没後50年パブロ・カザルスと聴く7つの演奏会 ②
来年2023年、没後50年を迎えるパブロ・カザルスですが、その生涯については、ご存じの方も多いでしょう。
詳細は書籍に任せ、ここでは当演奏会のオマージュ企画の趣旨に関することを紹介させていただきます。
パブロ・カザルス(1876-1973年)は北部スペインのカタルーニャ地方に生まれた20世最大のチェリストで、指揮と作曲にも秀でていました。
この室内楽定期演奏会で度々堪能しましたJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲、この名作は作曲されてから200年近く埋もれていましたが、これに光を当てたのがカザルスであることはご存じの方も多いことでしょう。
そして、より演奏しやすいチェロ奏法を確立し、チェロの演奏水準を高めました。
こうした音楽的功績が素晴らしいことはもちろんですが、晩年のスペイン難民の救済、祖国の平和と民主化を訴えた活動が人間として高く評価されました。音楽ファン以外の方にも広く知られている由縁です。
第2次世界大戦開戦の数年前にスペインで内戦が勃発し、フランコ総統による軍事独裁政治が樹立しました。
戦火の中、被災者や病院を救済するために、カザルスは慈善演奏会を開きました。
そうすることで心に安堵を求めていたそうです。
しかし、ついにカザルスにも危険がせまり、亡命。
北部スペインに近いフランス南部のプラードへと逃げ込みました。
ところが、そこには多くのスペイン難民が野宿で生活をしていたのです。
カザルスは自分の財産を使って、難民のために毛布、食料、薬を配給しました。
さらには、友人音楽家や団体に寄付を求め、配給の労働にも参加したのです。
すでに還暦を超えていたにもかかわらず。
そのようなことが、私たちにできましょうか?
第2次世界大戦開戦後、フランスはドイツに降伏。
カザルスやスペイン難民が亡命した南フランスのプラードは安全な場所でなくなりました。
ある時、ナチスの一行がカザルスを訪れ、ドイツへと連れて行こうと試みたのです。
ヒットラーは芸術文化をナチスの広告塔に巧に利用していました。
カザルスをそれに利用しようと企んだのでは?
カザルスは虐殺されることを覚悟で拒みました。
一方で、アメリカの音楽家友人たちから、安全なアメリカへ亡命するよう誘われていたのです。
しかし、カザルスはプラードにいる同胞たちの側にいること選んだのでした。
そして、終戦を迎えます。
《これで解放される》とカザルスとスペイン難民は期待しました。
ところが、スペインは第2次世界大戦に参戦しなかった中立国だったため、フランコ政権は継続。
連合国は不干渉の立場を取りました。
スペイン難民、カザルスは祖国に帰ることができないままとなったのです。
失意のカザルスは演奏活動を停止し、隠居状態となっていました。
しかし、友人音楽家、アレクサンダー・シュナイダーの説得に応じ、1950年、バッハ没後200年の年にプラードで音楽祭を開催したのです。
それを皮切りに演奏活動を再開したのですが、フランコ政権を容認した国では演奏しないという徹底ぶり。
演奏活動収益でスペイン難民を救済し、舞台から祖国の平和と民主主義を訴えました。
その象徴がチェロで奏でられる故郷カタルーニャ民謡《鳥の歌》で、もの悲しい旋律にスペイン難民の望郷の想いを託したのです。
カザルスの没後50年を記念して、こうしたカザルスの足跡と功績が特集番組などで報道されましょう。
現在の世界情勢も踏まえて、カザルスの人物と偉業がより広く、深く知られることを願います。
当演奏会においても、その一助になればと、カザルス・オマージュを開催することにいたしました。
バッハをはじめとするカザルスが愛した作曲家、および同郷・同時代の作曲家の楽曲、カザルスの室内楽の象徴でありますピアノ三重奏曲などで構成しています。
どれもとびっきりの企画で、これを聴きのがしたら次は無し?という曲もございます。
7つの演奏会の内容については、順次、紹介していきます。
そして、この楽興の時を空の上のカザルスとともに堪能しましょう!
どうぞ、皆様のご来場をお待ちしております。
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