文化と文明。
近頃、社会の成り立ちについて考えてます。
良縁に恵まれて、学識もキャリアもないこんな僕が、未来を考える。社会を考えるなんて勇気儀なことに時間をさけていることに、感謝をしなければならないと思う。
どうやら世の中のおおくの人は自分のことすら考える時間もとれない程、忙しいそうなのでこうして思案する時間を与えてくれるすべての関係性に感謝してます。
社会を考えるにあたって念頭におきたいのが、文化と文明の違いです。 出来上がった社会を俯瞰して見た時、文化が先か、文明が先かということは非常にわかりにくいことです。しかし、これからの時代を生きようとする我々はそのことについて今こそきちんと考えないといけないように思います。
文化とは、前の時代から受け継がれた価値の体系のことである。それに対して文明は、建築や道具などの装置系と法律や経済などの制度系で構成されているシステムである。
今の時代、多くの方が現行の社会に限界を感じて、新しい文明を創ることに注力しているように見えます。社会実業家、ベンチャー企業、グローバル、ローカル。実に多くの物事が文明を創る努力をしているのを感じます。しかし一見するとそれらの新しい試みの多くが、現代を含む過去を踏襲しているように謳いながら、それを構築する仕組みが、現在の貨幣的価値観を動かしている仕組みの矛先を変えただけのものであることが多いです。
戦後教育しか受けてこなかった我々(僕は義務教育も不登校でしたから微妙ですが…)は、残念ながら骨の髄まで現代の価値観や思考法が身についてしまっています。しかし、それにだけに頼って、新しい社会を作ることは危険であるように思えてなりません。
原発は最初、輝かしい未来のエネルギーとして現れました。科学の子「鉄腕アトム」の動力は原子力で、ドラえもんも小型核融合炉をエネルギーとしています。しかしそのような、現代における「科学=神」の神話は日本では2011年3月に崩壊しました。つまり、2018年の日本にはあらたな神話が必要なはずです。しかし、ここで海の向こうから続々とやってくるテクノロジーや社会システムを、有難いもの。明るいものとして受け入れることを選んでしまえば、それは明治~大正の歪んだ西洋化がもたらしたことへの反省があまりに活かされていないように思います。その希望的観測に基づいた歪んだ西洋化の末にあるものは原発神話の崩壊にほかならないのですから、その受け入れかたはあまりに信用が出来ません。それでは明治以前の日本人が海の向こうから訪れるものを、どのような作法で受け入れてきたのかを知る為に人類学の知恵を借りたいと思います。
秋田のナマハゲは、大晦日の晩に、蓑を着け鬼面をかぶった青年たちが各家を回り、子供たちを恐がらせたり新年を祝福する祭事ですが、このような祭事は代表的なものだけでも全国に30以上あります。沖縄のアカマタ・クロマタなど大分のケベス祭り等の仮面仮装姿の神々「古代の村々に、海のあなたから時あって来り臨んで、其の村人どもの生活を幸福にして還る霊物・来訪する神」のことを、人類学者の折口信夫は「まれびと」と呼びました。
そして、まれびとのふるさとである他界を「常世」と呼び、もともとは常闇の死者の国でしたが、のちに世(幸福・豊穣)をもたらす理想郷へと姿を変えていきます。沖縄のニライカナイ等は常世の姿であり、日本人の想像する極楽浄土のイメージは現在では天上ですが、昔は海の向こうや奥深い山中も人間のあずかり知れない聖地であった為、そこから来るものは「災いをなす恐怖の姿で現れて、渡来の技術や風習を与えて生活を豊かにして去っていく姿」として神事に取り込まれていきます。日本人は長く、未知の知識や異文化に対して「畏れ・敬い・祭る」ことで相互関係性を築いてきました。
この作法に学ぶことが現代社会からは抜け落ちているように思います。「常世」とは「永遠に変わらないこと」をさします。日本人は長く「子々孫々まで、今年と同じ豊作であること」を祈り、余るほどの豊作の年は後に災いがくるといい畏れました。そういうサイズの社会を産み出しました。江戸時代で人口は4000万人程、現在の1/3なのですから、それに見合った社会を永続させる為の力も現代の1/3であったはずです。
外来の文化風習を元々存在していた神と混ぜることで同化していくのは世界中の先住民族が採用していた社会システムですが、日本では現在でもその名残をありことで見ることが出来ることは、とても面白いことです。
しかし、現代を生きる我々は海の向こうの「常世」を感じて想像することはできません。海底に竜宮城がないことも、奥山にすずめのお宿がないことも。天上に天国がないことも知ってしまいました。それどころか月にかぐや姫がいないことも、火星に火星人がいないことも知ってしまいました。しかしそれでもなお、身近な自然ですら、人間の意のままではないことを僕らは東北大震災で学びました。貨幣を多く持つことを前提とした。人口が増えることを前提とした幸福のあり方はもう限界でしょう。
こんな時代だからこそ、現代の作法でなく過去の作法に学ぶことが多くあると思います。それが先程引用した文化と文明の違いです。
文化とは、前の時代から受け継がれた価値の体系のことである。それに対して文明は、建築や道具などの装置系と法律や経済などの制度系で構成されているシステムである。
「まれびと」は文化的なことが前面に出た社会の作り方です。この場合、作るというよりは「文化が社会を産む」という言い方が適正だと思います。作ろうとしたのではなく、続けていくことで体系が産まれて、社会が内側から広がるように出来ていく。
対して「科学=神」「天皇=神」といった一神教的な価値観を念頭におくと社会は創られる仕組みとなります。「文明で社会を創る」しかし一見まったく新しいことのようにみえても仕組みが産業革命後の近代のままだとしたら、かの天才物理学者の残した言葉、「同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと、それを狂気という。」ということにしかなり得ないと思います。
この記事を通して伝えたいことは、どちらが正しいか間違いかという話ではありません。その立場の違い、思想の違いが多様性のなかで共生することで、議論やプレゼンではない対話の道が開かれるので、現代に産まれたことを僕は幸福に思います。
過去にも未来にもすでに楽園はありません。我々は科学に失望し、ナマハゲを見て本気で恐怖する作法を忘れてしまいました。我々の時代のあらたな神話が必要なのです。この神話を物語と呼びかえるとわかりやすくなります。
「日常」から物語が産まれるのが「ノンフィクション」
「仕組み」から物語を作り出すのが「フィクション」
どちらに優劣があるのかないのかという話にならないことは理解してもらえるのではないかとおもいます。僕らは人生のすべてをかけてかけてノンフィクションを産み出そうとしています。それは、時間がかかり、わかりにくいものでしょう。興味のない人がみたら無意味なものに違いありません、しかしナマハゲがそうであるように、注意深く観察する姿勢で見つめれば、いまでは形骸化して表層しか見えないものごとの奥に、過去の知恵や関係性や未来に活かせる構造を学ぶことが出来ます。それは「文化」が社会になっていく為に不可欠なプロセスです。ノンフィクションとフィクションが絶妙に混ざり合う未来を僕は望みます。
「啐啄同時」という禅語があります。啐啄同時とは、鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき、殻の中から卵の殻をつついて音をたてます。その時すかさず親鳥が外から殻をついばんで破る。それが同時であってはじめて、殻が破れて雛が産まれる。という禅語ですが、あらたな社会の為には、も少し内側から殻をつつく雛が必要かもしれません。親鳥はおおきく目立ちますが、雛はちいさな卵の中でちいさく鳴くばかりでなかなか見つかりません。親鳥の皆さんには是非、雛を見つけて育ててもらいたい。その為にはまず伴侶を得ることが必須なのも人生を示唆していて興味深いです。
文明と文化が手をとりあうことが今後ますます必要になってくると思います。