遊泳
Facebook相田 公弘さん投稿記事 【仏のシナリオを生きる】
ひろさちや氏の心に響く言葉より…
わたしたちはこの娑婆世界において、いろいろな配役を割り当てられて、それを演じています。
仏がわれわれに、「すまんが、あなたはこの配役をやってほしい」と頼んでおられるような気がします。
もっとも、「わたしはそのような役はいやだ」と断る、いわゆる拒否権はわれわれにはなさそうです。
仏のシナリオに従って、われわれは仏が決められた役を演じるよりほかないのですが、一神教のように高圧的に命令されたといったところはなく、仏から頼まれたというニュアンスが感じられます。
それが仏教のあたたかさです。
そうです、わたしたちがこの世に生きているのは、仏が書かれたシナリオの中で、それぞれがいろんな配役をもらって、その役を演じているのです。
その“演じる”という言葉は英語で言えば、“プレイ (play)”で、それは“遊び”なんです。
だから、われわれは 仏のシナリオの中でプレイしているのです。
それが人生です。
人生が無意味だというのは、わたしたちにはシナリオの全体がわからないから(なにせ 何億年にわたるシナリオです)、自分が演じている役の意味がわからないということなんです。
しかし、そんな「意味」を考える必要はありません。
第一、考えたってわからないのです。
仏が書かれた厖大(ぼうだい)なシナリオですから、わかるはずがありません。
わたしたちは 仏に頼まれてその役を演じているのです。
仏が無意味な配役をこしらえておられるはずがないから、仏のお考えでは意味があるのです。
わたしたちはそれを信じて、ひたすら頼まれた配役を演ずればよいのです。
プレイするといいのです。
遊びをすればいいのです。
あなたが大企業の社長の配役をもらったのであれば、それをプレイしてください。
あなたが引きこもりの人間の役を頼まれたら、その引きこもり役を演じてください。
病気になってほしいと頼まれたら、病人を遊べばよいのです。
その配役の価値の大小は、われわれにはわかりません。
世間の物差しで見ると、〈いい役だなあ......〉と羨ましくなるような配役もありますが、もう少しシナリオが進むと、それがとんでもない悪役になるかもしれません。
ただし、悪役が悪いというのではありませんよ。
悪役がなければ、芝居はおもしろくありませんね。
悪役を悪役として立派に演じるのが名優です。
ともかく、われわれとしては、仏の物差しによるとすべての配役が有意義ですばらしいのだと信じましょう。
というより、配役の価値の大小を考えないことです。
そして、頼まれた役をしっかりと演じます。
そうすると、この娑婆世界での出演が終って、仏の世界であるお浄土に帰ったとき、阿弥陀仏が、
「ありがとう。あなたがしっかりとあの配役をやってくれたおかげで、わたしの演劇がすばらしいものになったよ。あなたには世間の物差しでは損な役割、いやな役を与えてしまったが、にもかかわらずあなたはちゃんとそれをやってくれた。お礼を言いますよ」
と、わたしたちをねぎらってくれるでしょう。
この世の中でいい配役をもらった人より も、損な役割をもらった人のほうが、きっと阿弥陀仏の感謝の言葉を多くもらえるでしょう。
きっとイエスが、「貧しい人、泣ける者は幸いである」と言ったのは、そういう意味もあるはずです。
だからわたしたちは、世間の物差しをちょっと横に置いて、仏のシナリオの中でもらった配役をプレイしているのだと思いましょう。
人生は、娑婆世界に遊んでいることだと信じましょう。
そう思って生きれば、もっと楽に生きられるはずです。
『「狂い」のすすめ』集英社新書
https://amzn.to/32fBXqG
「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という言葉がある。
藤原東演住職はそれをこう解説している。(禅、「あたま」の整理/知的生きかた文庫)より
「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅語は、「無門関」の第一則に出てくる。
我を忘れて、無心に遊んでみないか。
仕事も、趣味も、生活でなすことも、さらには人生の運不運もすべて遊び心で生きることがすばらしい。
仕事は成果をあげなくてはならない。
「何かのため」という意味づけが不可欠だ。
ところが、遊びは何かのためにという目的がない。
その成功とか失敗なんか関係がない。
成果など計算したら、それは遊びではない。
人の評価も気にする必要がない。
ただやることが面白い、楽しいからやるのである。
山田無文老師は真の「遊戯三昧」の境地をこう教えている。
「働くことがそのまま遊びなんです。人のためにすることがそのまま遊びなんです。苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」』
遊戯三昧とは、何事にもとらわれず、自由に遊び尽くすこと。
苦しいことや嫌なことも、それを楽しむこと。
言ってみれば、人生をゲームのように楽しむということ。
嫌なことがあったら、「ああ、そう来ましたか」とニヤリとする。
辛いことがあったら、「なるほど、その手があったのか」と苦笑いをする。
人生は、仏さまから一人ひとりが配役を頼まれたドラマ。
そして、チャップリンのいう通り、「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」。
人生というドラマを遊んでみたい。