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Okinawa 沖縄 #2 Day 227 (10/12/22) 西原町 (18) Onaga Hamlet 翁長集落

2022.12.11 04:12

西原町 翁長集落 (おなが、ウナガ)



今日は中城村の南上原を訪れるのだが、その途中にある翁長集落に立ち寄る。翁長集落を訪れるのは三回目になる。過去二回の訪問で見落としているスポットを巡る。



西原町 翁長集落 (おなが、ウナガ)

翁長 (方言でウナガ) は、本町のほぼ中央に位置し、幸地、棚原、呉屋、小波津に隣接して いる。また、明治15年には間切番所の敷地の一部に西原小学校が開設され、西原の教育の発祥地でもあった。戦前、翁長には村役場、農業会、村営質屋、駐在所、西原国民学校、 村馬場などがあった。

翁長集落は上ヌ毛 (イーヌモ) を腰当 (クサティ) としその前に広がっている古い集落だった。翁長部落はクバヌ嶽付近で始まり、その後、ティランキーガーのある川田 (カータ) へ移動したが、そこは地すべり危険地域だったので、現在の所へ移ってきたと言われる。カータ付近は古島とも呼ばれている。琉球千草の巻に翁長村の世立初めとして「浦添安波茶村天続大神の御子翁長主在所根所」、地祖始めとして「大里大君の御子西原里主在所座神」とある。伝承によると、翁長部落の国元 (クニムトゥ) は与那城家と言われる。翁長では喜納ヌ御殿散布地と西原の塔北西の翁長散布地1、翁長公民館裏手の翁長散布地2の三カ所の遺跡散布地が確認されている。18世紀後半には幸地から翁長に間切番所が移され、戦前まで西原の政治の中心地だった。


現在、翁長は丘陵上の坂田の上翁長と本来の部落である下翁長に分かれている。上翁長は戦前まではほとんど民家は存在していなかったが、戦後翁長に米軍が駐留していたので元部落への居住許可がおりず、一時時的に居住していた場所だった。下の1948年の地図では元の翁長集落には民家はなく、上翁長の坂田地区に写っている。住民の元の下翁長への帰還後も、上翁長の人口も増加 し、昭和50年には、西原高等学校が開校し、県道38号線沿いには、スーパー、飲食店、家具店、薬局、文具店 などが軒を並べ、上翁長地区での商店街を形成している。下翁長は、公民館を中心に、集落が再形成されている。 元集落なので拝所や井泉や馬場跡などが残っている。


明治13年の翁長の人口は701人 (151戸)、明治18年は886人 (186戸)、明治36年には193戸、938人 (193戸) で村内でも中程度の集落であった。そのうち士族は265人 (44戸) で、比較的、元士族の割合が高い集落と見える。本土復帰以降1980年代までは人口は順調に伸びていた。それ以降は微増で、ここ10年程は世帯数は増加してはいるが人口は横ばいとなっている。

西原町の他の集落と比較すると本土復帰以降は人口の増加率は西原町の平均を上回っており、2000年以降は最も人口の多い地区となっている。


琉球国由来記に記載ある内間集落の拝所は、

  • 御嶽:コバノ嶽 (神名コバ ツカサノ御イベ、クバヌ嶽、消滅)
  • 拝所: 翁長火ヌ神翁長神アシアゲ喜納ヌ殿
  • 拝井:テラノコシノ口川 (寺腰奴呂川、ティランキーガー)
  • その他記載ない拝所: 地頭火神、喜納井泉 (チナーガー) 


戦前まで行われていた村祭祀は下記の通り。この中で重要な村の祭がヨンシー行事で、毎年旧暦の8月7日~15 日にかけて村遊びと一緒に行われる。昼間はヨンシーが行われ、夜に村遊びが行われていた。

琉球王統時代には村祭祀は幸地ノロによって執り行われていた。


翁長集落訪問ログ



翁長公民館、中道 (ナカミチ)、翁長ガニク

翁長集落は北側の丘陵から舌状の高台が伸びておりその高台の真ん中に中道 (ナカミチ) が通っている。の高台に集落が形成され、中道沿いに翁長公民館が置かれている。かつての村屋 (ムラヤー) で、公民館の前を通る中道には翁長ガニクと呼ばれた馬場 (ウマィー) だった。元屋 (ムートゥヤー) と称される古い家柄は、この中道に面していた。この中道は現在の県道38号線ができるまでは丘陵上の棚原方面へ抜ける唯一の道路だった。


翁長の焚字炉 (フンジュルー)

翁長公民館には小さな庭がある。かつてはここは庭 (ナー) でもっと広かった。そこに公民館が建てられている。庭の一角に焚字炉 (フンジュルー) がある。焚字炉 (フンジュルー) とは字を書いた紙 (字紙) を焼いた炉のことである。これは中国明代の敬惜字紙の風習が伝わったもので、1838年来島した冊封使林鴻年が、文字を敬重し、字紙を敬うことを説き、焚字炉を設置させたのに始まる。そのころ翁長にも焚字炉が設置されたのだろう。同じ頃、沖縄本島各地の番所や村屋などに設けられたが、大正時代以降、焚字炉も少なくなった。現在、翁長の焚字炉は屋根の部分を残すのみであるが、戦前まで完全な形で保存されていた。


神 (カミ) アサギ、火之神 (ヒヌカン)

庭の奥に祠がある。神 (カミ) アサギと書かれてある。琉球国由来記に記載されているという翁長神アシアゲで、王府時代では、西原間切で唯一の神アシャギだった。ここでは稲二祭の夜、幸地ノロによって祭祀が行なわれていた。カミアサギは場所によって呼び方が微妙に異なり、カミアシャギとも呼ばれる。隣には火之神 (ヒヌカン) が祀られている。琉球国由来記に記載されている火之神 (ヒヌカン) だろう。

神アサギは沖縄本島中南部に見られる祭祀場の殿 (トゥン) の古い形態で、4本柱または6本柱で壁がない吹き抜け構造で、床張りもなく、軒が極端に低く、腰をかがめないと中に入れない。茅葺屋根の寄棟造が伝統的な様式。これが分布する地域は「神アサギ文化圏」、「北山文化圏」に分類され、三山統一以前の北山王国の版図に重なるとされる。神アサギは時代、地域でさなざまば形がある。


タンパラヤンチ井戸跡

神 (カミ) アサギの後方に井戸が形式保存されている。タンパラヤンチ井 (ガー) と呼ばれているが、この井戸の詳細は見つからず。


与那城 (ユナグスク) 神屋

公民館の隣は与那城 (ユナグスク) の屋敷があった場所で、その屋敷跡の一部に神屋が新しく建て替えられている。与那城 (ユナグスク) は翁長集落で最も古くからある門中で村立てを行った国元 (クニムトゥ) とされている。神屋の前には井戸が形式保存されている。資料ではかつての与那城屋敷の側に与那城井 (ユナグスクガー) があったとされているので、その井戸を移設保存しているのではと思う。


翁長のヨンシー

与那城門中の老人がヨンシーという行事を考案したと伝えられている。ヨンシー行事は悪疫の流行や火事の予防の祭祀となっているが、行事の由来は、昔、一人の老人が大勢の子供たちに蛇形の綱を担がせて遊ばせたことが始まりだそうだ。現在でもこの行事は村で続けられている。翁長ヨンシーは、旧暦8月7日~15日まで翁長集落の中道でおこなわれる。

  • ヨンシーは藁で作られ、長さは約 6メートル、頭部は大きく、尾部は細めに蛇型に作る。
  • 儀礼が始まるまで、ヨンシーは公民館敷地内の翁長火ヌ神の前にとぐろ巻きにして置かれる。
  • 7日は「イータティー」と称し、獅子を先頭にその後から女の子らがヨンシーを頭上に掲げ、公民館から南のシージモーへ行く。シージーモーでの祭祀儀礼が終わると、子どもたちがお供え物の餅を取り合う。これをムチグヮートゥエーといい、その餅を食べると病気にならないという。
  • シージモーでの祈願が終わると、再び子どもたちがヨンシーを肩の上にあげ、馬場 (ウマイー) 跡を通り西のティランキーガー (テラノコシノロガー) に行く。道中、婦人らがチヂン(鼓)や鉦などを打ち鳴らしながら「ヨンシー、ヨンシー、ウナガヌヨンシー」と歌う。
  • ティランキーガーそこに着くと、ヨンシーの頭と尾を繋げるような形で円陣をつくり、その場で七回まわった後、ヨンシーを下に降ろしてから片手を口にあて、「アーワーワー」との声出しを行う。そこから、またヨンシーを担ぎ「ヨンシー、ヨンシー、ウナガヌヨンシー」と唱えながらシージモーへ戻り、そこでも前述と同様の儀礼を行います。それを7往復する。15日まで同様なことが繰り返される。


与那城井 (ユナグスクガー) 跡

中道を丘陵方面に登って行った所が以前に与那城井 (ユナグスクガー) があったとされている。現在は作業所となっている。


サーターヤー跡

明治中期ごろの翁長村は集落の南側に水田が開け、東側には甘藷畑や甘蔗畑が広がる純農村だった。明治21年に甘蔗作付制限が解除され、水田から甘蔗畑への転換のタードーシ (田倒し) が始まり、圧倒的に甘薯畑が多くなっている。戦前までは、ほとんどの家が農業を営んでおり、集落の周辺には五カ所のサーターヤーで黒糖を製造していた。この場所は集落の北側、現在の県道38号線沿いにもサーターヤーの一つが置かれていた。


シージーモー

今度は、公民館から中道を南側に下っていく、道沿いにはシージーモーと呼ばれた場所がある。シージモーは、かつては平坦で見晴らしもよく部落のアシビナー(遊び庭) として使われていた。


喜納 (チナー) 門中屋敷

シージーモーの上の方に喜納門中 (仲宗根姓)  の屋敷がある。喜納家はかつて首里王府勤めをして喜納大親役 (チナーウフヤ) の子孫と伝わり、宗家の喜納家は代々翁長地頭を勤めていた。球陽の尚貞王36年 (1704年) の条に津花波親雲上が具志頭按司の従者として薩摩に行き、帰国後大親役となり、神田夫地頭に任命された。のちに津花波夫地頭職に転じ、西原間切の貧民を援助し、首里王府は津花波親雲上の死後、その功績を称え、子に地頭職を継がせたと記載がある。地元の伝承では首里王府勤めをしていた喜納大親役の子孫が代々地頭職をしていた事から、津花波親雲上と喜納大親役が同一人物との説もあるが真偽は不明。この喜納大親役の子孫が喜納門中一門で、翁長部落の半数を占めている。喜納大親役に纏わる言い伝えが残っている。

喜納大親役 (チナーウフヤ) は知念間切安座間村の出身で、そこから船に乗って首里城へ向かう途中、暴風に遭い船が沈んでしまった。溺れる寸前に亀に助けられ、西原間切小那覇村の伊保之浜にたどり着いた。そこから首里城に登る時、翁長部落を通った。 その時翁長部落の娘と知り合い、大親役の職を辞してからは、この翁長部落で田畑を耕しながら余生を送った。死後、西原の塔近くの墓に埋葬されたという。しかし、親戚らが、昔の習慣通りに死後三日してから墓に行き、櫃の中を覗いてみると、その遺体はすでになくなってい という。

喜納大親役が亀に助けられたので、喜納門中では亀の肉は食しないという。戦前まで、喜納一門は、喜納大親役が上陸した伊保之浜へ毎年回拝みに 行っていたという。この話は浦島伝説の一種で沖縄各地にある。


喜納之殿 (チナヌトゥン)

喜納屋敷のすぐ下、シージモーの上部に喜納之殿 (チナヌトゥン) の祠がが置かれている。部落の発展に尽した翁長地頭の喜納大役が祭られている。


地頭火ヌ神 (未訪問)

またシージモーの一角に、18世紀以降に創設されたと思われる地頭火ヌ神があるそうだが見つからず。



喜納井 (チナーガー)

シージモーの麓には喜納井 (チナーガー) があった。森陰にある古井戸で一面甘蔗畑だったそうだ。現在は県道38号線沿いに、コンクリート製の円形の筒が置かれ形式保存されている。以前は拝井泉で共同井戸として利用されていた。三月ウビーの際に御願が行なわれている。


翁長村馬場跡

中道を降り切った南側には戦前には翁長集落の馬場 (ウマィー) があったそうだ。公民館前の翁長ガニクの馬場との関係はどうなのだろうか?馬場跡の先には西原団地が見える。


西原国民学校跡 (西原中学校)

翁長村馬場跡の東には戦前は西原国民学校だった。1944年 (昭和19年) にはこの西原国民学校に旧日本軍の石部隊本部が置かれて、生徒達は村屋や青空教室で勉学をしていた。戦後は西原東初等学校 (西原小学校) と西原西初等学校 (坂田中小学校) に中等部が併設されていた。

この跡地に昭和34年には坂田中学校と西原中学校が統合され西原中学校が創設された。


寺腰奴呂川 (テラノコシノロガー) / ティランキーガー (2020年5月29日 訪問)

翁長部落から幸地の方向にある神嘗毛 (カンヌミモー) の東側裾部に、この拝井泉の寺腰奴呂川 (テラノコシノロガー) がある。 琉球国由来記には、テラノコシノロ川と記され、稲穂祭三日崇の時に幸地ノロが来て祭祀を行った。今でも祭祀が行われている。地元ではティランキーガーと呼んでいる。井戸の形態は堀抜き井戸形式で、周辺は野面石積みによって、半円形状に構築されている。この辺りは川田 (カータ) と呼ばれ、翁長部落の発祥地と考えられるクバヌ嶽付近から移住してきた場所で翁長古島と呼ばれている。この地も地滑りの危険があり現在地に移住して集落を造っている。


按司墓 (未訪問)

部落の北側に、幸地熱田子伝説にある今帰仁按司を偲んで名付けられた今帰仁山 (今帰仁毛) がある。ティランキーガーの近くには、幸地熱田子と今帰仁軍との戦で戦死した武将らが葬られているといわれる按司墓 (地元ではサムレー 墓という) があるそうだが、写真もなく探すも見つからず。遺老説伝には幸地城主熱田子が今帰仁軍勢に滅ぼされ、その墓は石嶺 (イシンミ) 御嶽の東にあり、熱田子の子孫の多くは、翁長村に住みその墓を守っている。熱田子の後裔は、川端 (カーバタ) 門中だと言われる。 その付近の川田 (カーター) のガマには、戦前までは、遺骨や矢尻、古刀、鏃などが散乱していたという。



樋川井 (ヒージャーガー) (2020年5月29日 訪問)

寺腰奴呂川 (テラノコシノロガー) / ティランキーガーの近くに「ヒージャーガー」と呼ばれる井泉にある。 スヌイガーとも呼ばれていた。ここにはシマチスジノリが生息しているそうだ。「チスジノリ科に属する淡水産の美しい紅藻で、沖縄本島とマリアナ諸島に分布し、沖縄本島中南部、本部半島、金武町などの石灰岩地域の湧井泉に自生している。 シマチスジノリは、色や形が血管に似ていることからチスジノリと名付けられ、方言ではカースヌイとも呼ばれ、オキナワモズクに似ている。」と解説版があった。

井戸には今でも水が湧いており、きれいに透き通っている。ここにはシマチスジノリというもが生息しているので有名な場所らしい。シマチスジノリらしき藻は見当たらなかった。水が住んでいるせいか、オオシオカラトンボの雄と雌が戯れている。


サーターヤー跡

翁長集落の西、樋川井の南側には翁長集落の五つのサーターヤーの一つが置かれていた。サーターヤーの西側は山が見えている。この山には沖縄戦当時旧日本軍の陣地が置かれていた。米軍は How と呼んでいた。昭和20年4月27日から29日に丘陵上から米軍が南下する際の防備にあたっていた。


西原の塔

西原村は沖縄戦当時、日本軍の飛行場があったうえ、司令部が置かれた首里攻防をかけた激戦の地であったため、沖縄戦で最も激戦地の一つとなり、住民の47%が死亡するなど多くの被害を出した。 この場所には西原の塔を建立し、戦争でなくなった村民、村内で戦死した軍人、軍属ら7,000柱余りが合祀されている。 

西原の塔は沖縄戦以前に、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変等の戦没者を祀るために、昭和16年に忠魂碑として建立されたが、沖縄戦で破壊され、生き残った村民が協力して村内各地の野や山で風雨にさらされていた兵士や村民の遺骨を収集し、現在地に納骨した。1955年 (昭和30年)、沖縄協会の援助と村民の奉仕作業及び寄付金運動によって忠魂碑の全面改修を行い、西原村慰霊塔と称し、収骨、合祀した英霊は1,700余柱であった。さらに、1968年 (昭和43年)、再び改修を加えて西原の塔と改称し、合祀柱数は2,000余柱となった。 その後、沖縄戦において西原村内で戦没した県外出身者、村外本県出身者の確認もでき、英霊の柱数も増えた。併せて村内出身者の軍人、軍属、一般戦闘協力者、村出身外地戦没者も含む英霊の遺族台帳の整備を進めるとともに、1976年 (昭和54年) 以降現在まで7,068柱となっている。1985年 (昭和60年) には、西原町非核反戦平和都市を宣言し、積極的な平和事業を推進。1992年 (平成4年)、本土復帰20周年の記念事業として、丘の上には平和のモニュメントを建立。毎年10月、この西原の塔において、恒久平和の祈りと諸英霊の冥福を祈り、戦没者追悼式が行われている。

西原も沖縄戦では大きな被害を被った地域だった。西原村は第32軍司令部のあった首里城の東方に位置し、海岸線は東方に中城村の和宇慶、津波、南は与那原に通じ、東北から北部は上原及呉屋北方高地、そして更に坂田、棚原、西方に幸地から運玉森、首里の弁ヶ岳へと、正面は中城湾三方は高地で首里攻防の激戦地であった。昭和19年8月に、日本軍守備隊が翁長の西原国民学校に駐屯するようになった。当時の村民は北部への疎開を行った。第一陣は昭和20年3月24日頃、北部へ移動を完了。その後すぐに、第二陣を纏めたところで、米軍が4月1日に上陸、僅か2日で島を中断される状況下、北部移動は不可能となり、ある家族隣人等は自家壕に潜み、戦線の近迫と共に多数の村民は砲空爆の中、本島南部へ移動、遂に多数の犠牲者を出す事となった。 5月4日の軍の総攻撃は右翼隊として第24師団 (山3430)、第89連隊、山3476部隊の第三大隊は小那覇、嘉手苅、内間での激戦で多数の戦没者が出る。第一大隊は呉屋北方高地 (現琉球大学) に奇襲攻撃をかけ占領すると米軍の猛反撃で殆ど全滅。第24師団 (山3430) 第22連隊 (山3474部隊) の第11隊は、夜半、幸地まで前進するも、白曉には米軍戦車隊の猛攻で破滅される。総攻撃前には上原から幸地に到る攻防戦は熾烈を極め、特に幸地附近は一週間にわたり、取ったり 取られたりの激戦が続いた。 

西原村の住民をまきこんだ一連の戦闘は、翁長集落の当時の住民の886人の62.8%に当たる556人が犠牲となっている。島尻に逃げた住民の多くが犠牲になっている。これは西原町では最も犠牲者が多い集落だ。一家全滅世帯数71家族で全世帯の38%に及ぶ、生存者の中で家族を失い孤児となった人数は55人で生存者総数の16.7%と非常に多い割合になっていた。戦後、各地区の収容所に1年余の期間収容されていたが、昭和21年4月に120人余の建設隊が胡差地区より西原村の再建のために我謝区に集結。 村民受け入れのために、我謝区に幕舎や井戸、便所などを造設。同年6月、棚原区や幸地区への居住許可はおりたが、翁長には米軍が駐留しており帰還は叶わず、我謝区から棚原区へ移った。旧翁長部落は米軍の小波津川取水池の上流にあたり、米軍は汚染を怖れ、住民の帰還は許可がおりなかった。その為、昭和22年1月から坂田 (上翁長) に新しい部落を建設し8月に移転が完了した。昭和24 年9月、ようやく旧翁長部落 (下翁長) への帰還が許可されている。


地元住民戦没者刻銘碑

村民の戦没者の氏名が記されている。世帯ごとに刻まれている。亡くなった当時の年齢も併せて記されている。同一家族なのだろう見ているだけで落ち込んでしまった。


西原町戦没者刻銘祈願碑

村人の戦没者の統計リストも置かれ、各字毎に戦没者の人数が記載されている。これをみると沖縄戦の悲惨さに胸が痛くなる。当時、西原町全体で総世帯数は2,156で一家全滅してしまったのは476世帯の21%。戦没者が出た世帯は1,803世帯で83.6%にも及ぶ。当時の西原町全体の人口は10,881人で戦没者は5,106人で45.1%。戦没者の多い字は、我謝 (55%)、翁長 (63%)、小波津 (54%) が目立つ。一つの村で5千人もの死者が数日で発生したのだ。一瞬で家も仕事もなくなり、家族も失ってしまった。戦後、数年も苦しい生活を強いられた。明治初期に琉球王国が消滅し、完全に日本に併合され、その70年後には日本本土の防波堤として沖縄県民は12万人の犠牲者がで、その中で一般人は9万4千人に及ぶ。その後、米軍の支配が続く。現在の新型コロナの被害とは比べ物にならないほどの惨劇だ。この様な悲惨な歴史を経験しているからなのか、この新型コロナでは日本本土ほど、動揺していない様に思える。


顕彰碑・歩兵第八十九連隊山476部隊

西原町住民の犠牲者慰霊塔だけでなく、この場所にはいくつもの軍属の戦没者慰霊碑が建てられている。その遺族や関係者たちが建てたものだ。西原の塔の隣には沖縄戦で日本軍主力歩兵部隊だった歩兵第八十九連隊山476部隊の顕彰碑が置かれている。1981年 (昭和56年) に遺族と戦友から構成された八九会によって建てられている。山476部隊はここ激戦地から糸満の新垣にいどうし、6月17日に新垣の司令部壕にて玉砕している。西原町の説明では以下のようになっている。

歩兵第89連隊は昭和14年満州に創設され爾来兵員補充地を北海道とし、第5隷下第24師団に所属軍旗の下に団結東部ソ満国境守備の重責を全うす。とき移り日本が国運を賭して戦った大東亜戦争末期、戦局の逼迫に伴ひ、精鋭第3大隊の中部太平洋派遣をはじめ、多くの戦友を各地戦域に送る。しかれども戦局の推移好転せず。昭和19年7月連隊主力も沖縄防衛の重任を担う。かくして日本が総力をあげた戦は善戦苦闘の甲斐むなしく連隊将兵の多くはふる里を遠く離れた異境の地に屍を埋め、悠久大義の下祖国に殉ず沖縄守備に任じた連隊主力は昭和20年3月より連合軍侵攻を遊撃80余白の永きに亘り凄絶な死闘を重ね連隊長金山大佐以下2千6百余名が玉砕終焉を迎へた。特に此の西原一帯は沖縄戦最大の激戦となった5月4日の第32軍総攻撃に連隊は総力をあげて勇戦敢闘数昼夜に亘りたるも、遂に矢弾つき将兵の多くはこの戦闘に斃るまた此の戦闘に協力せる多くの現地村民も祖国の為に運命を共にせり。これら国難に殉じた尊い犠牲が日本の平和と子孫の安寧を築く礎石となった崇高な歴史を永く後世に伝へ顕彰する為、西原町の協力を得て戦友と遺族の集いである八九会が此の稗を建てる。


魂魄 (独立二十八大隊・海上挺身隊慰霊碑)

ここ西原町は、沖縄戦の最激戦地であり、兵のみならず多数の町民を巻き込み六千余命が失われた土地であります。我が二十八大隊 (海上挺身隊) 昭和二十年五月三日夜から四日の朝方にかけて呉屋の山 (軍が通称120高地と呼ぶ) を中心に米軍との間で激しい戦闘が行われ多数の戦死者を出し、特に第一中隊、神田隊は全滅したのであります。私達生存者と遺族の有志向は悲惨な戦争に想いを致し、かかる過ちを二度と繰り返す事のない様、後世に言い伝えると共に平和の尊さを訴える事が使命であると固く心に誓うものであります。戦後五十周年を迎えるに当たり、戦火の犠牲になられた独立二十八大隊、並びに西原町民戦没者のご冥福を祈り西原町の御協力を得てここに 慰霊碑を建立するものであります。1995年 (平成7年) 4月吉日


外地戦没者之碑と歩兵第89連隊丸地大隊戦没者慰霊碑

更に、1965年 (昭和40年) に建立の第24師団 (山部隊) 歩兵第89連隊山3476の慰霊碑 (右上)、1968年 (昭和43年) に沖縄外地引揚者協会西原村支部によって建立され、南洋諸島その他外地で戦死した兵士を慰霊した外地戦没者之碑 (左下)、この村から移民として海を渡った在ペルー西原村人会が建立したうるま島の榮祈るの碑やペルー観光記念碑、戦没者個人の慰霊碑が置かれている。


観世音の像 (石独立歩兵第11大隊)

独立歩兵第11大隊は昭和13年2月北支天津に於て編成され山西省昔陽県二駐屯し、山西省、河南省、河北省に元旦り、大行山系の各 作戦及び中原会戦、京漢作戦等に参戦、太平洋戦争となるや、19年8月沖縄本島に転戦。米軍上陸と共に、これを迎え撃ち激戦の末、島尻郡与座伸座108高地にて、20年6月18日 最後の突撃を行玉砕す。此処駐屯地西原町西原塔に、太平洋戦争、沖縄戦終詰50周年を迎え生存者相集り今は亡き戦友の慰霊と遺徳を顕彰し世界恒久平和と戦禍に瞑る県民諸霊の冥福を祈念し建立する。平成七年十月吉日 うるま会


納骨堂

平和のモニュメントがある丘の上には、収集された遺骨を納めていた納骨堂がある。


旧西原町役場跡 (西原間切番所跡)

西原の塔がある公園とその隣の現在の給食センターは戦前までは西原町の役場が置かれていた場所になる。18世紀後半までは幸地に間切番所があったが、この翁長に移され戦前まで西原の政治の中心地となった。明治15年にはこの間切番所の敷地の一部に西原小学校が開設され、西原の教育の発祥地でもあった。


喜納大屋 (チナーウフヤ) の墓

西原の塔の東側には喜納大屋 (チナーウフヤ) の墓が残っている。先に訪れた喜納 (チナー) 門中の先祖にあたる。


旧村役場跡

この西原の塔がある場所はもともと西原間切番所が幸地から移って来た場所で、現在は給食センターと慰霊碑公園になっている。


検査井 (ケンサガー) (未訪問)

西原の塔の北側の県道沿いに共同井戸でコンクリート製の筒で蓋がされた検査井 (ケンサガー) があるそうだが、見落としていた。名前からして何か特別な用途の井戸だったように思えるがこの井戸の詳細は見つからなかった。



村役場壕

この村役場のところに沖縄戦で村民の避難壕が残っている。太平洋戦争末期になると、行政や警察の会議を開くための壕が県内各地に建設された。西原村の役場壕もそうした施設のひとつで1944年 (昭和19年) 6月ごろに掘ったもので、役場にあった重要な文書や公印などを保管していた。壕には、戸籍簿、土地台帳、図面、兵籍簿などの書類や、その他公金、出納簿、戦時債券、公印などを収納していた。毎朝出勤すると役場壕から書類を持ち出して事務を行い、夕方再び書類を壕内に運んで保管するという日課を米軍の本島上陸の1945年 (昭和20年) 4月直前までおこなわれていた。西原町制施行20周年記念事業として旧西原村役場壕を整備し保存されている。


サーターヤー跡

西原間切番所、西原役場跡の側にはサーターヤーがあったと民俗地図に示されていた。この辺りだろうか?


今帰仁坂 (ナキジンビラ)

翁長は丘陵下にある集落と沖縄戦後一時的に移住していた丘陵上の坂田も含んでいる。元々の集落を下翁長、坂田を上翁長と呼んでいる。坂田集落には中道を上に進んでいく。坂田地区に入ると坂田ハイツへの坂道があり、今帰仁坂 (ナキジンビラ) と呼ばれている。この辺りでは幸地グスク城主の熱田子と今帰仁軍の戦闘があった場所。


坂田自治会館

坂田地区は戦後、丘陵下の元々の翁長集落が米軍に接収され、帰還が叶わず、一時的に住居を設けていた。昭和24年に帰還が許されたのだがその後もこの地に人が増えていき坂田ハイツが造られている。団地の中には自治会館も置かれている。ここは高台になっており、沖縄戦では旧日本軍陣地が置かれていた。米軍は Horse Shoe と呼んでいた。

坂田は隣の幸地にも広がっており、そこには坂田高層団地がある。丘陵下よりも丘陵上の方が住宅地として開けている。


クバヌ嶽 (消滅)

坂田団地の端のカンヌミモー (神嘗毛) の山頂付近の崖縁には、かつて、琉球国由来記にあるコバノ嶽 (神名コバ ツカサノ御イベ、クバヌ嶽)があり、翁長集落の守護神を祀ってい た。地すべりや災害などが起きると、このクバ 獄へ祈願したといわれる。翁長集落はこの辺りで発祥したと言われ、地滑りで、この丘陵下の川田 (カータ) に移住している。

ここも地滑りが起きて、御嶽が流されてしまい、現在は消滅してしまった。


上ヌ毛 (イーヌモー)

今帰仁坂とは別に坂田団地から下翁長へ降りる道があった。そのあたりは上ヌ毛 (イーヌモー) と呼ばれ、翁長集落の腰当 (クサティー) で聖域だった。道を降りていくと「通学路」と書かれていた。看板の隅にはハブ発見注意と張り紙がある。この急な坂道をハブのリスクを抱えて学童が通学しているのだ。


西原運動公園、歌碑月桃

今日の目的地の南上原に向かう道の途中に西原運動公園があり、その中に歌碑月桃の碑があった。月桃の歌は沖縄戦での戦没者を追悼し、平和を願う歌として、県内外で広く国民に親しまれている。1982年に沖縄県西原町在住の海勢頭豊氏が作詞・作曲したもので、1995年度制作映画「GAMA-月桃の花」の主題歌になっている。2001年以降、毎年「慰霊の日」の夕刻には運動公園に集まり「西原町平和音楽祭」を開催し、この月桃を歌い恒久平和を祈っている。


参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想