言葉に責任を持つと言うこと。
「言葉は放った瞬間に命を持つ」
今に始まった事じゃないけど、最近この事が強く意識させられます。
人間だから、その時の感情と勢いで物事を言ってしまう事は、
誰にだってあると思います。もちろん、僕自身も。
だけど、そこには必ず意思は備わっているはず。
どんなに感情や勢いで放ったとしても、自分自身の選択で、その言葉を選んだはずです。
他人が放った言葉に対して、あなたが責任を負う必要はありません。
でも、自分が放った言葉に対してはちゃんと、
その時と、感情や状況が変わったとしても、
フォローするなり、それなりの責任を持って欲しいです。
つまりは、「ハッキリしろ。」と言うこと。
かく言う自分も、過去に自分の言葉でたくさんの人を傷つけて来ました。
多分、その事が前職で働いている時に仇となって返って来たのでしょう。
「あ、こういう思いになるんだ」
それ以来、完全に理想の自分になれてはないけど、
自分自身の言葉に、気をつけるようになりました。
そして、気持ちを、感情をフラットに、ニュートラルに保つ様に、
日々、意識する様にしています。
(それを定着化させるのにはまだ、まだ時間がかかりそうですが^^;)
ただ、僕自身も自分が放った言葉に対しては、
良かれ悪かれ、その後できる限り、
何かしらのフォローをするように努めています。
コミュニケーションは受け手の捉え方で、どっちにも変わるので、
なかなか難しいですが…。でもやれる事だけの事はやる。
感情で物事を言う事は悪いことばかりではありません。
何か、大切な場において、自らの感情から湧き出てくる言葉こそが、
相手の心、感情を揺さぶり、動かす事もあるからです。
但し、自分が放つ言葉のウェイトの占め具合が、
感情と勢いばかりの人は正直、「子どもだなー」って思います。
ほんと、その時だけで後は投げやり。
挙げ句の果てには「そんなの知りません」「その件については触れないでおこう」
これって、例えて言うなら、
何か商品や、サービスを世の中に送り出したとして、
その後プロダクトに、欠陥が見つかりクレームが殺到。
「どうしてくれるんだ」
その事に対して、「知りません」と言ってるのと同じだと思います。
ちゃんと、相手と自分自身に向き合えてないんじゃない?
そして、自分自身を大切に出来てないんじゃないかな。
自分はこんな性格なものだから、いつも、何事にも本気でした。
そして、そこには必ず”想いやり”を添える様に心がけていました。
それが、ちゃんと伝わっているかどうかはきっと一生かかっても分からないんだろな。
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「もう無理」
という諦めのスイッチを押すことも勇気のいること。
あなたが「もう無理」と言えるだけ頑張ったからこそ言える言葉。
何も行動を起こしていない人は「もう無理」とは言えない。
だって行動を起こして辛さや苦しさを味わっていないから。
今
辛いから、苦しいから、悲しいから諦めようとする気持ちが芽生える。
その気持ちが芽生えるのは
行動を起こし、辛い経験や、苦しい経験をした証。
辛い経験に
重たいも軽いも・・・
大きいも小さいも、、、、ない。
あなたにとって、他人にとって、辛くないことでも
私にとっては辛く感じることだってある。
他人にとっては朝飯前のことでも
私にとっては鉛の靴を履いて歩くくらい辛いこともあるよ。
だから諦めたっていい。
他人と比べなくたっていい。
自分の辛さや苦しさを、その後どうしますか?
諦めたこと
もう一回チャレンジすることって、恥ずかしいですか。
諦めた理由や、言い訳に、ずっとぶら下がっていきますか。
一度諦めたこと、そのままにしておくこと、それも苦しくないですか。
何度も何度もチャレンジすることってみっともないことですか。
「もう無理」
と言えたあなたと、諦めたままのあなた。。
どちらもあなたであり、私です。
もう一度、心と相談してみてください。
「自分がどうしたいのか」
という相談を。
「諦めた自分が恥ずかしい」を優先させるのか。
恥ずかしいことより、「途中で諦めた自分を取り戻すこと」
を優先させるのかを。
少なくとも以前のあなたは、努力していた。
だって、「もう無理」
って言えてたから。