配手
おはようございます。
暮らし、味わう。
食を通して豊かなライフスタイルを提案する
セレクトショップ&カフェ テマヒマ
プロデューサー、バイヤーの太田 準です。
古くからの民藝店に旅行で寄った時のこと。
"◯◯窯は売店を併設してから売れるものを
作るようになってモノが悪くなった"
とその店主の方が仰いました。
長年やってらっしゃるのでご自身の目に自信
があるんだろうか?
自分の眼鏡に叶わないものを全否定するのは
どうなんだろう?
色々考えさせられました。
(※本文とは関係ありませんが日本民藝館)
民陶祭で小鹿田の里に行った時のこと。
壺を見つけてこれを頂けますか?と伺ったら
当主がもうお年で壺は作れなくなったので
売れないとのことでした。
壺は技術がないと作れない、
作らないと技術は上がらない、
でもあまり需要がないという話を
聞いたことがあります。
(小鹿田の里)
以前、好品というタイトルで、
よいもの と いいもの
ということについて書きましたが、
これは 売れるもの と いいもの の話。
民藝系の関係者(というと語弊がありますが)が
作り手、使い手、配り手
と仰る言い回しが僕は好きです。
売り手、買い手ではなく。
勿論その間に売買、金銭のやりとりは
発生しますが、モノを介してコト•ココロを
やりとりするような。
SPA(製造小売業)が台頭していたり
役割や業態の"際(きわ)"はどんどん無くなって
きていますが、
いいものを作る人がいて、
それを使う人がいて、
その間に配る、お届けする人がいる。
単純だけど、単純だからよいというか。
この配り手という言い回し、
民藝の初期に、民衆的工芸を広め伝えるのに
頒布会形式をとったのに由来しているとか。
前職の会社も実は頒布会から始まったので
何か縁のようなものも感じます。
(※こちらも本文と関係ありませんが
BEAMS fennicaレーベル別注のこけし)
テマヒマを始めること。
それは使い手から配り手になること。
でも使い手の感覚を忘れずにいること。