マタイ5章1-12 ~悲しむ者は幸いです。~
~この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしない悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。~
山上の説教2 悲しむ者は幸いです
ロイドジョンズ牧師の山上の説教、第2回目です。「悲しむ者は幸いです。」 ここでは第2の幸せの指針、「悲しむ者は幸いです。」、をそして、「その人は慰められるからです。」に入りたいと思います。
『悲しむ者は幸いです、というような言い方をこの世の人は全く愚かなことだと考えるであろうし、事実そう考えている。世が避けようと努力しているもののひとつに悲しみがある。この世の全機構は、悲しみは避けるべきものであるという前提に基づいて成り立っている。世の人生の哲学者は、心配事は忘れ、背を向け、ぶつからないように最前を尽くすようにと教える。好んで心配事を捜そうとしなくても、物事は今現在決してうまく行っていないのです。』ここで言っているのは、どんなに哲学者が心配事を避けてこの世を楽しく生きようと言ったって、そのように人間の人生はうまく行ったためしはないと言ってるんです。『人を楽しませるために用いられる金銭、エネルギー、熱狂ぶりなどは、ことごとくこの悲しみという思い、悲しみという心から逃げ出そうとする世の目的の表れに他ならない。』全ては悲しみを避けるためにこの世は物事を動かして行きます。
『このマタイの福音書に並行記事であるルカの福音書6章には、もっと印象的な表現が用いられている。それは否定形が使われているからである。「いま笑っているあなたがたは哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。」と主は言う。この言葉は、この世の表面だけの笑い、楽しさ、幸いに対して災いを宣告することによって、そうしたものを非難している。そして逆に悲しんでいる人々に幸いと喜びと平和を約束する。』ルカの福音書は、もっと強くこの否定を強調しています。いま笑っているあなたはみじめだ、哀れだと言っているのです。『そこで悲しんでいるとか、柔和であるとか、このようなキリスト者についての前置きの句が、明らかに第一に重要なのである。ここでもまた問題になっているのは、徹底的に霊的な意味のものであることが明白である。』ここで悲しむというのは、この世の悲しみではなく、霊的な悲しみを言っているのです。『悲しむとは、誰かの死に際して味わう悲観という意味ではない。そうではなく、これは霊的な悲しみなのである。これら全ての幸福の指針は、霊的状態、霊的態度について述べており、賞賛されているのは、霊において悲しんでいる人である。』ここで言っている悲しむ者が幸せだというのは、この世で悲しんでいる人を言っているのではないのです。『ここで再びどうしても言わなければならないことは、今日の教会ではこの点がかつてほど、あるいは新約聖書におけるほど明白ではなくなったと言う事実である。』今日この聖句が説教されない理由でもあります。『教会事態の在り方が、健全な状態でないためである。非常に多くの人が、教会自体には悪いところがないのだから、教会のすべきことは外部の世界に対する伝道であるという前途絵を築きあげてしまっている。しかしこれほど悲劇的で、近視眼であり、また洞察を欠いていることがらはない。』宣教運動、人数を増やすこと、教会を大きくすることにあまりにも今日の教会が、今日のキリスト教が専念してしまった、ということです。悲しむことに何の関心もなくなってしまったのです。それらの理由を今からロイドジョンズがひとつひとつ説明していきます。
『いつの信仰復興を見ても教会の外部の人が教会に惹きつけられるようになるのは、教会自体がキリストの教会として活動を始めた時であることを示している。』重要です。教会が本当にイエスの教会になったときこそ、外部の人がイエスを信じるんです。『更には、それはひとりひとりのキリスト者が幸福の指針の示す描写に近づいている時であることをはっきりと証明しているのである。したがって私たちはまず自分自身から出発しなければならない。そして、悲しむ者でなくてはならない。』と言っているんです。私たちは他人からじゃないんです。私から悲しむ者になっていなくてはならない。その理由の一部は、以前から起きてきた偽りの聖教運動によるものです。『見せかけの敬虔さという姿をとって現れてきた』これが聖教運動です。『確かにそれは自然ではなかった。心の中から出てくるものでもなかった。そうではなく人々は敬虔らしく装い、そう見せかけていたのである。そしてキリスト者についてあまり魅力的でない肖像画が描きあげられてしまった。』です。ノンクリスチャンから見たキリスト者が敬虔に振る舞っている偽物にしか見えなくなってしまったんです。その聖教運動の反動から今日の教会の過ちが始まっているんです。
もう一つの説明は、『私たちはキリスト者として、キリスト者でない人を惹きつけるのにはことさら明るく楽しそうに装わなければならないというのである。こうして多くの人は心の中から湧き上がるのではなくて、取ってつけた喜びや幸いを装うことを試みている。恐らくこれが今日の教会の在り方の中に悲しむという特徴が見られないことの主な説明である。』と言っています。この悲壮さ、悲壮さっていうのは表面だけに出ているものです。この悲壮さ、あるいはほとんど愚鈍ともいえる軽薄さ陽気さの中にある。私たちの全体の表情と態度を支配し徹底するものは、心の中から湧き上がるものではなくて、一廉の人物らしく見せようとしたり、立派な風采に見せようとしたりする努力なのである。』結局、偽の敬虔さを振る舞おうとした反動が、今度取ってつけた喜びや楽しさに教会の中が変わってしまったのです。『今日の教会の状態を解く最終的な説明は、罪の意識の欠乏さと罪の教理の不完全さであると考えざるを得ない。もちろんこれと並行してキリスト者の喜びの真の性質を理解しないということも挙げられる。このような二つの失敗がある。一方ではかつてそうであったような罪の自覚がない。他方では思想的な喜びや幸いについての考え方が見られる。』結局、表面的の喜びや幸いに力を注いでいくということです。罪についての不完全な教理と喜びについての浅はかな観念があいまって、必然的に悲壮といえるような種類のキリスト者生活を作り出しているのです。』結局のところ、罪の自覚がないと偽の幸せに、クリスチャンでさえ流れていくということです。特に福音伝道の問題に関してそのような失敗がたくさん現れている、とロイドジョンズは語っています。『これが山上の説教を通してこの問題に取り組む重要な理由である。山上の説教は、否定の言葉をもって始まっている。私たちは聖霊に満たされるためには、まず心が貧しくなければならない。肯定の前に否定がある。』です。
『罪の自覚が必ず回心の前になければならないし、真の救いの喜びがあるためには本当の意味での罪意識が必ず先になければならないということである。実にこれが福音の神髄である。多くの人がキリスト者のこの喜びを発見しようと努力しながらその生涯を過ごす。』こうして私たちは悔い改めがまず先に、次に肯定が来ていなくてはならない、と語っています。『少しでも喜びを経験したいならば、その前に罪を自覚しなければならないということがわかっていない。彼らは罪の教理を好まない。これを非常に嫌い、これを説明しようとすれば反対する。彼らは罪の自覚を持たずに喜びが欲しいと望む。だがそれは不可能である。そのようにして決して得られないのである。回心しようとしている人、本当に幸福で、幸せになりたいと願っている人とは、まず何を置いても悲しんでいる人である。罪の自覚こそ真の回心に至る本質的な前提なのである。』です。本当に幸せになりたかったらまず回心から始めなくてはならない、と語っています。『私たちはキリスト者として主ご自身の形に、主ご自身にかたどって造られている。キリスト者とは当然イエスキリストに似ている人である。あなたや私が何に似る者になるべきか、という点についての究極の標準である。』です。イエスキリストの姿が私たちの標準、模範、目的となっていなくてはならないのです。
『私たちは1つの事実に気づく。』そのイエスキリストに似なくてはならない私たちが、絶対に気づくことが一つあると言っています。『それは主が笑ったと言う記事が一度もないということである。主は怒ったと記してある。主は飢え渇いたとも記してある。しかし主の生涯には笑ったという記録はない。預言者イザヤの書にある主についての預言を思い出す。そこで主は悲しみの人で病を知った方であり、その容貌はひどく痛めつけられているので誰も主を求める者はいないと言われている。これが主についての預言である。新約聖書の福音書での主に関する記事を読むとイザヤ書はこの預言が文字通り成就していることがわかる。ヨハネの福音書8章57節には、主が実際よりもずっと老けてみえていたことを示す手がかりが見られる。主はあなたがたの父、アブラハムはわたしの日を見ることを思って大いに喜びました。と語った。すると人々は主を見て、「あなたはまだ50歳になっていないのにアブラハムを見たのですか?と言った。これは30歳を過ぎたばかりの方に対して言われた言葉である。この言葉から主は実際よりもずっと老けてみえたと論じる聖書解釈者の意見に私も同意したい。」とロイドジョンズは言っています。『主の生涯に笑ったと言う記事はない。かえって主はラザロの墓で泣いたと記されている。そしてその生涯を終える直前に、主はエルサレムを見て泣いたと記されている。これが福音書の中で発見する主の姿である。私たちはこの主に似るべきものとされている。』クリスチャンは全員です。クリスチャンなら才能や職分関係なしに、全員この主に似ていかなくてはならないんです。
『使徒パウロの教えを見てみよう。「わたしは本当に惨めな人間です。だれがこの死の体からわたしを救い出してくれるのでしょうか。」という叫びを、身を持って知っている人である。またキリスト者とはこのような自分自身に全く望みを失った気持ちを経験している。そしてパウロのように、「わたしの内、すなわちわたしの肉の内に善が住んでいない。」と言う。パウロは、「わたしが自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。」とまで言わなければならない経験をしている。彼は心の法則と肢体の法則のこのような衝突、惨めな争い、戦いを充分に知っている。』体と私の中にいる霊魂との戦いをパウロは本当に深く知っていた使徒だったのです。ローマ人への手紙7章には、パウロの敬虔の一念に過ぎないものが書いてあります。でも『8章23節には、悲しみとは何であるかが記されている。「そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も心の中で呻きながら、子にしていただくこと、すなわち私たちの体の贖われることを待ち望んでいます。」パウロはまたコリント人への手紙2章と5章では、「この幕屋の中にいる間は、わたしたちは重荷を負って呻いています。」と言っている。「この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。」とコリント書では書いています。また、牧会書簡の中でさらに明瞭に表現している。テモテとテトスに対しては、「人々をどのように教えるべきかについて書き送った手紙の中で、「老人たちには自制し勤勉で慎み深くあるように。」と言っている。「若い人には思慮深くあるように。」と語っている。ここには軽薄な陽気さや楽しさは少しも見られない。』です。私たちは老人ばかりではなく今の青年たち、子供たちにも悲しむことを充分に教えなくてはならないことをロイドジョンズは語っています。
『悲しむとは心の貧しい結果、当然起こってくることであろう。こうなるのは当然のことである。』自分が徹底的に神の前で無力であること、自分の霊性がどんなものであるかを発見することが重要なんです。『真に自分とその生活を吟味する人は、自分の犯す罪や行っている事柄についてどうしても悲しまないではいられない人なのである。霊的生活において、練達した偉大な人々は絶えず自己吟味を勧めてきた。彼らはこれを人々に勧めると共に、彼ら自身も実行している。一日の終わりに手を休め、自分のことを瞑想し、自分の生活ぶりを振り返ってみる。そして毎日自問する。これが良いことである。』とロイドジョンズは言っています。『キリスト者としてするべきではないことをしてしまったことに気付くであろう。主に贖われた者として全くふさわしくない考えや思いや感情を隠し持っていたことがわかるであろう。自分がそんなことを行ったり、考えたりすることができたことを嘆き、後悔の思いに襲われるであろう。そしてそれが彼を悲しませるのである。自分の中に宿っているこれらの悪の原理に気づかざるをえないであろう。彼はこう自問しないではいられないのである。何が私の中にあって私をこんなふうに行動させるのか?いったい私はなぜこんなに短気なのか?なぜ私はこんなに気難しいのか?なぜ自制できないのか?なぜあんなに不親切で、嫉妬深く、妬みに満ちた考えを抱くのか?私の中には何があるのだろう?』自分の体に戦い挑んでくるものを捜そうとします。『これは空想なのではない。現実の経験であり、事実である。』これが本当に私たちがこの事実を発見しなくてはならないということです。悲しんでいない、そしてそのことを嫌う人たちは全員、悲しんでいないためであるし、主イエスの言う幸いな人ではありません。『霊的でないこと、使徒パウロや全ての聖徒たちのようでないこと、イエスキリストの教えに縦を突いていることを宣言している人です。しかし、もし自分の内にあるこれらのものを嘆いているなら、それは本当に悲しんでいる人なのである。』
『真のキリスト者は、他人の罪の故にも悲しむ人である。彼は自分自身の罪に留まってはいない。彼は同じものを他人の中にも見ることができる。』そうするとこの世とこの社会についても悲しむようになっていくんです。『全世界の現状を悲しむ、彼は全世界が不健全で不幸な状態にあることを見ることができる。全て罪のためであることを知っている。』それがすなわち悲しむ者なのです。『これが主イエスご自身の悲しみの理由である。主イエスがラザロの墓で泣いた理由である。主はこの忌まわしく、邪悪で憎むべき罪と汚れるものとを見たのである。罪はすでに人の生活に入り込み、人の生活に死を連れ込んだ。そして人の生活をくつがえし、人の生活を不幸にしてしまっている。それだから主イエスは泣いたのである。主はエルサレムの町、主を拒んで自ら神の刑罰を招いたこの町を見て、その罪の故に泣いた。主は罪を悲しんだ。主と同じように罪を悲しむのである。罪そのものの性質の故に、恐るべき様々な結果をもたらした故に悲しまないではいられないのである。』これが主イエスと似ていくキリスト者の姿だと言っているんです。『いわば神の心臓を刺し通す恐るべきもの、できれば神に反抗しようとする人の反抗心、横柄な心、サタンに耳を傾けた結果としての侵入してきたもの、をどんなに嫌い、憎むかということを多少でも知っているから悲しむのである。」です。『悲しむとはイエスの言葉によれば、今笑う世の心、精神、物の見方とちょうど正反対である。』この世とここでいう悲しみが全く正反対な性質を持っていると言っているのです。『人間は戦争の最中でさえ、世は依然として自らの真の事態を注視しないで無視し続け、幸せになろうという努力を続ける。』です。どんなに戦争中でもまだ人間は幸せになろうと努力をします。『世は笑って、そんなことはあんまりくよくよ考えなさんな、と言う。悲しむとはこれとは全く正反対である。キリスト者の態度は本質的にこれとは違っているのである。』
『悲しむ者は幸いです。に続けて主は、その人達は慰められるから、と言う。』主は悲しんでいる人は本当に幸いであるとおっしゃっているんです。これはまさに逆説です。そうするならば、ここでいう幸いは何なのでしょう。『それは個人的な意味において幸いになるのである。自分の罪深い状態とその姿のゆえに真に悲しんでいる人は悔い改める人である。それ故に注がれた聖霊の御業の結果として真に悔い改める人は、確かに主イエスキリストのもとに導かれる人なのである。自分の徹底的な罪深さと無力さを知った人は救い主を待望する。キリストにおいてその救い主を発見するのである。何をおいてもまず悲しむことの何かを知らないならば、キリストを自分の個人的な救い主、贖い主として真に知ることは決して誰にもできないのである。「わたしは本当にみじめな人間です。誰がわたしを救い出してくれるのでしょうか。ローマ書で叫ぶ者がいました。しかしその人はわたしたちの主イエスキリストの故にただ神に感謝します。」と言えるのです。』このことは私たちクリスチャンにとってとても重要なことです。悔い改める人は、必ず救い主を捜します。罪深いことを知った人は、必ず救いについて待望するんです。それがない人はニセの幸せ、ニセの喜びに翻弄していきます。このことはこう言っています。『夜が昼に続くように、引き続いて起こることなのである。聖霊が彼に主イエスキリストを完全な贖い主として示すのは、彼が言語に絶するほど絶望的な自分の姿を知った時だからである。彼は聖霊によってキリストが彼の罪のためにすでに死んでくださり、今彼の弁護者として神の前に立っていることを知る。彼はキリストの中に神が用意してくださった完全な備えを見出す。そしてその時ただちに慰められるのである。これがキリスト者生活についての驚くべき事実である。あなたの深い悲しみは喜びに至る。そして真の悲しみがなければ真の喜びもまた、ないのである。』本当に悲しまない人はイエスキリストの十字架の意味がわからないんです。この十字架の恵みもわかりません。そしてこれが神からのプレゼントだということが全く理解できないんです。『これはキリスト者にとって常に真理である。』私たちが真理、真理と軽々しく口にする真理は、この行程を通らなければ理解できないのです。『真に悲しんでいる人は慰められ、幸せになる。キリスト者の生活はこういう方法で造られるのである。悲しみと喜び、悲観と幸せ、そして前者の後に当然ただちに後者が続いてくるのである。』否定が来て肯定です。肯定が来て否定が来ることは絶対ないのです。
そしてもう一つの慰めがあると言っています。使徒パウロがローマ人への手紙8章に書いたように、幸い望みがもう一つあります。ただ霊魂の救いというだけではないんです。『今の時の色々の苦しみは将来わたしたちに啓示されようとしている栄光に比べれば取るに足らないことを確信している。彼は来るべき栄光のあることを知っている。その時正義の住む、新しい天と新しい地、が始まる。なんと幸いな望みであろうか。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』私たちはいつかこの目で天国を見て、そこにに行くんです。永遠を経験するんです。永遠を手に入れます。ただ救いだけじゃないんです。その幸いをクリスチャンは見ることができるのです。『この世にはどんな望みが残されていると言うのだろうか。何もない。今の世に慰めは何もない。』と言っているんです。国連が作られ、NPOが作られ、どんなものが作られようとそこに人類の望みはありません。永遠の天国だけに、私たちの望みはあるのです。『だからキリスト者はこの世にあって呻きながらも自分の前にあるこの望みの故に幸いなのである。永遠におけるこの究極の望みがあるからである。涙はことごとく拭い去られる。』天の栄光を見る時、私たちがこの世で悲しんできた涙はいっさい拭い去られるんです。『罪の赦された喜び、罪の赦しを知る喜び、和解の喜び、神から離れた者を神ご自身が連れ戻してくださることを知る喜び、前にある栄光をよろこぶ喜び、とその瞑想、永遠の国を今すでに与えられていることからくる喜びを知っているのである。』皆さん、天国は今から起きるんです。永遠は今から始まるんです。それを感じてわたしの心に、天国からくるものは、その前提は悲しむ者です。この悲しむが先に来ない人に天国の喜び、真の喜びは決してないと、ロイドジョンズは語っています。『真のキリスト者は悲観にくれた様子や陽気な顔つきをして見せなければならないような人とは違う。』全く違うと言っています。『彼は人生を真面目に見つめる人である。人生を霊的に瞑想し、そこに罪とその結果とを発見する。彼は真面目で冷静な人であり、その物の見方はいつも真面目である。そういう視界を持ち、真理を知っている故にこれと同時に彼は言葉に尽すことのできない栄えに満ちた喜びを持っている。』だから使徒パウロのようになれと言っているんです。使徒パウロは本当に最も幸福な人でした。キリスト者はどんな意味においても悲壮的ではない、表面的ではないと言っているんです。『根底から真面目であり、幸いなのである。』表面だけの幸せや見せかけの喜びは全くないのがキリスト者です。『これらとは全く異なる者である。したがってキリスト者は威厳があり、冷静で真面目な人であっても決して冷酷で禁止だけをする人ではない。キリスト者は主イエスキリストご自身のような人である。主イエスは呻きもしたし、泣きもした。しかも自分の前に置かれた喜びの故に恥も厭わないで十字架を忍んでくださった方なのである。その時罪の教理は説教され、強調される。』この真理がわかり、この真理を望んだ時に私たちの礼拝のメッセージは必ずこの教理が流れ始めて行くっていうんです。そしてその教理が流れ始めるとその教会は、イエスの教会となり、外部の人が進んで教会の中へ入って来るんです。だから私から、教会から変わって行かないと、私から、教会から貧しく悲しい人になっていないと、主イエスに似ていないと、どんなに見せかけの幸せをノンクリスチャンに見せても意味がないって言ってるんです。『深い罪の教理、高い喜びの教理、この両者が一緒になってこの幸いな人、悲しんではいるが同時に慰められてもいる人を造り出すのである。聖書を読むこと、聖書を学び瞑想すること、神に祈り、わたしたちの罪を御霊が現してくださり、主イエスキリストをその全き姿において啓示してくださるようにと求めることである。それをする人がすなわちここで言う悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。を実践する人たちです。』