中国の植民地と化したラオス③ 外交
<ラオスで中国人襲撃事件が多発 高まる反中感情>
中国がラオスに対して行なっている投資は、「経済協力」と呼べるようなレベルではなく、一方的で高圧的な略奪にも等しいとさえ言えるものだ。そうした実態は、すでにラオス政府や国民も気が付いている。例えば、ラオス北部の中国資本が入ったバナナ農園では、有害物質を含んだ農薬の使用が原因で、労働者の農民に深刻な健康被害が出ているほか、土壌汚染も進んでいることが明らかになった。さらにこの農園では、ライフル銃で武装した中国人がラオス人を安い賃金で強制的に働かせるなど労働者の人権侵害も問題化した。
またタイ、ミャンマーと国境を接する「金三角(ゴールデントライアングル)」の山間部に中国資本のリゾートホテルやカジノが建設されたが、客のほとんどは中国人で、飛び交う言葉は中国語だけ、周辺の飲食店や商店も中国人の経営で人民元しか通用しない。売春や麻薬に関わる中国マフィアも進出して、周辺は異常な雰囲気になっている。(「ラオスで中国人襲撃事件 高まる反中感情」Japan in- Depth2017/7/23)
そうした中国への反感から、中国人を対象にしたテロ事件も頻発するようになった。日本外務省の海外安全情報によると、2016年1月,鉱山会社従業員の中国人3人がサイソンブン県山岳地帯を車で走行中,何者かによって仕掛けられた爆弾が爆発し,2名が死亡,1名が負傷した。また同年2月から3月の間,国道13号線(ビエンチャン県カーシー郡~ルアンパバーン県プークン郡)を走行中の車両が銃撃され,中国人を含む複数人が死傷した。
事情はカンボジアでも同じで、カンボジア国民の中国に対する反感は高まっている。中国はカンボジアに対する最大の債権者で投資者だが、都市部の市民は大挙して押し寄せる中国人観光客の傲慢な態度や、質の悪い中国製品に怒りを示し、地方に暮らす住民は、彼らが生活を頼っている天然資源を略奪し、その生活手段を奪う中国の投資に不安を抱いている。
<北爆の猛火に襲われた国土>
「高速道路」や水力発電ダムの建設など、ラオスでは大規模な国土の改変が行われ、環境への影響が心配される。国土の破壊といえば、ラオスはベトナム戦争に巻き込まれ、と言うより、ベトナムと共に戦った国であり、ベトナム戦争中は、ナパーム弾やクラスター爆弾など大量の爆撃を受け、国土が大きく傷つけられた歴史をもつ。北ベトナム(ベトナム民主共和国)から南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)への補給路、いわゆるホーチミン・ルートがラオス国内の山岳地帯を通っていたため、米軍による激しい空爆を受けた。ラオス国内への爆弾投下量はベトナム国内をはるかに上回り、人口一人あたりで言えば世界で最も多くの爆弾が落とされた国だとされる。1964年から73年にかけて米軍は200万トン以上の爆弾を投下し、投下された爆弾の3分の1は不発弾として残った。米軍による爆撃で35万人以上のラオス人が犠牲となったが、ラオス人の被害はそれだけにとどまらなかった。1973年を最後に北爆は終わったが、その後も30年間で5700人が死亡し、5600人が負傷したといわれ、今も毎年500人前後が爆弾の被害に苦しんでいると言われる。米軍は、ジャングルに隠れ、見えない敵をせん滅するため、一発でサッカー場の2~3倍の面積にテニスボールと同じ大きさの爆弾を巻き散らすクラスター爆弾を大量に投下した。投下されたクラスター爆弾は全部で8000万発、そのうちの30%にあたる2400万発は不発弾として残ったとされた。不発弾が残る地域は国土の3分の1に当たる8万7000平方キロに及び、現在の不発弾処理ペースでいけば不発弾の完全除去までには、さらに2000年もかかるとされる。2008年5月、国際条約として採択されたクラスター爆弾禁止条約の成立に、被害国のラオスは大きな役割を果たした。
2016年9月、ASEAN首脳会議に出席するため、現職の米大統領として初めてオバマがラオスを訪問した。オバマは「ラオスの歴史を考えると米国にはラオスの復興を助ける道義的責任がある」と言及し、不発弾の処理のために9000ドルを拠出すると発表している。
(“30-year-old bombs still very deadly in Laos“ USA TODAY Posted 12/11/2003)および(Newsweek日本語版2016/9/20)
<複雑な歴史をもつ隣国タイとの関係>
ラオスは植民地時代からベトナム戦争にかけてフランスや米国などの大国に翻弄されただけでなく、中国やベトナム、タイなど周辺国とも、つねに難しい関係を迫られてきた。小国ゆえに、そうした周辺の国々との関係は、国内政治を揺るがす大きな問題でもあった。
ラオスに暮らすラオ人は、シャム(タイ)人と同じく、もともとは中国南部(今の中国雲南省)にいた民族で、13~14世紀ごろモンゴル軍の南下に伴って原住地を追われて南方に移動、シャム(タイ)人は最初の王国として「スコタイ王朝」(1233年~1448年)を建国し、またラオ人も「ランサーン王国」(1354年~1707年)を築いた。いずれもクメール王朝の支配地域から独立を勝ち取ってできた王国だった。タイ人とラオ人は民族的に近く、互いの言葉も聞けばだいたいは理解できるというほど近い。しかし、何度も互いに戦火を交え、対立してきた歴史もあった。
18世紀、ランサーン王国はルアンパバーン王国、ビエンチャン王国、それにチャンパサック王国の3つに分裂していた。1779年には、アユタヤ王朝のあとを受けたトンブリー王朝がラオスに侵攻し、ルアンパバーンなど3王国を属国とした。タイはトンブリー王朝からチャクリー王朝に変わり、そのタイからの独立を謀ったビエンチャン王は1828年、ルアンパバーン王とチャンパサック王を誘ってタイ軍との戦争を仕掛けた。しかし、ルアンパバーン王が裏切ってタイに通報したため独立戦争は失敗、ビエンチャン王はタイ軍に逮捕され、獄中で亡くなった。この時、タイ軍はビエンチャンの王都を徹底的に破壊し、焼き尽くした。このときビエンチャンの寺から持ち出された仏像は、いまバンコクのエメラルド寺院にあるという。
タイとの対立と抗争の歴史を持つラオスでは、いまも政府の命令でタイの歌やタイの文字がテレビで流れることは禁止され、タイの文化の流入が厳しく制限されている。ラオス国内の事件の報道は、党のチェックを受けるため3日とか1週間たって報道されることが多いが、タイのインターネットには、ラオスのニュースもすぐに伝えられるため、タイ側からの情報の流入にも警戒しているようだ。その一方で、ラオスの英字紙「ビエンチャン・タイムズ」(Vientiane Times)を手にしたとき、中国の新華社とChina Times(中国時報)が編集協力していると紙面に書かれていたのには驚かされた。中国がラオス国内の報道にも関与している証拠だった。
<政権内の親中国派と反中国派の権力闘争>
ラオス人民革命党の内部では、従来から親中国派と親ベトナム派の対立が続いてきたと言われる。
2014年5月、ラオス政府の閣僚や人民革命党の幹部が乗った飛行機アントノフAN-74型機が空港に着陸する手前で墜落し、当時の副首相兼国防相ドゥアンチャイ・ピチット(Douangchay Phichit)や公安相トンパン・セーンアポーン(Thongbanh Sengaphone)を含めて17人が死亡した。犠牲者のなかには、ほかにビエンチャン市長、人民革命党の中央委員会書記長や宣伝部長、それに国防相の妻なども含まれていた。この墜落事故について、ラオス国民の間では、国防相らを狙った暗殺テロ事件だという噂が、庶民の間で公然と囁かれている。犠牲となった副首相兼国防相は、当時は党内序列9位、親中国派の次期指導者の有力候補とみられていた。(“Air Crash Kills Senior Lao Officials, Leaves Power Vacuum”ラジオフリーアジア2014/05/18)
ラオス人民共和国の初代首相でラオス人民革命党初代書記長のカイソーン・ポムウィハーン(Kaysone Phomvihane)は、父親がベトナム人で、ベトナムで教育を受け、ホーチミンの弟子を名乗るような親ベトナム派だった。彼は1986年、ベトナムの「ドイモイ(刷新)」と同じ「新思考」政策を党規約に盛り込み、経済の自由化・開放化に乗り出した。その息子たちも政界に進出しているが、一番下の息子(Sanyahak Phomvihane)は2013年、45歳で亡くなっている。これも暗殺ではないかと噂され、先の墜落事故は、この「暗殺事件」に対する報復ではないかという見方もある。この墜落事故で、全身大やけどを負ったが、救出され生き残った将軍がいた。その息子は、車に乗っているとき50発のAKライフルの銃弾を受けた。それ以来、幹部の行動や予定は公表されなくなったと言われる。
同じような事件は、隣のカンボジアでも起きている。2014年7月、空軍の副司令官など少将2人を含む5人が乗ったヘリコプターが墜落し、4人が死亡する事故があった。副司令官らは軍内や支配政党のなかで親ベトナム派の幹部だったとする見方もあり、ベトナムの影響力を排除しようと画策する中国諜報機関の暗躍を疑う声もある。
そのカンボジアでは2017年9月、最大野党・救国党の党首が米国人の支援を得て政権転覆を企てたとして国家反逆罪に問われた。カンボジアの最高裁は12月、救国党の解散命令を出し、党幹部118人の5年間の政治活動を禁じた。このため野党の国会議員や地方議員の多くが弾圧を逃れて出国したといわれる。フン・セン政権による野党の弾圧に対しては欧米諸国の批判が高まり、今年7月に予定される総選挙の正当性にも懸念が示されている。
https://www.hrw.org/report/2012/11/13/tell-them-i-want-kill-them/two-decades-impunity-hun-sens-cambodia
https://www.hrw.org/news/2017/11/15/cambodia-democracy-faces-death
かつて、カンボジアの指導者だったノロドム・シアヌークは「2頭の象が戦っているときには、蟻はわきへどいているほうがよい」と語ったという(ビル・ヘイトン著『南シナ海』p254)。2頭の象とは中国とアメリカ、蟻とはカンボジアなどアジアの小国のことだ。その「蟻たち」は、2頭の「象」を互いに競わせることが政治的にも経済的にもよい手段だと考えてきた。なぜならアメリカはこの地域最大の投資国であり、中国は主要な貿易相手国で、どちらかに一方に肩入れすることはできなかったからだ。しかし、今のカンボジアは、ASEANにおける中国の利益代表のように振る舞っている。南シナ海問題で、中国の立場を擁護し、ASEAN全体が結束して南シナ海問題に対処しようという動きには、カンボジアだけが賛同せずつねに水を差してきた。
かつて毛沢東時代には「革命の輸出」だと称して、いわゆる「文革外交」を展開、世界のあちこちで大混乱を招いた。カンボジア・ポルポト政権(クメール・ルージュ)による150万に及ぶとされる知識人などへの迫害、いわゆる「キリング・フィールド」として知られる虐殺は、毛沢東思想を真似た革命運動の典型でもある。今その中国は「一帯一路」で世界をかき回している。カンボジアやラオスは、中国の影響を受ければどうなるか、とうの昔に「学習」しているはずなのに、いまだに中国に縋り付こうというのは、中華文明の圧力に抗しきれなかった小国の習性なのかもしれない。それゆえにこそ、チャイナの呪縛から抜け出し、自分たちが寄って立つ独自の思想的基盤を確立するための格闘、すなわち石平氏が『「脱中華」の日本思想史』で説くところの思想運動こそが、ラオスやカンボジアにとっても必要なのだと思う。そしてその思想的格闘に十分に耐えられるだけの、中華世界とは異なる独自の文明や文化、歴史を持っているのがラオスやカンボジアなのだ。
この稿は、本ブログの「脱中華の東南アジア史」の番外編として書いた。
ラオスの世界遺産 ワット・プー