敷跡
久茂地橋の南側に琉球王国の女神官の一人だった那覇大阿母 (ナファウフアム) の屋敷跡が置かれていた。那覇大阿母は浜の大阿母とも呼ばれ、高級神女の真壁大阿母志良礼 (マカンウフアンシタリ) に属していた。嘉清年間 (1522 ~ 1566年)、錢氏与那城親雲上直方の娘の真牛金 (モウシガニ) は貞女との評判から、国王尚清に召され、国王の王子の養母となり、那覇士族の女性の頭となり、この時、那覇大阿母に任じられた。那覇大阿母は、代々那覇士族の婦女から選ばれ、楚辺大阿母、泉崎大阿母とともに那覇地域の祭祀を司どった。また、中国への進貢船出船の際は、両大阿母とともに三重城で、航海の無事を祈願した。1879年 (明治12年) の琉球処分後、那覇大阿母職は廃止され、屋敷地は1911年 (明治44年)、久茂地尋常小学校創設に際し、学校用地に組入れられている。
久茂地尋常小学校跡
那覇大阿母屋敷があった場所一帯は1911年 (明治44年) に久茂地尋常小学校の敷地の一部に組み込まれた。久茂地尋常小学校 は1941年 (昭和16年) には国民学校令により久茂地国民学校と改称され、1944年 (昭和19年) 10月10日の那覇大空襲で焼失。戦後、1951年 (昭和26年) に久茂地初等学校校として再開し、その後、久茂地小学校となったが、2014年 (平成26年) に学校統合によって閉校となった。小学校跡地には那覇文化芸術劇場なはーとが建設されている。
この工事の際に発掘調査が行われて、焼けた土の層の下から久茂地尋常小学校の遺構と見られる建物の基礎となる礎石の列や排水溝や水場の跡が見つかっている。沖縄で、尋常小学校の遺構が見つかったのは初めてだそうだ。
美栄橋
久茂地を上流方向に進み、久茂地の北の端、久茂地と牧志との境に美栄橋がかかっている。現在の美栄橋は久茂地川とここで分岐する潮渡川の二つの川に三つの橋が架けられている複雑な形になっている。三つとも美栄橋なのだが、昔の美栄橋はこの場所ではなく少しだけ久茂地川の下流側に架けられていた。
戦前の美栄橋
戦前の美栄橋は美栄橋駅の那覇方面に少し行った所にあった。
前回は東町、通堂町、西、福州園 (久米村) と多くを巡り、訪問記の編集にかなり時間がかかってしまったので、今日は久茂地だけとし、残りの時間は図書館で調べものの時間にあてた。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)