Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 231 (28/12/22) 旧首里三箇 (2) Sakiyama Area 首里崎山町

2022.12.29 13:40

旧首里三箇 首里崎山町 (さきやま、サチヤマ)


旧首里三箇 首里崎山町 (さきやま、サチヤマ)

首里崎山町は、首里城の東南の高台に位置し、四方を眺望することができ、東側の南風原町、南側は南風原町と那覇市繁多川、西側は首里金城町、北側は首里赤田町と接している。

崎山の地名の由来について、雨乞い御嶽や崎山御嶽などのある山の地形にちなんで名づけられたとする説と先に開拓された赤田から見て先にある山 (先の山) からきたとする説のふたつがある。

崎山は、赤田、鳥堀と合わせて三箇 (サンカ) と呼ばれ、泡盛の産地としてその名をはせていた。町内の各所に酒造所の名残りが残っている。

琉球王統時代から戦前まで、首里崎山町の中心は馬場跡がある首里城の南側、つまり首里崎山町の北側に集中している。民家が拡張していったのは1990年代からで、元の集落の南側に広がっている。現在でも、高台の麓は大学があるくらいで、民家ははほとんど見当たらない。


人口を見ると、民家の広がりがそれほど見られない事が反映されている。明治時代の人口は2,273人で、沖縄戦で人口は減少し、明治時代の人口に戻るのは1970年で、それ以降人口は増加し、1973年に2400人程になったが、これがピークで、それ以降は減少に転じ、現在でもその減少傾向が続き、現在では明治時代の人口の8割程度しかない。

2020年末の首里区内での人口は以下の通りで、首里崎山町はほぼ真ん中に位置する。とはいっても、首里区では首里石嶺町が総人口の38%も占めており、他のどの地域も人口は少ないといってよいだろう。


首里崎山町訪問ログ


今日から、ウォーキングで巡れる文化財のある近場の地域を訪問する事にした。今までは、自転車で移動する遠出をしていたが、自転車では足や腰に衝撃がなく負荷をかける運動にならないので、ウォーキングでの集落巡りも混ぜて行くことにした。前回から始めた首里地区の首里崎山町をウォーキングでめぐる。王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会) に記載されている文化財紹介に沿って巡る。



ナゲーラ橋

自宅から一日橋まで出て、県道82号線 (那覇糸満線) を登って行き、金城ダムへの道と交差する所まで来た。ここには金城ダムへ流れ込む安里川が流れており、そこにナゲーラ橋が架かっている。安里川が西側の南風原町の新川と東側の繁多川との境界線になっている。この安里川上流の首里赤田にある下川原橋 (シチャーラバシ) や下流のヒジガー橋金城橋 (カナグスクバシ) と同様に石造のアーチ橋だった。その前は木橋だった様で、1677年 (尚貞9年) に建立されたに金城橋碑文には金城橋と同時期に新川橋が石橋に掛け替えられたとあり、この新川橋がナゲーラ橋と考えられている。戦後、コンクリート製の橋に修復されている。写真 (右上) では、ナゲーラ橋の周りは草で覆われて微かに橋がみえる程度だった。


大門坂 (ウフジョウビラ)

県道82号線を更に北に進むと、左側に急斜面の丘陵となっている。この丘陵の上が琉球王統時代の崎山になる。この丘陵へ登る平均斜度9度の道を大門坂 (ウフジョウビラ) と呼んでいた。この道は現在は県道82号線で分断されているのだが、下の方は首里赤田町の谷底にある下原橋 (シチャーラバシ) まで伸びており、知念や玉城方面への宿道とも伝わっている。大門坂の上の方にはまだ、僅かに石道の名残りの敷石が残っている。

この丘陵上への道はこの他にもあるのだが、こんなに急な細い階段になっている。住宅地が造成された際に設けられたのだろう。

この辺りの琉球王統時代から現在までの変遷を地図にプロットしてみた。琉球王統時代は道の本数は少なく、大門坂は首里への数少ない道の一つだった。現在の主要道路の県道82号線は戦後、米軍により戦略道路として造られたもので、それ以前は谷間だった。


大門ヌ前 (ウフジョウヌメー)

大門坂の上の方は階段になっており、これを上り切った所が大門ヌ前 (ウフジョウヌメー) で、ここに門があったという。大きな門だったという言い伝えがあるのだが、そうだとすれば、何らかの目的で大きな門が造られたと気になったのだが、「首里の地名」によると、大門の都門の役割は外敵に対する防禦、または、国力を表象するものとを考えると、尚巴志の時代には既に中山門が創建されていたので、ここにに大門を造る必然性があったとは考えにくいとある。伊波普猷の南島方言史攷には「ジョウは後世に門を表すようになったが、それ以前は門の前の道路を指し、もつと古い時代には、広い原野、戸外を意味していたと思われる。」とある。これらから推測すると、ここには古い宿道だった事も考慮すると、大門 (ウフジョウ) は門ではなく、大通りを指したものではないかとされている。


大門端処 (ウフジョウバンタ)

かつての大門の東側は大門端処 (ウフジョウバンタ) と呼ばれ、切り立った崖だった。沖縄でバンタとは崖を意味する。

大体の場合崖上は広場になって、人が良い景色を見ながら集う場所となっていた。ここも多分そうだろう。ここからの景色も良い。


建善寺跡 (キンジンジ)

大門端処 (ウフジョウバンタ) の北側には琉球王統時代、建善寺という寺院があった場所になる。建善寺は臨済宗の寺院で山号を霊芝山 (れいしざん) とし、天王寺の末寺だった。1456年 (尚泰久3年)、第一尚氏尚泰久が創建したとされる。1609年の薩摩侵攻時に薩摩軍により焼かれ、後に廃寺となったが、1619年に尚元王の三男 金武王子尚久らにより、首里城近くに再興され、一時期は金武家の菩提寺でもあった。琉球国由来記の霊芝山建善禅寺記 (原漢文) には「中山世の主のくにの宮城の北に山あり、高大で堅固おおいに民ののぞむ霊芝山なり、中に精舎を創り建善寺と号す也。尚泰久王によって景泰年中に創建され、宗門の首と為す所なり。是に由り、本堂空に聳え立ち、高楼は陽をさえぎる。僧房月に映え、師のめぐみ逼ねし。 黄金の仏像は中空にひかり輝き、春の花園の霧の如くに仏門の気は盛んである。山にかこまれ、薪を取る地は広く、耕地をつくり、以って香ばしい料理を供給する也。 これに因って、一方の法界の冠とほめそやす也。後百五十余年を歴て、諸堂宇老朽す。兵乱 (薩摩の侵略) の後、悉く空地となる。万暦三十七己酉 (1609年) より戊午 (1618年注) に至る、中を隔つは十年也。 時に己未 (1619年) に当り、尚久 金武王子、摂政中城王子 (尚豊)、心を一つにして、この古い昔の石礎を新しくし、再び方丈を建てて、わが御霊屋とし前円覚寺天叟長老に授け与え、もって廟寺となす也。」とある。


善友名岩 (チュンナーシー)

建善寺と堀川親雲上 (フッチャーぺーチン) の屋敷の境に善友名岩 (チュンナーシー) という巨岩があったそうだ。首里古地図にも描かれている。善友名岩がこの一帯の最高所に聳えていることで、尾根の地に在る岩という意味のトゥン (尾根)・ナ (土地)・シー (岩) から、トゥンナーシーに変化し、さらにティュンナーシーまたチュンナーシーに変化したと推測される。岩 (シー) の西方脇に三つの香露が置かれていて拝所となっていると資料にはあるのだが、香炉は見つからなかった。


ボーンター積み石垣

大門ヌ前から首里先崎の中心地に向かう道は細く、昔ながらの石垣に囲まれた民家が幾つかあった。この辺りの敷地を囲む石垣は幅が厚く、上が丸みを帯びた造りになっていた。首里三箇之一つの首里先崎は酒造りの街で、酒の麹を寝かせる時に使う湿ったニクブク  (蓆、筵) を乾す作業に便利なように工夫したもので泡盛酒造所独特の石積みになっていた。この石積みをボーンター積みと呼ばれている。


馬追いの頭 (ウマウィヌカラジ)

道を更に西進むと、道幅が広くなる。この場所は馬場の頭 (ウマウィヌカラジ) と呼ばれ、ここから西に伸びる王家御用の馬場 (ウマィー) の起点だった。325mも長さだった。今はこの馬場跡は「せせらぎ通り」と呼称されている。


王家御用の馬場 (ウマィー)、せせらぎ通り

ここは馬追いと呼ぶ乗馬の調教場跡で平良馬追いや識名馬追いと識別するために、崎山馬追いとも呼 ばれた。馬場跡 (ウマィー) のせせらぎ通りはタイルで装飾されている。かつてはこの馬場ありで、村の綱引きが行なわれていた。

馬場跡の馬追いの頭 (ウマウィヌカラジ) から馬追いの尻 (ウマウィヌチビ) まで、崎山町内の芸術家等の作品が幾つも展示されている。

道並木にはサガリバナが植栽され、中秋の名月の頃には花が咲く。那覇には何ヶ所かサガリバナの名所があり、ここはその一つ。ここにはその時期に来ようと思っていたのだが、サガリバナは、陽が落ちる頃に花を咲かせ、夜明けには散ってしまう「幻の花」と呼ばれているので、見るのが難しく、今年も時期を逃してしまった。


末衛増御嶽 (シーマシウタキ)

旧崎山村の御嶽の一つで、俗に御願小 (ウガングヮー) と呼ばれて、地元の人に親しまれている。 御嶽 (依代の岩) の四囲は、戦後まで湿地帯で、川や田螺が栖棲していて、昔はこの一帯が水田だった。シーマシとはシー (岩) マシ (水田) を表す地相語で、水田の中の岩に在す神を意味している。昔は田圃の中の小岩に鎮座していた事からシーグヮーヌウタキだったのがシーマシウタキと変わり、末衛増御嶽が当て字となっている。この末衛増御嶽は「地元ではウガングッと呼ばれている。伝承では昔、弁ゲ嶽の神様が崎山嶽を訪問する際に中休した場所」とある。以前はウガングヮーの横に井戸があって、馬勝負 (ンマウィンマスーブ、競馬) の後、馬に水浴びさせていたという。


御桟敷 (ウサンシチ)、崎山公民館 (倶楽部)

琉球王統時代、馬追いでの揃えの際に、それを見物のため、国王などの観覧席が仮設されていた。現在の公民館 (倶楽部) のある場所だった。御桟敷は幅約1間半、長さ34間程で、石で仕切られ、其の傍には巨大なガジマルの老樹が2本植っていたという。公民館の前には馬場だった事で、馬のモニュメントや沖縄戦後、村内の連絡用に使われた酸素ボンベが吊され残っている。


崎山村学校所跡 (サチヤマムラガクコウジュ)

琉球王統時代には、御桟敷 (ウサンシチ) に隣接して崎山村学校所が置かれていた。1798年 (尚温4年)、国学や平等所学校が創建され始めた。1835年 (尚育1年) に首里王府は村学校所設立令をだし、各村に村学校所の設立が命じられている。村学校所では王府の文教を司る鎖之側 (サスヌスバ) という役所の指揮のもと、士族の子弟は7~8歳で入学し、元服する14~15歳までの間、初等教育が行われ、三字経の読み書き、論語、孟子などの四書を学んでいた。村学校所は首里には14校あり、この崎山村学校所は啓蒙館 (知識がいまだなく物事の道理に昧のを啓発するという意味) とも呼ばれていた。


瑞泉酒造

せせらぎ通り沿に1887年 (明治20年) に喜屋 武幸永が創業した泡盛製造所がある。喜屋武酒造所といった。1935年 (昭和10年) に佐久本政敦が経営を引き継ぎ、佐久本酒造所となった。この崎山は水が豊富で、球王府時代、首里三箇にのみ許された泡盛製造所があった。現在はこの崎山地区でこのだけが残っている。1957年 (昭和32年) に瑞泉酒造と名を変更している。首里城の数ある門の中の一つの瑞泉門のもとから湧き出る泉を「瑞泉」といった。この瑞泉にあやかり命名している。「瑞泉」、「おもろ」などの銘柄で泡盛販売をしている。泡盛酒造所では、泡盛の製造工程で出るモロミの搾りかす (カシジェー) を豚に飼料として与え養豚業も併せて営んでいたそうだ。 

店の中は見学ができるようになっている。前回訪れた際には、係員さんが丁寧に説明をしてくれた。泡盛は一説では米を原料で使用する前は粟を使っていたことから泡盛と呼ばれている。 (他の説もあり、蒸留の時に泡が出るのでという) 沖縄のお米を利用しているのかと聞くと、全て輸入のタイ米を使用している。これは昔からそうだった。泡盛はウイスキーやブランデーと同じ蒸留酒で、15世紀にその製造法が琉球に伝わったという。発祥地のイラクから13世紀にインドを経て中国に伝わり、さらに南下してシャムに 伝わりラオロン酒が生まれる。当時、琉球は東南アジアの国々と盛んに交易しており、特にシャムとの交流は頻繁だった。このシャムから南海を渡って来た古のウチナーンチュが蒸留酒とその製造技術を琉球に持ち帰り、遅くとも15世紀後半には琉球で泡盛が造られ始めている。

お店なので多くの売り物の泡盛がある。全て泡盛。昔の製造法を試して琉球王朝時代の泡盛の製造に成功したそうだ。泡盛は3年以上経つと古酒と呼ばれるそうだ。スーパーでは数百円から色々な泡盛が売られている。値段は年数と度数で大体決まるそうだ。試飲コーナーもあるのだが、自転車ので遠慮した。泡盛は度数が高いから少しの量でも酔ってしまいそうだ。


馬追ヌ尻 (ウマウィーヌチビ)

崎山馬追い (馬場) の端に着く。ここは馬追ヌ尻 (ウマウィーヌチビ) と呼ばれる。最後尾を意味する方音で、古語の陰門をいう屎 (ソビ) が、崎山では臀部や後方を指し、馬追の尻 (ウマウィーヌチビ) とは、崎山馬場の後方 (シリヘ) をいう地名になる。この場所には井泉のモニュメントが造られている。


馬浴せ場跡 (ウマアミシー)

馬追ヌ尻 (ウマウィーヌチビ) には崎山馬追い付設の浴場の跡で、戦後まではその名残りをとどめ低地になっていて、雨天の後まで泥濘

んでいた。第二尚氏代中葉には崎山樋川の豊富な湧水を利用して、この地に馬浴せ場を作り、崎山馬追いで、調教馴致をおえた馬をここで水浴びさせていた。


崎山遺跡

崎山馬場跡の西側は高台になっており、首里崎山公園になっている。公園の入り口付近に旧石器時代の遺跡があり、崎山遺跡と呼ばれている。鹿の角や骨が発見されている。採石工事のために著しく破壊されてしまった。

沖縄では100カ所以上の地点からシカ類化石が発見されているのだが、沖縄では鹿を見た事もないし、生息している話も聞かないので、調べると、かつては沖縄にシカ類が生息していたそうだ。昔といっても、2~3万年前にリュウキュウジカ (写真左上) やリュウキュウムカシキョン (右上)、ミヤコノロジカ (左下) は絶滅したと考えられている。慶良間の久場島にはケラマジカ (右下) がいるのだが、これは琉球王国時代に金武王子が薩摩から持ち帰り放飼し、その後繁殖したもので、琉球古来からの鹿ではなく、キュウシュウジカの近縁種だそうだ。


首里崎山公園

高台を登った所が首里崎山公園となっている。この場所には、察度王の子の崎山里主 (サチヤマサトゥヌシ) の屋敷があった。崎山里主には、那覇の波上宮を建立したとの伝承がある。琉球国由来記には

昔、南風原間切の崎山村に崎山里主なる者がおり、常に釣や漁を好み、日々海や渚に行っていた。ある時、後ろから呼ぶ声があったため振り向いてみると無人であり、その辺にはただ異石があるだけであった。崎山里主はこの石から声が出たものと思い、そのため高所に安置した。祈って、「もし神霊であるのなら、私の今日の魚釣りは思い通りにさせて下さい」と言った。するとその日は大漁で、喜んで家に帰った。その後も祈ると度々霊験があった。ある夜、石のあたりに光があった。霊石だろうと思って、持ち帰って崇めた。時にこの国の諸神がこの石を奪おうとしたため、家にこの石を隠したが、害されることを恐れて、遂に石を抱いて村を出て北に去った。諸神は許さずこれを追ったが、さりとても崎山里主の志は堅く、その霊石を棄てず、遂に波上山に至った。たとえ死んだとしても他に行くべきではないと決意したが、ここに到って諸神は奪おうとすることを止めた。その時神託があって、「私は日本熊野権現である。お前は縁があるからこの地に社を建てなさい。そうすれば国家を守護するだろう」といった。これによって王家に奏上して社を建てた。ある日、鳧鐘(梵鐘)が波の上より浮んで来た。鐘を撞けば、その音は波上山(なんみんさん)といった。そのためこの鐘を崇めて神殿に安置した。

とある。崎山里主 (崎山之子) は察度王が勝連城の姫と結婚し生れた長男で、武寧は腹ちがいで生れた次男であったという。 (武寧が長男としているの資料の方が多いが) 察度王の嫡男であったが廃嫡されたとも伝わっている。崎山里主は、南風原の大国家の養子になったという伝承もある。崎山里主は察度の庶子であったことや温厚篤実な性格で王世子としての資質に欠けていたとして、武寧を王世子にするために大国家に養子に出されたという。別の資料では崎山之子は殺傷を嫌い仏神に帰依し、崎山聖人とも呼ばれ、廃嫡されたともいう。

ここからは修復中の首里城が一望できる。


崎山御嶽 (サチヤマウタキ)

公園の向こう側に祠が見える。この公園全体が崎山里主の屋敷だったが、崎山里主の死後、その徳を慕って屋敷を御嶽にしたという。首里王府時代には、首里大阿母志良礼が仕えた南風之平等 (ハエヌヒラ) の御嶽の一つで、王府の聖地を参拝する行事である首里拝み (すいうがみ) や、離島への遥拝所として参詣者が集っていた。御嶽は樹林におおわれ、岩石が点在し、東向きにした瓦葺き屋根付門があったが、1865年に石造屋根型の門切妻風屋根の石造アーチ門に造り変えた。沖縄戦で破壊され、現在ではコンクリート造の門になっている。

1959年 (昭和34年) の発掘調査で御嶽内からは、高麗瓦と大和系瓦が大量に出土していることから、瓦葺の建物があったと考えられる。沖縄で瓦の出土が確認されたのは首里城、浦添グスク、勝連グスク、久米村、崎山御嶽の5ヶ所だけで、当時は限られた者が住める立派なものであったといわれている。

御嶽の後ろは小高い丘になっていて、那覇市内が望める。


東姓拝所

崎山里主の墓とられている東姓拝所が公園内にある。東姓門中 (東姓会) が墓碑を建てている。この東姓門中は大宗家を東氏津波古殿内の始祖の東風平親方政真を元祖とし、東氏を名乗り、崎山里主の末裔とされている。政真は、尚円王世代に東風平間切地頭職を任じられ東風平親方を名乗るまで出世し、1524年に首里崎山村に尚真王より家屋敷を賜わったという。


崎山樋川 (サチヤマフィージャー)

崎山御嶽の丘の下に崎山樋川がある。察度王時代は首里城の御用水だった。

首里王府時代、この崎山樋川も崎山御嶽とともに首里大阿母志良礼が祭祀を行い、その年の恵方が巳(南南東)であった正月には国王に若水を献上していた。この事から巳ヌ方ヌ御井 (ミーヌファーヌウカー) とも呼ばれていた。


空手古武術首里手発祥の地顕彰碑

崎山御嶽からは公園が南側に続いている。

遊歩道を進むと、広場に出る。ここには唐手佐久川、佐久川の棍で知られる琉球王国時代を代表する武術家で沖縄唐手の首里手 (スイティ) の祖である佐久川寛賀 (さくがわかんが) の生誕232年を記念した空手・古武術首里手発祥の地顕彰碑が置かれている。佐久川が中国で学んだ中国武術を沖縄固有の武術の手 (ティー) に、合せたのが今日の空手の源流である唐手だ考えられている。


雨乞御嶽 (アマグイウタキ)

広場の隣には雨乞御嶽 (アマグイウタキ) がある。雨乞御嶽は沖縄では多くあり、その多くは同じ様に低い石垣で丸く囲まれた聖域の中に石敷きに祠と香炉が置かれている。琉球王統時代には、7ヵ月以上雨が降らないとき、国王自ら臣下や神女官らを率いて、この地に赴き、雨乞いの儀式を行い、「雨、雨たーほーり龍神がなし」と唱え、降雨を祈った場所になる。琉球国由来記に「神名 天通ルアマオレヅカサノ御イベ此嶽、大旱之時為、有行幸也。其時御崇者、三平等大阿武志良礼・首里根神阿武志良礼也」と記されている。また、この雨乞御嶽は玉城村の雨粒天次嶽 (アマチジ御嶽) への遥拝とする説もある。この辺りは1900年初頭までは琉球松が美しい並松だったが泡盛醸造所の林立する煙突からの亜硫酸ガスによって、全て枯れ果ててしまったという。

ここからの眺望は、零壇春晴として首里八景の一つに数えられていた。 現在は一面民家やビルで埋め尽くされて、当時の風光明媚な光景は消えてしまった。


未御嶽、午御嶽

雨乞御嶽の後方に小さな祠があり、その脇に未御嶽、午御嶽と書かれた石板が置かれている。この拝所についての情報は見つからなかった。フェンス脇にある事から、元々はフェンス向こう側の崖にあったのではと思う。ちょうどこの後訪れる國吉比屋墓がある場所との間になる。(写真右下) 未、午は方角を表しているので、その方角から村を守る拝所だったのかも知れない。


御茶屋御殿石獅子

崎山公園の南端には那覇市指定の有形民俗文化財となっている御茶屋御殿石獅子が置かれている。元々はこの南側にあった王家別邸の御茶屋御殿の岩陰にあったが、岩陰が崩壊の恐れがあり、ここに移設されている。島尻一帯で最も恐れられていた火山 (ヒーザン) の八重瀬岳への火返し (ヒゲーシ) とされていた。 沖縄戦で破損したが、1979年 (昭和54年) に修復されている。 沖縄の石獅子に中で八重瀬町富盛の石獅子が最古とされているが、1682年 (尚貞14年) に来琉した冊封使の記録にこの御茶屋御殿石獅子が触れられているので、八重瀬町富盛の石獅子より古 い可能性があるそうだ。

前回 (2019年8月24日) ここを訪れた際には他の公園と同じく猫がいっぱいいたのだが、今日は1匹も見かけなかった。どうしたのだろう。


崎山御殿跡 (サチヤマヌウドゥン、延秀山荘)

崎山公園を南側に抜けた所にある広場は琉球王統時代には崎山御殿が建っていた場所になる。崎山の御殿は道を挟んで1677年 (尚貞9年) に建てられた御茶屋御殿 (東苑) と並んで、王家の東苑別邸として1682年 (尚貞2年) に建てられた。延秀山荘とも呼ばれていた。現在は見る影もないのだが、石垣に取囲まれた一廓がその跡の一部という。


御茶屋御殿 (ウチャヤウドゥン、東苑) 跡

首里台地の南東の端の崎山御殿と御茶屋御殿坂を挟んで御茶屋御殿が1677 (尚貞9) 年に、伊堂親方守浄によって建てられた。首里王府の別邸で1683年 (尚貞15年) にやってきた冊封使圧溝によって首里城の東にあることから東苑と中国名を付けられた。 御茶屋御殿は、玄関をはじめ和風作り殿舎で、識名園 (南苑) とともに、創建当初はもっぱら薩摩使節歓待のために用いられたが、冊封使節一行が来琉した際にも歓待に利用されていた。風光明媚な地にあり、ここでは国王が遊覧した際に、管弦の宴、茶の湯、立花などが催されていた。

沖縄戦で、建物は破壊され、わずかに石垣と石段跡を残すだけとなっている。跡地にはカトリック教会が建てられており、敷地内には石垣などの遺構や拝所が現存している。御茶屋御殿の南縁の崖一帯は、樹木がおい茂り林の中は陽も射さない程であった。この林を御殿山 (ウドゥンヌヤマ) と呼んでいた。この中に先程見学した石獅子が置かれていた。

教会の礼拝堂の裏の端に御殿山の拝所が置かれていた。

この御茶屋御殿の復元保存を図ろうと1997年 (平成9年) に市民有志により「御茶屋御殿復元期成会」が結成され、2006年の那覇市議会で議決され、2016年 (平成28年) には御茶屋御殿復元の調査が決定している。2022年には那覇市議会が国に復元を求める意見書を出している。果たして実現されるのだろうか?再建スケジュールなどは公開されておらず、ただ、「段階的な整備に向けた検討を進める」とあるだけで、まだまだ具体化している様には思えない。この場所は観光出人気のある首里城や金城石畳からは少し距離があり、わざわざここまで足を延ばすとは思えない。首里城近くの円覚寺や中城御殿も再建計画があり、その中では最も優先度は低いと思われ、実現も危ういだろう。

下の写真は2000年から2002年にかけて発掘調査が行われた茶殿跡。


御茶屋ヌ坂 (ウチャヤヌフィラ)

御茶屋御殿から馬場の頭まで道があり急な坂道になっている。御茶屋ヌ坂 (ウチャヤヌフィラ) と呼ばれていた。


城南小学校 (御茶屋御殿菜園跡)

御茶屋ヌ坂沿い、カトリック教会の隣は城南小学校になっている。この場所は御茶屋御殿に付属していた菜園が置かれていた。城南小学校は、村学校所の廃止に伴 い、1880年 (明治13年) に、当蔵村に設置された東小学校がはじまりで、何回かの校名変更を経て、1941年 (昭和16年) に首里城内にあった首里第一国民学校となり、1945年 (昭和20年) の沖縄戦で校舎は焼失し、戦後1946年 (昭和21年) に 城南初等学校として再開、1972年 (昭和47年) に城南小学校となった。


木門ヌ前 (キジョウヌメー)

城南小学校の校門あたりは木門ヌ前 (キジョウヌメー) と呼ばれていた。御茶屋御殿の付属の菜園の西辺は、板屏で囲われており、この付近に鳥居門の入り口があった。そこからこの地を「木で造った門の前」つまり、木門ヌ前 (キジョウヌメー) という地名になっている。


雨乞ヌ坂 (アマグイヌフィラ)

崎山御殿の場所から丘陵の西側に降りる道があり、雨乞ヌ坂 (アマグイヌフィラ) と呼ばれている。この近くに先程訪れた雨乞御嶽に由来する。戦前は石畳の幅2mほどの細い坂で、両脇は高さ数十cmの土手がつづき、その上に並松が亭々と連なっていたという。現在は急な栗石の階段となっている。この道は首里城から識名園へ向かう道でもあった。

 

儀間真常の墓

雨乞ヌ坂を少し下った所には立派な亀甲墓がある。儀間真常の墓で、儀間真常は1557年 (尚元2年) 垣花に生まれ、1593年 (尚寧5年) に真和志間切儀間村の地頭に任じられ、1624年 (尚豐4年) に親方となり、1644年 (尚賢4年) に88歳で没している。1605年 (尚寧17年)に野国総管が中国からもたらした甘藷をもらい受けて、その栽培普及に力を注いだ。 1609年 (尚寧21年) の島津侵略後、尚寧王にしたがい薩摩に赴いた際、木綿の種を琉球に持ち帰り、その栽培法と木綿布の織り方を広めた。1624年 (尚豊4年) に垣花の屋敷内で製糖を始め、それを国内に普及させた。これらの功績から、沖縄の産業の恩人と称され、顕彰碑が墓庭に置かれている。 墓は元々は住吉町にあったが、1959年 (昭和34年) に那覇米軍港用地として接収され、ここに移転建立され、1993年 (平成5年) に建て替えられている。


国吉の比屋の墓

儀間真常の墓と雨乞ヌ坂を挟んで広い路地があり、その先にも古墓がある。国吉の比屋の墓で、1450 ~56年に真壁間切国吉の地頭職をつとめていた。この墓も元々は住吉町にあり儀間真常の墓と隣り合っていたが、こ戦後、この地に移設されている。昔は儀間家と國吉家は嫁取り、婿取りの付き合いをしていた親しい仲だったそうだ。

18世紀の中頃には田里朝直によって国吉の比屋を主人公として組踊 義臣物語が創作され、 1756年に尚穆王冊封の宴で上演されている。

沖縄本島の南部一帯の主の高嶺の按司は仕事をせず、遊興三昧に暮らしていたため、部下の国吉の比屋から忠告されます。しかし、それを聞き入れることはせず、なんと国吉を辞めさせてしまいます。民衆の心は高嶺の按司から離れ、彼はとうとう首里の鮫川の按司に滅ぼされてしまいました。落城の際、高嶺の按司の子どもである若按司とおめなりは逃げ延びて、高良村の村頭、崎本の子のもとに隠れます。国吉は、人形売りに姿を変えて若按司とおめなりの行方を探し歩き、崎本の子のもとにいた2人と再会を果たしました。その後、主君の敵討ちをしようと旧臣たちに呼びかけるものの、鮫川を恐れて協力する者はいませんでした。しびれを切らした国吉は、鮫川の城に火攻めを仕掛けますが、捕らえられてしまいます。しかし、主君を思う国吉の気持ちに心を打たれた鮫川の按司は、「敵は子に及ばず」と言い、若按司には父、高嶺の領地を継がせて、高嶺の家を再興させることを約束しました。


比擬川坂 (ヒジガービラ

雨乞ヌ坂を下ると、新しく石畳風に整備された道が比擬川坂 (ヒジガービラ) まで続いている。

比擬川坂 (ヒジガービラ) は、琉球王統時代に首里から南へ延びる宿道の坂として16世紀ごろに整備されている。宿道はシンカヌチャー道と呼ばれ、首里城から崎山町を通り、御茶屋御殿と雨乞御嶽の間を南へ下り、金城川に架かるヒジ川橋を渡って、識名馬場の東端を通る道だった。坂の途中に比擬川坂 (ヒジガー) があることから、こう呼ばれている。今でも、石を緻密に敷きつめた石畳道が残り、巧みに曲線を描きながら、両側は石垣あるいは土留めの石積みが設けられている。 戦前までは石道の両側には美しい松並 木が続いていたそうだ。 昨年 (2021年) 6月5日にもここに来たのだが、階段の入り口にロープが張られており、転倒の恐れがあるので立ち入り禁止になっていた。今回は解除されて通行できるようになっているが、道の途中は石畳道が写真左下にあるように大きく傾いていた。


端処 (ハナンダー)

比擬川坂 (ヒジガービラ) が通る丘陵の東側は端処 (ハナンダー) と呼ばれる場所。ハナンダーとは、ハナ (鼻・端) とダー (処) の複合語で、雨乞ヌ坂を下り、比擬川坂 (ヒジガービラ) に続く辺りで、段丘の「先端の処」から命名されたそうだ。

そこには崎山村、赤田村の墓地になっており、さまざまな形式の墓がある。岩陰墓、掘込墓、破風墓などで、特に亀甲墓が多くある。


比擬川橋 (ヒジガーバシ) と取付道路

比擬川坂 (ヒジガービラ) の階段を降り切ると金城ダムに出る。ここがちょうど、首里崎山町と繁多川との境界線になる。宿道のシンカヌチャー道はここを走る道路で分断されてしまったのだが、道路を渡ったところから、宿道が残っている。金城ダムに注ぎ込んでいる金城川 (カナグスクガーラ) に架けられたアーチ型石橋の比擬川橋 (ヒジガーバシ) と小石を敷き詰めた取付道路が宿道になる。ここは繁多川になり、2021年6月5日に繁多川集落を巡った際のレポートに含めている。

比擬川坂 (ヒジガービラ) を降りて、道路を渡った所の取り付け道路の写真。

道は比擬川橋 (ヒジガーバシ) に続く。


ウォーキングでの首里崎山町の史跡巡りは終了。約20㎞のウォーキングで、アップダウンが多く、少々疲れた。史跡を巡っている時はさほど疲れた感じはしなかったのだが、帰りは少し足が疲れ気味なのを感じた。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)