弔いのクリスマスパーティー作者考
大学時代に、仲間と私が主宰する劇団を旗揚げし、かれこれ、15作品ぐらいを書いただろうか。私が物書きとなったルーツ。何本かは、仕事で戯曲を書いたので、仕事とも言えるやもしれない。
私が演劇を続けてきたのは、私や劇団が発信したいメッセージがあるからで、自分たちの中では、単なる娯楽でも趣味でもない。
まあ、観てもらわねば、それは伝わらない。また、ファンになってもらわねば、一過性のエンターテーメント、また、お付き合いだから観に行ったで終わってしまう。
そのうちにしかないならば、私の仕事は、まだまだ未熟である。
前回作の桑名空襲とヤングケアラーといじめを絡めた作品上演ののち、ある方が、私のところへ近づいてきて「あなたはすごく大きな仕事をされた!!」とハグするような勢いでお言葉をいただいた。
私も「これが私の作風、作品である」と自覚していたから、その評価は大変嬉しかった。2時間にも及ぶ作品だったが、アンケート回収率が大変高かった。そのぐらい、インパクトがあったと自負している。
さて、今回の作品「弔いのクリスマスパーティー」。
かなり暗いタイトルである。私は、人は過去に対して常に、畏敬の念を有し、どこかで心から弔いながら感謝をしていなければいけないと考えてきた。
桑名に昭和2年から昭和19年までの、たった17年間しかなかったで市電。その市電は、戦時下、軍から不要不急路線と指定され、金属供出のために廃止となる。
まあ、モータリゼーション革命において、いずれ、廃線の運命は免れなかったと考えるが、たった1kmの市電は5〜10分間隔に運行され、多くの人たちを当時の繁華街へ運んでいたのである。
戦前の桑名のまちは、桑名城界隈の狭い市街地に、人々の日常の暮らしのほか、宿場町、城下町、門前町の風情が各所に漂い、映画館や劇場、飲み屋がひしめき合う多様な顔を有するまちであった。加えて、芸妓置屋や遊郭もある色街でもあった。
その旧市街地は、昭和20年7月の2度の空襲で、大部分が焼失した。また、昭和34年の伊勢湾台風の被害以降、揖斐川の護岸工事や城址の堀の埋め立て等で、まちなみは激変した。
プロローグとエピローグで、親子3世代が出演する。
戦後77年、戦前77年という節目の年で、3世代にも渡る物語が書きたいと思っていたが、NHKの連ドラ「カム・カム・エブリバーデイー」で先を越された。
3世代という置き換えで、近現代の縦軸の時間的なつながりの短さと、その短い時間の中で、いかに、日本が激変し、また、今後も激変してもおかしくないことを、作品を通じて、観客にメッセージを伝えたかった。
ロシアがウクライナへ侵攻し、豊かな一国が数ヶ月で灰燼にきした。
あんなことは、21世紀でも、突然、起こるのである。
侍の時代から、わずか、154年。
私たち、日本人は、厳しさを増す時代で、どう生きればよいのか?
また、子供達や若者に、どのような生きるべき指針を示すべきか?
歴史認識、国家観、主体的に市民として声を上げる気勢を、日常から失ってしまった現代人は、今、目覚めて、学ばねば、路頭に迷うことは必至だと思われる。
悲しいかな、その悪い兆しが、世の中に蔓延してきているように思われてならない。
こうしたことを、小難しい話、やかましい話を捉える者は、正直、国民、大人としての責任を放棄した、大変刹那的な者であると、私は言いたい。