マタイ5章1-12 ~義に飢え渇く者は幸いです 義と祝福~
~この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしない悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。~
山上の説教4 義に飢え渇くものは幸いです。
山上の説教、ロイドジョンズの説教から、今日は義と祝福です。『キリスト者の関心事はこの世での生活を福音の光に照らして見ることにある。その福音によれば、人間の問題点は罪の現れである個々の出来事ではなく、むしろ罪そのものなのである。惨禍(悲惨な渦)を避ける最も直接の道は、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」という聖書の言葉を注視することである。世界の一人一人の男女が義に飢え渇くことが何であるかを知ってさえいれば戦争の危険はない。ここに真の平和への唯一の道がある。こうして私達は神の言葉を考察する代わりに、人間の思想や所感の表明に私達の時間と神の時間とをしばしば浪費しているのである。』このようにロイドジョンズはこの世の考えや思想がどれだけ長い時間浪費しているのか。本当に義に飢え渇く者がこの世界にあふれているなら決して、この世に争いはなくなると言ってるんです。
『今日の世界が最も必要としているのはもっと多くのキリスト者であり、個人個人のキリスト者である、全ての国が個人個人のキリスト者によって構成されているなら、原子力もその他のものも恐れる必要はない。このように福音は一見、全然かけ離れた遠回しのもののように思われるが、実際には問題解決の最も直接的な道なのである。今日大多数の人は戦争と平和についての曖昧で漠然とした無益な所感に満足している。そして福音を単純に純粋なかたちで説明しようとはしない。ここに今日の教会の在り方の最大の悲劇がある。国を高めるのは義である。だから私達全てにとって最も必要なことは義とは何かを発見することである。』この世で一番重要なことは何かの哲学に奔走するのではなく、キリスト者を一人でも増やしていくことだ、とロイドジョンズは言っています。
『この聖句もまた今まで学んできたように、主イエスが順序立てて述べた一連の言葉の中における論理的位置において捉えることが大切である。この福音の使信(イエス-キリストおよび使徒たちの福音宣教の中核的内容。転じて,聖書の言葉から読み取れる内容,説教者の勧めなど。)も論理的には前に述べてある幸福の使信に続いている。』順番通りイエス様は語っているんです。『それゆえに私達は神に深く感謝し、お礼を申し上げるべきである。もしこの聖句があなたにとって聖書の言葉の中で最も祝福されたものの一つであれば、あなたは充分な確信を持って、自分はキリスト者である、と言うことができる。もしそうでなければ、あなたは根本からもう一度自分を検討し直す方が良い。私達は心貧しくなければならないと言われてきた。悲しまなければならない。柔和でなければならない。と言われてきた。今ここにこれらのすべてに対する回答がある。というのはこの使信は論理上、先に述べてある全てに属してはいるが、それにもましてこれが問題の取り上げ方全体にいくらかの変化をもたらしていることも事実だからである。この幸福の使信は、それまでのものと比べて消極面がいくらか少なく、積極面がより多く見られる。ここにはこれから学んでいくように否定的要素がある。しかしそれ以上に積極的な要素がある。
これまでの幸福の使信は私達に自分を見つめさせ、自分を検討させてきた。ここで私達は解決を求め始めるわけである。ここにはいくらかの強調点の変化がある。今まで私達自身の無力さ、弱さ、心の貧しさといった霊的問題における行き詰まりの有様を見てきた。そして自分自身を見つめる時自分の罪が、神が完全に創造した人間を損なっていることを見た。次に、柔和という言葉が表している内容の描写を見た。今まで心を向けてきたのは、この恐ろしい自己の問題であった。すなわち自己の関心や利害、また苦悩をもたらし個人の間でも、国家の間でも争いの究極的な原因となる自己信頼、いつも自分ばかりを見て自分を崇めようとする自己本位制と自己中心性、あらゆる不幸の究極の原因であるあの恐るべきものに心を向けてきた。そしてキリスト者とはこれら全てを悲しみ、残念に思い、憎む人であることを見てきた。ここで目を転じて私達の待望する解決を求めよう。つまり自己からの解放を求めるものである。』今まではずっと否定から肯定に入ってきたんですが、ここで義に飢え渇くは今までよりも積極面が出てくる、と言ってるんです。消極面が少なくなって否定面が少なくなって、肯定的な積極面がここから出てくる。だから今までの並びで語られたことに比べるとここで変化が起きているんです。そしてそれをこれから見てみたいと思います。
『全て求めている魂への大検証なのである。自分自身とその霊的状態について悲しんでいる全ての人、またそれまでに享受したこともない生活の秩序と質的充実とを切望している人に対して、これはキリストの福音の目覚ましい宣言である。』ここが特別な章になっていると言っています。実質的にも質的にも。『これは最も典型的な福音の言葉の一つである。これは極めて教理的である。これは最も基本的な福音の教理の一面の強調である。すなわち私達の救いは徹頭徹尾恵みから出たものであり、恵みによるのである。そしてこれは全く無償の賜物であるという事実である。』これが福音の教理を強調している聖句だと語っています。『まず初めに取り掛かるべき言葉はあきらかに義である。「義に飢え渇く者は幸いです。」彼らこそ唯一の真に幸福な人々である。ところで世界は幸福を求めている。それは疑う余地もないことである。万人が万人皆幸せになりたいと思っている。幸福が全ての行動、野心、勤労、骨折り、努力などの背後に潜む動機である。けれどもこの世の大きな悲劇は、全力を傾けて幸福を求めながらもそれを見出せそうにもない、ということである。この世の現状は強烈にこの事実を思い知らされる。いったい何が問題なのか?その答えはこの聖句を当然理解するべきであるようには理解しなかった点にあると思う。
「義に飢え渇く者は幸いです。」これはどういう意味なのか?』この世の人の最大の飢え渇きは、幸福への欲求です。そしてそれはことごとく失敗していると言っています。それは「義に飢え渇く者は幸いです。」という教理を理解しなかった理由だと言っているんです。『私達は幸いを求めて飢え渇くべきではない。幸福を求めて飢え渇くべきではない。ところがこれこそ大多数の人々がしていることなのである。幸福、幸いを自分の求めるただ一つの事としている。そのためにいつでもそれを逃がしてしまう。聖書によれば幸福は決して直接的に求めるべきことではない。幸福とはいつでも何か他のことを求めた結果与えられるものなのである。このことは教会外の人々にとっても、教会内の多くの人々にとっても事実である。』この世であれ、教会の中であれ、幸せまたは自分中心の幸せを求めて手にした人はいないし、それこそが間違いであると言ってるんです。この世はそして教会内もそれだけに一心に走っているんです。『彼らは幸福を見つけようと一生懸命になっている。彼らはそれを目標とし、無二の目的としている。しかし彼らは幸福を見つけることはできない。なぜなら幸福を義の前に置くならば、いつでも惨めな結果に終わるに決まっているからである。』幸福があるから義に飢え渇くという順番は必ず惨めになると言ってるんです。
『これが聖書の一貫した、そして偉大な使信である。義でありたいと求めている人だけが真に幸福なのである。幸福と義の位置を置き換えるならば、決して幸福を得ることはできない。』義に飢え渇くことは幸いだと言ってるんですけど、幸いになるために私は義に飢え渇こう、これは絶対不幸になると言ってるんです。『この誤りは様々な方法で例示できよう。(例えることができると言っています)例えば、苦しい病気にかかった人の場合を考えてみよう。大抵の場合、そのような病人の唯一の願いは苦痛からの解放である。このことは誰でも理解できる。誰でも痛みを好む者はいない。だからこの病人の考えることは、痛みから解放されるために何かをすることである。だがこの患者を受け持っている医者もこの人の痛みを取り去ることだけに関心を持っているならば、その医者は悪い医者である。その医者の第一の義務は痛みの原因を発見して、その治療をすることである。痛みは病気に注意を向けさせるために自然が備えてくれた不思議な兆候である。だから痛みの究極の治療は痛みそのものではなく、病原を治療することである。もし医者が痛みの原因を発見しないで痛みの治療だけをするならば、彼は自然と正反対のことをしていることになる。そればかりでなく、彼はその患者の生命に極めて危険なことをしていることになる。患者は痛みを感じなくなるであろう。そして良くなったようにさえ見えるであろう。しかし病気の原因は依然として残っているのである。ところでこれが世の犯している愚かな行為なのである。世は、私は痛みから逃れたいのだ。だから映画館にでも飛び込みたい。酒も飲みたい。この痛みを忘れるのに役に立ちさえすれば何でもやりたいのだ、と言う。だが問題は何がその痛みと不幸と惨めさの原因なのかということである。幸いを求めて飢え渇いている者が幸福なのではない。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」』私達が他人に犯している同情はこのようなものです。それは痛みだけ緩和するけどその病気はもっと深くなっているんです。
『教会内には決して見られないものを求めて、ある全生活を費やしていると思われる多くの人々がいる。ある種の幸福、幸せを求めているのである。彼らは集会から集会へ、大会から大会へと歩き周る。そしていつでもその素晴らしいものを得たい。自分達を喜びで満たし、また無我夢中の状態に浸らしてくれる経験をしたいと望んでいる。』聖霊充満と言いながら、意識を無くしたり、気絶したりっていう、そういう奇蹟を求めている人のことをここで言っているんです。そういう人達はイエスキリストの義以外に他のことで幸せを求めようとしているんです。『喉から手が出るほど欲しがり、いつでも飢え渇いている。けれども決してそれを得ることはできない。私達は色々な経験に飢え渇きなさい、と言われているのではない。幸いに飢え渇くようにと言われているものでもない。もし私達が真に幸福になりたいのなら、義に飢え渇かなければならない。幸いや幸福や経験を第一に置いてはならない。そうではなく、それは義を求める人々に神が与えてくださるものである。私達は神の言葉の単純な教えと指示に従わないで、自分が味わいたいと思っている経験を喉から手が出るほど欲しがり求めている。ここに悲劇がある。こういう経験は神の賜物なのである。』神からくる賜物を喉から手が出るほど欲しがっている。でもそれを第一優先にしているなら絶対不幸になると言ってるんです。『喉から手が出るほど欲しがり、求め、飢え渇くべきものは義である。』
ではこの義はどういう意味なのか? 『国家間の一般的な一種の正義あるいは道徳性のことではない。国際条約の尊厳性、契約の尊重、約束の順守、実直な取引、公正な振る舞い、その他おびただしい議論がなされている。これらを皆非難することは私のするべきことではない。これらはその限りにおいて良いものである。それらは古代ギリシャの異教徒の哲学者が教えてくれた種類の道徳であって、大変結構なものである。』この先生はここでそれらを非難したり悪いものだとは言っていないんです。これは人間にとって良いものであると言っています。『しかしキリスト教の福音はここに留まってはいない。福音の説く義はこれとは全く異なる。人格的義についてはほとんど知らないように見えるのに、この種類の義のことは雄弁に論じたてることのできる人々がいる。国々がどんなに世界平和を脅かし、条約を踏みにじっているかを雄弁に論じたてることができるのに、自分の妻に対して不忠実であり、自分の結婚の取り決めと以前に行った厳粛な誓いに対して不忠実でありうる。』これは逆も言えます。家庭に忠実で社会に忠実でない人もいるんです。『福音はこういった議論には関心を持たない。』今言っているのはこれらのような議論ではないんです。『義についての福音の考え方はこれより遥かに深い。義とはただ世間一般の品行方正とか道徳性のことではない。しかしこのような種々の点にいつまでも関わってはいられない。』そうです。これを例示してたとえ話をしたらきりがないんです。だから真のキリストの義についてこの先生はこう説明します。
『真のキリスト教的立場から見て、義を、義認と定義するのさえ正しくないということである。聖書語句辞典で義という字を見つけて、これは義認のことを言っているという人々がある。使徒パウロはローマ人への手紙で義をその意味に使っている。信仰による神の義のことが書いてある。』パウロはここの言葉を前後してこれを引用はしていると言ってるんです。『義はしばしば義認の意味で使われている。けれどもここでは義はそれ以上のことを意味していると思われる。』道徳性に関する義だけではないという説明です。『ここの義は義認ばかりではなく聖化を含んでいることを力説しているように思われる。言い替えると、義への欲求、義に飢え渇くという行動は最終的にはあらゆる形、及び目に現れた罪からの解放への願いを意味しているのである。この点を少し分析してみよう。これは罪から解放されたいという願いである。なぜなら罪は私達を神から引き離すからである。だから積極的に言えばこれは神と正しい関係にいたいという願いである。結局それが根本的な事がらなのである。今日世界のあらゆる紛争は人が神と正しい関係にない、という事実に起因する。というのは、人はあらゆる面で誤った道に行ってしまったのは、神と正しい関係にないためだからである。これが聖書のいたる所に見られる教えである。このように義への願望は神と正しい関係にいたいという願望である。罪から逃れたいという願望なのである。なぜなら私達と神との間に入り込んでいる罪が、私達が神を知るのを妨げ、また神の元にあらゆる良いものが私達にもたらされて益となることを妨げているからである。義に飢え渇いている人とは、罪と反逆が自分を神から引き離していることを知っている人である。かつてのように神とのあの交わり、人間が本来持っていた神の御前における義の交わりに再び立返らせていただきたいと切望している人である。
人類の最初の祖先は神の御前に義である人として造られた。彼らは神と共に住み、神と共に歩んだ。これが義に飢え渇いている人が願っている神との関係である。』アダムとイブのことを言ってるんです。エデンの園でアダムとイブが造られた時には神の形に似て造られたんです。その時には神と共に歩み、神と暮らしていました。これに飢え渇くべきであると言っているんです。『それだけではない。義に飢え渇くことは当然罪の力から解放されたいという願いも含む。心の貧しいこと、つまり内にある罪の故に悲しむことが何であるかを実感したなら、私達は自然に罪の力からの解放を切望するようになる。これらの幸福の使信において考察してきた人とは、私達が住んでいるこの世が罪とサタンに支配されている事実を知るに至った人である。この世の神が様々な事がらについてずっと彼を盲目にしてきたことを知っており、今そこから解放されたいと切望している。自分の意志に反して彼を引きずり降ろそうとしている力、つまりパウロがローマ人への手紙7章で言っている「体にある法則」から遠ざかりたいと思う。』サタン暗闇の力だけでなく、私達の肉体から起こる原則、法則からも解放されたいと思うと言ってるんです。『罪の力、圧制、束縛から解放されたいと願う。このように義に飢え渇くということは、国際関係とかそういったことについての漠然とした議論よりもどんなに先のことを、どんなに深いことを言っているのかお解りいただきたいと思う。真に自分を聖書の光に照らして検討する人は、自分が罪の拘束下にあることを発見するだけではないからである。』ここからは人間が最も悲しまなければならない、苦しまなければならない現実です。
『それよりも遥かに恐ろしいことは自分が罪を好んでいる。罪を犯したがっているという事実である。罪は悪いことであるとわかっていながらもなお人間は罪を慕う。今義に飢え渇いている人は外面的ばかりでなく、心の奥底からこの罪の欲望から逃れたいと願っている人である。』罪を犯すだけではないんです。それでは正確に自分を見てはいないんです。本当に自分を見るのは、この罪をどれだけ恋い慕っているかということです。『罪は人の存在、人の性質、本質そのものを汚すものである。キリスト者とはこれら全てから解放されたいと願っている人なのである。』解放されたいと思わない、自分を見ない、自分はそんな者ではないと妄想する人は決して義に飢え渇くことはないんです。『義に飢え渇くとは、それがどんなに激しい現れ方をしていようと、どんな形で現れていようと、自己から、自己の全てから解放されたいと願うことである。柔和な人について考察した際に、柔和の本当の意味はあらゆる形における自己からの解放に尽きるということを学んだ。つまり自己関心、自尊心、誇り、自己防衛、神経過敏、他の人が自分に敵対しているという仮想、自己を守り、自己に名誉を返したいという願い、そういったいっさいのものからの解放である。』しかし人間はこの部分で恋い慕うんです。そしてそれを憎むことがありません。『あらゆる形での自己関心から解放されたいと望んでいるのである。これまではどちらかというと消極面から考えてきた。今度は積極面から考えてみよう。
義に飢え渇くとは、積極的に聖くなりたいという切望である。義に飢え渇いている人は幸福の使信を自分の日常生活において例証したいと願っている人である。聖霊の実を個々の行動、生活、行為の全体に示したいと願っている人である。義に飢え渇くとは、新約聖書の人のようにキリストイエスにある新しい人のようになりたいという切望である。すなわち人の生涯の最高の願いは神を知ることであり、神と交わり、父なる神、御子、聖霊と共に光の中を歩むことである。そしてそのようになっていることである。』「神は光であって神の内には暗いところが少しもない。」第一ヨハネに書いてある通り、そしてヨハネはそう述べています。『そしてこれは究極において主イエスキリストご自身のようになりたいという切望、願いにほかならない。受肉した姿でこの地上にいた時の主イエスを見なさい。積極的に神の聖い律法に従ったイエスを注視しなさい。人々と応対する時の主イエス、親切で哀れみに満ち、感じやすい性質の主イエスを見なさい。主がその敵に対してなさったこと、あるいはご自身に向かって敵がしたあらゆることに対する主イエスの応答を見なさい。新約聖書の教えによるならばあなたも私もこの形、この姿に似せて再び生まれ変わり、新しく造られているのである。従って義に飢え渇わいている人とは、その最高の願いはキリストのようになることなのである。
飢え渇くとはどういう意味なのであろうか。私達自身の努力と骨折りによってこの義に到達できると感じる事ではない。それは義についての世的な見方である。つまりそれは人間に目を注いでいるためにパリサイ人のような個人の誇りへと導いていく。民族が他民族に対する優秀性ないしは優越性を主張して、これに敵対するという誇りへ導いていくのである。このような見方は使徒パウロがピリピ人への手紙第3章に掲げて、ちりあくたとして捨て去っているようなものである。』他人と比べ、他の国と比べ、自分を自慢する、そのために骨折ることを言っています。それは全てちりあくたと言ってるんです。『飢え渇くとは、私達の必要の自覚、深刻な必要の自覚という意味である。痛みを感じるほどの自分の必要を深く自覚することである。飢え渇くとは満たされるまで続く。ほんの束の間の感情や願いではない。
放蕩息子は飢えた時、いなご豆を食べに行った。しかし彼は飢え死にかけた時、父親の所に帰って行った。これはまさに要点を言い尽くした言葉である。飢え渇くとは死にもの狂いになること、飢え死にしそうになること、生命が衰えるのを感じること、緊急の助けの必要を痛感することである。義に飢え渇いている人は幸福であり、幸いであり、祝されるべき人である。その人たちは満ち足りるから。彼らはその望んでいるものを与えられる。ここに福音がある。ここに恵みの福音がある。これは徹頭徹尾神の賜物であり、人は自分で自分を義に飽き足らせることは決してできない。神を除外して幸いを発見することは決してできないからである。そして「わたしのところに来る者をわたしは決して捨てません。ヨハネ6章」これは絶対的で確実的な約束であるから、あなたが義に飢え渇いているなら、あなたは飽き足りるようになる。』ここに疑いの余地はないと言っています。『自分が幸福に飢え渇いていないことを確認しなさい。そして義に飢え渇きなさい。キリストに似た者となることを切望しなさい。そうすればあなたは義を得ることができるし、また幸いを得ることができる。』あなたが今まだ自分の幸せを求めているか、点検しろと言ってるんです。『もしあなたが心から主イエスキリストを信じているなら、主イエスがあの十字架の上であなたとあなたの罪のために死んでくださったことを信じているなら、あなたは許されている。もう許しを求める必要はない。すでに許されているからである。そのことの故に神に感謝しなければならない。』ここからが積極面です。結局義に飢え渇いて満ち足りた人は、もう許しを求める必要がないんです。逆説なんですね。渇いた後満たされたら、もう神に許しを請う必要はないと言ってるんです。『神はあなたをキリストの義において見てくださり、もうあなたの罪を見ない。』イエスキリストの中にいる私達を、神は絶対そこから罪を見ないんです。『キリストの義で満たされているのである。素晴らしい驚くべき真理がここにある。義を求めるべきではない。自分がこの義を持っていること、キリストにあって神の恵みにより無償で義とされていること、今この瞬間も御父の前で義である者として立っていること、これらのことは当然知っているべきである。』義に飢え渇いていても私達は義を求めているんではないんです。なぜ?すでにもうイエスキリストの義を持っているんです。これが満たされている人達の神の恵みなんです。
『聖霊は私達の中にその偉大な御業を始めてくださるからである。罪の力と罪の汚れとから私達を解放する御業を始めてくださるのである。私達はこの解放、罪の力と汚れとからの解放に飢え渇くべきである。聖霊はあなたの中に入り、あなたの中で働き、神に喜ばれることをしたいという願いを起こさせ、またそれを行わせてくださる。』ピリピ人への手紙です。『「キリストがあなたの中に入り、あなたの中に住んでくださるからです。」この義を与えられるという祝福はあなたが神と共に、キリストと共に、あなたの中に住む聖霊と共に歩むならば絶えず続くのである。そうすればあなたはサタンに抵抗できるようにされ、サタンはあなたから逃げ去る。サタンとサタンの放つ火のような矢に対抗して立つことができるようにされる。こうして罪の汚れを取り除く御業は絶え間なくあなたの中で進められていく。』これが聖霊の御業です。『この卑しい体さえも造り変えられ、栄華され、キリストの栄光の体と似た者にされる。私達は体も魂も霊も完全なものとなって神の御前に立つ。』すなわち主イエスキリストから完全で充分な義を頂いていくんです。ここが満たされた人の与えられた幸いです。
『しかし、ここにも逆説が見られる。ピリピ人への手紙3章に一見すると矛盾に思われる記事があることに気がついていただろうか。パウロは「私はすでに得たものでもなく、すでに完全にされているのでもありません。」という。そしてそのすぐ後では、「ですから成人である者は皆。」と言っている。キリスト者は完全ではあるがしかもなお完全になるべき人なのである。パウロはコリント人への手紙第一の中で「あなたがたは神によってキリストイエスの内にあるのです。キリストは私達にとって神の知恵となり、また義と清めと贖いとになられました。」と述べている。』パウロはこう言っています。「私はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。」目標を目指して一心に走っていると言ってるんです。確かにパウロはすでに完全になっている人々に向かってこれらのことを話しているんです。ノンクリスチャンに言っているのではなく、飢え渇いて満たされた人にこれを言っているんです。飢え渇いて満たされたにもかかわらず完全ではない、すでに得たのではないとパウロは言っているんです。『だから私達は完成を目指して進もうではないか、ということなのである。キリスト者は飢え渇いていると同時に満たされている人である。満たされれば満たされるほどますます飢え渇く。これがキリスト者の生活の幸いである。』満たされて渇くからまた満たされて渇く、これが本当の幸せだと言ってるんです。『しかもなお先がある。聖化のある段階に到達する。しかしそこに安じて残りの生活を過ごそうとはしない。栄光から栄光へと変えられつつ、天に所を得るまで進んで行く者である。私達は皆この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。』ヨハネ1章にあります。『完全であり、しかも完全ではない。飢え渇いており、しかも満たされている。満足を得ているが、しかもなお多くを求めている。しかしあまりに栄光が豊かであり、あまりに素晴らしいのでいつまでたっても充分ではない。キリストによって充分に与えられてはいるが、しかもなおもっと高い、最高の願いを持っている者。』これがキリスト者と言ってるんです。「キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみに与ることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにか死者の中から復活に達したいのです。」とパウロはピリピ人への手紙で語っています。『あなたは満たされていますか?そして幸いですか?「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」です。これは絶対的な神の約束だと言っています。