チャップリン監督・主演『街の灯』
大富豪の二重人格を
笑ってばかりいられない
456時限目◎映画
堀間ロクなな
チャールズ・チャップリンが最晩年を送っていた1970年代、その監督・主演になる『街の灯』(1931年)が日本でにわかにリバイバル・ブームとなって、中学生だったわたしも東京・立川の映画館へ出かけて鑑賞した。すでに伝説と化していた喜劇王の英姿を目にするのも、登場人物のセリフが字幕で伝えられるサイレント(無声)を体験するのも初めてだったけれど、ちっとも古臭さを感じなかったばかりか、あっという間にドラマのなかに取り込まれて笑ったり泣いたりしながら、最後には全身が震えるほど感動していた。
あらためてストーリーを紹介するまでもないだろう。チャップリン扮する山高帽にちょび髭、だぶだぶのズボンにドタ靴というなりの浮浪者が、街角で出会った盲目の花売り娘(ヴァージニア・チェリル)を貧窮から救い、さらには視力回復の手術の費用を手に入れるために悪戦苦闘を繰り広げていく。ユーモアとペーソスがふんだんにちりばめられたドタバタ劇のなかで、最も興味深い登場人物は、チャップリンが宵闇の運河べりで出くわすタキシード姿の大富豪(ハリー・マイアーズ)だろう。へべれけに泥酔したあげく、首に重りをつけて身投げしようとした男は、チャップリンの腕に抱きとめられてこう口走る。
「きみこそ生涯の友だ!」
かくて、ふたりは夜通し高級クラブをはしごして遊びまわる。ところが、明け方に屋敷へ帰ってアルコールが抜けると、いきなり男の態度が豹変するのだ。
「お前なんか知らん、出ていけ!」
そのあとも、酔っ払っているあいだはさんざん上機嫌にもてなし、しらふに戻ったとたん見ず知らずの他人として邪険に扱うという繰り返し。結局、チャップリンは大富豪によって花売り娘の手術代を得ると同時に、刑務所へ入れられてしまう羽目に……。
ジキルとハイドさながらに二重人格のこの男は一体、なんだろう? あるときは感情の起伏に任せて相手かまわず大盤振る舞いし、あるときは冷酷無情なリアリストとなってだれに対しても心を閉ざす。すなわち、かれは自分がいま置かれている環境次第でカメレオンのように反応し、立派なのはタキシードの身なりだけで、その内側に首尾一貫したアイデンティティなど存在しないのだ。それは気まぐれな金持ち連中のカリカチュアとして笑い飛ばせばいいのだろう。しかし、映画に描かれた大恐慌の時代よりも、いっそう社会的格差が拡大して途方もない巨大なカネと権力の所有者が出現した現代のアメリカには、おいそれと笑い飛ばせない現実があるように思う。
たとえば、父親から受け継いだ不動産コングロマリットをバックに大統領の座に就いたドナルド・トランプは、アメリカの栄光を叫ぶ一方で国民のあいだに抜き差しならない分断をもたらした。また、宇宙開発などの先端事業によって屈指の資産家となったイーロン・マスクは、ツイッター社の買収において言論の自由を標榜するかたわら世界じゅうの社員の多くを解雇した。なるほど、かれらの言動もひっきょう「きみこそ生涯の友だ!」と「お前なんか知らん、出ていけ!」の目まぐるしい交替と見なせば理解できよう。カネと権力の極度の集中は、そのぶん極度の人格分裂を引き起こす――。
人間の精神は、果たして驀進する資本主義を持ちこたえられるのか? 『街の灯』のつぎに『モダン・タイムス』(1936年)をつくることになるチャップリンは、すでにその行き着く先を見つめていたのかもしれない。