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ささみのノート

私のラボライフ〜夢だった研究を諦めるに至るまで〜 後編

2018.04.08 13:52

前編はこちら


○M1、最初の不登校生活


不登校生活が始まった。


9月。

連絡が来るのが怖かった。先生からの連絡も、なんて答えたらいいかわからない。何で行けないのか自分にもわからない。ただひたすらにだるい。怠惰なだけと言われても何も言い返せない。今の私について何か聞かれることが怖かった。

親にも連絡がいくかもしれない。なんて言われるだろう。学校に行きなさい、先方に謝りなさい、何があったの、どうしたの。そういうの全部やめてほしい。


しかし、一度休みます、時間をくださいと言えてしまうと、ストンと気持ちが楽になった。決めたわけではないが、概ねひと月くらいだろう。長い夏休みをもらったような形だった。


元気な時は出歩いて遊んだり、楽器を弾いたりしていた。でも疲れやすいからやりたい放題というわけにはいかなかったけれど。生活リズムだってめちゃくちゃだったし。

本業以外の時間はほぼ音楽に注ぎたかった私は、楽器の練習をしようとしてた。毎日はできないにしても、かなり練習して上達もできた時期だった。


しかし、学校に戻れる気配はなかった。正確には学校ではなくて研究室か。

授業には出ていた。気分転換と思って。あとここで授業出ないと卒業が難しくなりそうと思ったから。

ただ、同期や知り合いに会いたくなくて、かなり気を遣っていた覚えもある。研究室に来てないのに楽器背負って出歩いてるとこ見られたらどうしよう。歩くルートと時間帯は慎重に選んだ。


そんな日々の中、ある演奏会で弾いた後、疲れからか肺炎にかかった。咳は2,3週間出続けたし、何より熱が下がらなくて大変だった。

貧血でトイレにも立てなくなりかけたところで実家に強制送還された。11月のことだった。

それをきっかけに実家暮らしを始めた。とはいえ週末はアパートに帰ってきて練習に出たり遊んだりしてた。どうやら生活の基盤が実家に移ったことで回復していったようだった。安定した生活、おいしいごはん、会話。


そうして年末の浮かれた勢いにまかせて、研究室の人たちと飲み会をすることが決まり、年明けその飲み会をきっかけに復帰した。学校行きたくないからやってみようかなへの変化は急速だった。それでも復帰すると決め、皆に頭を下げ、何かを一応反省してもう一度チャレンジする気力を取り戻していたようだ。

たぶん、今度は不要な飲み会は断ってもいい、だらだら残らず早く帰る、自分の生活を一番大事にする。そんなことを決意したはず。こんな薄っぺらい反省は虚しく散っていったんだけど。



そうやって年明けしばらくして復帰してから、そうだな、2ヶ月くらいは体調は良かった。服薬も通院もしていなかった。

体調は良いのだが、興味が持てないことには変わりなかった。論文も遅々として進まず、勉強にも身が入らない。いつのまにか四六時中サボることを考え始めてた。もうだめだぁ。こんなの、大学院にいていい人間じゃない。。



○M2で再び折れるまで


半自動的に進級できる。M2になった。

体調崩すことはありながらも、自分の研究に興味を持てないという思いが強くなりながらも、研究室には通った。



生物はだめでもその時ハマれたことがあった。それは音の科学。人の聞こえや、楽器の振動、音色やピッチがどうやって認知されるか、そんなことを調べたり考えたりし始めてた。音楽とも繋がるから、楽しくて。しかも面白くて。

うまくいけば研究テーマにまで持っていくことができそうだった。自分から出たテーマならきっとうまくいくと信じて。そうして生物じゃなくて違う分野で研究する道もあるはずだと考え始めた。


そして音響の分野へ移ろうとした。翌年、修士か博士課程生として置いてもらえそうな研究室を探して、具体的なことまで話が進んだ。これが6月の出来事。こうと決めた後の行動力はある方です。


しかし、体調がまた悪かった。この頃から寝付きが悪くて通院を再開した。初めて眠れないということを、その感覚、苦しみを体験した。本当に「眠いのに眠れない」んだなーと。この時から今まで睡眠はできなくなる一方です。


そしてある時、不安感があったからか、やはり分野を変えるなんて思い切った決断にはエネルギーが要るからか、突然進学を断る決意をした。その時は明らかに進学なんて無理だと思った。収入が不安定だし少ないのに興味が持てるのか自信がない。今こんな体調でやっていけるとは到底思えない。ほぼ初対面の先生に自分勝手な都合で迷惑かけられないし。


そういう思いは僅かながら思いついた当初から抱えていたから、ごく少数ながら就活も並行してみてた。たまたま1社通った。お、社会不適合っぽい私でも内定もらえるんじゃん。たまたまだと思うけど。

周りも親も内定おめでとう、決まって良かったね、お祝いムード。進路が決まった。

私は自分が就職する未来を望んでいるのだろうか。よくわからないまま、歓迎会にも行った。ちなみに内定式での話のあまりのつまらなさに、内定という将来へのかすかな希望は光を失った。こんな大人たちに囲まれて1日の大半を過ごすのなんて耐えられない。失礼ながら失望して帰ってきた。(就活をまじめにしなかったから、合わなかったんでしょうきっと…)


研究室に通うことはつらくなり続けた。

何がつらいのか、わからない。でも夜残ることも多かった (強制ではまったくない) し、音響に注いだものが無駄になってしまったようでもあって、空っぽになっていった。

自分のしていることにも意味を見出せないまま。誰にもわかってもらえないまま。何も生み出せない。虚無だ。


徐々に朝起きれなくなっていった。身体が重い、だるい。行かなきゃとは思いながら、動けない時間が過ぎてゆく。コアタイムを守ることができなくなり、最後は午後2時頃になってようやく出かけるなんてことをしてた。おそようございます。


エネルギーが枯れた。

2度目の不登校は、これ以上悪くなったらまずい、死にたい、なんとか状況を変えなければという危機感から、行けなくなった+行かなくなった。半分は自分の意思で行かない選択をしたのだった。またM1の時と同じ、夏休みのことだった。



○2度目の不登校の生活


1度目と違うのは、眠れないこと、より深刻に気力がないことと、それから、頭の中の声が死にたいという言葉を覚えてしまったことだ。死にたいと思うほどに心が傷つく、苦しい。一種の自傷行為みたいだった。

つらい、苦しい、消えたい、終わりにしたい。感情面で一番辛かったのはこの時かもしれない。泣いてばかりいた。自分のことを放棄して、全てに投げやりになった。もう自分の将来なんてどうでもいいから体調とかどうでもいい。死にたい。だから病院にも行かない。行けない。良くなりたいとか思えないし。

生活は乱れるばかりだった。



残っていた命綱は、今は亡き彼との時間と、音楽だった。

一緒にいる時間が癒しだった。私の凝り固まった考え方に柔軟なアイデアをくれた。認めてくれた。自分自身を縛ろうとする私の手を解いてくれてるみたいだった。

私も私で、彼の殺伐とした脳内に楽観と明るさを添えた。他人のためなら頑張れんだと思う。互いに。



再度学校に行かなくなり、ひと月、ふた月……


彼とはしょっちゅう会っていて、徐々に弱ってゆく姿を見ながらも何もできなかった。何をしても好転しなかった。私自身具合が悪い。もっと余裕があればやれることがあったろうにな。かなしい。


そうこうしているうちに自暴自棄が少しずつ和らいで、やっと通院するようになった。

最初は睡眠のためのお薬、それから抗うつ剤+抗不安薬の治療をはじめた。


その矢先、彼は亡くなった。



○今、研究に対する気持ち


いま、かつてやっていたことに関する話題は見たくない。興味もないどころかトラウマみたいになってて、触れたくもないのだ。

あの時の研究室の風景、話題、光景…色んなものが苦しかった記憶と結びつくのか、思い出すことが苦痛に感じる。


音の話は、いまだに好き。調べたり、実験したりかつてのようにできてるわけではないけれど、興味はある。


テーマはさておき、研究するということについてはどうだろ。日常生活の中でも試してみる、試行錯誤を繰り返すことが好きだ。お菓子作りなんか、配合を考えたり方法を工夫したり、あれは小さな研究だ。実験は大好きなまま。ほぼ自動的にやってる。これは昔からそうかも。



まだ広い意味での研究をすててしまったわけではないと思う。

だけどアカデミアに戻れるのか、戻るのか、と問われると、それは無理そう。


解決への道を模索しながら、今日もなんとか生きています。

死と隣り合わせだということを感じます。

こんな人間にも、あたたかい生に包まれることができる日がくるのかな。




色々描ききれてないことがありそうだけどひとまずここまで。読んでくださった方、お付き合いいただきありがとうございました。