末っ子、ねこさんリュックを貰う
学校から帰宅したばかりの兄達を出迎えるため、末のルイスは片手にねこさんぬいぐるみを握りしめて玄関の前で待っていた。
掛け時計の長い針が真上に来ていて、短い針が右斜め下に来ている時間に、ウィリアムとアルバートは帰宅する。
今は短い針が4の文字盤のところにかかる頃だ。
もうすぐ帰ってきてくれるはず、と認識したルイスはぬいぐるみを抱きしめてソワソワと待った。
早く会いたいのに会えないのはもどかしいけれど、必ず帰ってきてくれるという約束があるのは嬉しい。
帰ってきてくれないかもしれない、もしかすると置いていかれたのかもしれない。
まだ幼いルイスがそう不安に思ったことはなく、寂しいけれど待っていれば必ず二人は自分の元に帰ってきてくれると、片手で数えられる人生経験の中で確信しているのだ。
それが何故なのかをルイスは知らないし、そういうものだと信じている以上はウィリアムにもアルバートにも聞くことはない。
ゆえにルイスは不安になることなく、行儀良いまま扉の前でしゃがみ込んでいた。
「ただいま帰りました」
「ルイス、ただいま」
「おかえりなさい、にいさんにいさま!」
そうして聞こえた控えめな音。
開いた扉の先には待ち望んでいただいすきな兄達の姿があった。
ルイスは勢いよく立ち上がっては腕を広げてくれているアルバート目掛けて飛び込んでいく。
大きな胸の中は暖かくて居心地が良い。
ぬいぐるみとともに抱きしめられて満足した様子のルイスは、ふと隣に立っているウィリアムの手に朝はなかったはずの大きな袋があることに気が付いた。
彼の顔を見れば何やら楽しそうに笑っていて、アルバートも同じように笑っている。
ルイスもつられてにぱりと笑う。
兄達の機嫌が良いとルイスも嬉しいのだ。
「ルイス、僕とアルバート兄さんからのプレゼントだよ」
「プレゼント?」
「そうだよ。開けてごらん」
笑っているとウィリアムからその袋を差し出されて、プレゼントだと付け加えられた。
ウィリアムとアルバートがルイスにプレゼントを渡すのは珍しいことではない。
むしろありふれた行動と言って良いほどで、ことあるごとにお土産だのお裾分けだのと称してはルイスに貢いでいる。
可愛い弟にたくさんの贈り物をしたいのだという兄達の心優しい行動はあまりに頻度が高いため、母やナニーからは控えるように度々注意されているほどだった。
だがルイスは当然それを知らないし、だいすきな兄達が何かくれることを純粋に嬉しく思っている。
今日は何をくれるのだろうと、ルイスは持っていたぬいぐるみを隣に置いて早速りぼんを解いていった。
「なにがはいっているのでしょう」
「ルイスがだいすきなものだよ」
「きっと気に入ってくれるはずだ」
「ぼくのすきなもの…」
ドキドキしながら袋を開けて中身を取り出してみれば、それは真っ白い猫型のリュックだった。
猫型、という名のアルバートオリジナルデザイン「ねこさん」である。
「ねこさん!」
キュートなつぶらな瞳はプラスチックのボタンで表現されており、真っ白い毛並みはとても手触りが良い。
独特なねこさんの顔を全面にアピールしたそれには、背負うためのリュック紐が付いていた。
「ねこさんのリュックですか?」
「そうだよ。ルイスのお出掛け用に用意したんだ」
「ぼく、うれしいです!ありがとうございます、にいさんにいさま」
「早速背負って見せてくれるかい?」
「はい!」
小柄なルイスには少しだけ大きいねこさんリュックは、その見た目よりもずっと軽い。
アルバートに促されるまま背負ってみれば、ウィリアムが肩紐の長さを調節してくれた。
普段ルイスが出掛けるときには鞄など持たないし、持ったとしても小さなポシェットを肩から斜めに掛けるくらいしかない。
初めて自分専用のしっかりした鞄を持てる嬉しさと、それがだいすきな友達を模したリュックであることにルイスは浮かれる。
ぼくのリュックだ、とルイスはぴょんとその場で足踏みをした。
「ねこさんねこさん!あれ、みえない。あれ?」
ルイスは背負ったばかりのリュックを見ようと何度も後ろを振り返るが、どうやら自分の背中が見えないことに気付いていないらしい。
それでも背中のリュックを見ようとしてはくるくるその場を回っている。
そんな末っ子を見て思わず口元で手を抑えるウィリアムとアルバートは、つい笑ってしまいそうになる顔を懸命に隠していた。
可愛いあまりに笑ってしまっては、ルイスが嘲笑されたと傷付いてしまう。
この年頃の幼い子どもの精神は敏感なのだ。
可愛い弟の健やかな発育のためならば兄として惜しむものなどない。
ウィリアムは歯を食いしばり口元を引き締めてから、ルイスの小さな肩にそっと手を添えた。
「ルイス、足を止めて鏡を見れば背中が見えるよ」
「!ほんとうだ。ありがとうございます、にいさん」
「どういたしまして」
誘導されるまま玄関先に設置されている大きな姿見の前に連れて来られたルイスは、首だけを振り返って鏡に映った後ろ姿を見る。
正しくは後ろ姿の中心にいる真っ白いねこさんリュックを見ているのだが、自分の背中にだいすきな友達がいるという事実を見たルイスは赤い瞳を輝かせた。
「ねこさんリュック…!」
「よく似合っているじゃないか、ルイス。ねこさんもルイスもとても可愛いよ」
「ほんとうですか」
「本当だよ」
鏡越しにアルバートと目が合い褒められる。
ルイスは照れたように頬を染めて肩紐を揺すっては、背中にいるねこさんリュックを動かしていた。
「ぼく、ねこさんリュックでおさんぽにいきたいです」
「今からかい?」
「はい」
「どうしましょうか、アルバート兄さん」
「なに、夕食までに帰れば大丈夫だろう。近くの公園まで遊びに行こうか」
「はい!」
既にリュックを背負って準備万端なルイスを見て、これはもう散歩に行かなければ納得しないだろうと判断したアルバートは許可を出す。
貰ったばかりのリュックを手放すとは思えないし、新しいものを早く使いたい気持ちもよくよく分かる。
ルイスはねこさんリュックを背負ったまま、隣に置いていたねこさんぬいぐるみを抱きしめてから靴を履く。
もう一人で靴を履けるようになったんだね、とウィリアムが感慨に更けていることなど知らないルイスは踵をきちんと合わせて振り返る。
「にいさんにいさま、はやくおさんぽいきましょう」
「あぁ、そうだね」
「ナニーに伝えてくるから、二人は先に出ていてくれるかい?」
「分かりました。行こうか、ルイス」
「にいさま、はやくきてくださいね」
「大丈夫、すぐに行くよ」
「では、いってきます」
「兄さん、行ってきます」
「あぁ、気をつけて」
ウィリアムはルイスの手を握り、屋敷の外へ出る。
そうして長い通路を歩いてから門のセキュリティを解除し、散歩と称して何度か歩いた道を並んで歩く。
基本的に、ルイスが広大なモリアーティ邸の敷地内から出ることはない。
出たとしてもすぐに車に乗ってしまうため、敷地外を散策することは皆無なのだ。
だが災害時や緊急時のために周囲の地形に馴染んでおいた方が良いだろうという考えのもと、今は徐々に敷地外の行動範囲を広げている最中だった。
ルイスが屋敷の外を歩くのは今日でまだ五回目である。
「にいさん、おはながさいています」
「本当だね。綺麗な花だ」
「にいさん、おそらをとりさんがとんでいます」
「三羽もいるね、あの子達も兄弟かな」
「にいさん、せなかのねこさんげんきですか」
「ふふ、とっても元気だよ」
あちらこちらに視線をやっては楽しそうに報告してくるルイスの足取りはとても軽い。
ウィリアムはその都度返事をしているが、ふと見下ろせば可愛いルイスの背中に不思議な生き物がいることに苦笑する。
ルイスが気に入っていて、いつもぬいぐるみと一緒にいる姿を見ているとはいえ、未だにアルバートデザインの猫には慣れないのだ。
可愛いといえば可愛いのだが、猫というより別個体の生き物のように見えて脳が混乱する。
いっそ猫だと思わず、ルイス曰く「ねこさん」という生命体だと思えば良いのだろうか。
固定観念に縛られているウィリアムにはその発想が中々難しくて、ひとまず尊敬する兄渾身のデザインかつ可愛い弟が溺愛している生き物「ねこさん」という枠で括っていた。
「にいさん、せなかのねこさんはおさんぽたのしいですか?」
「ルイスと一緒だから、とっても楽しいって言ってるよ」
「わぁ」
ウキウキした様子で背中を見ようとしては見えずに首を傾げているルイスは、ウィリアムの言葉を信じてにぱりと笑う。
ぼくもにいさんとねこさんといっしょだからたのしいです、と言うルイスの背にいるねこさんリュックはどうしてだか可愛く見える。
ルイスとの相乗効果があればどんなものでは可愛くなるのだと、ウィリアムは一人納得していた。
可愛いルイスなら例え背中に蛇を背負っていようと蛸を背負っていようと、全てが可愛いに違いないのである。
「やぁ二人とも、待たせたね」
「にいさま!」
「アルバート兄さん、待ってましたよ」
ウィリアムとルイスが屋敷を出てしばらくした後で、遅れてきたアルバートが追いかけてくる。
どうやら駆け足で来たらしく、彼は珍しく少しだけ息が上がっていた。
追いかけてきたアルバートを見たルイスは張り切ってその手を繋ごうとしたけれど、右手はウィリアムと繋いでおり、左手はねこさんぬいぐるみを抱いている。
いつもはぬいぐるみを家に置いてくるか、どちらかと手を繋ぐだけで済ませていたけれど、今日は二人と手を繋ぎたい気分だ。
腕が足りないことにルイスは気付き、むっと唇を尖らせた。
「むむ…」
ルイスは小さな眉間に皺を寄せて、ねこさんぬいぐるみを置くべきかどうか悩む。
ねこさんは捨てられないけれど、アルバートとも手を繋ぎたい。
さてどうするべきか、と真剣に悩むルイスを他所に、アルバートはその背中に背負われているねこさんリュックの上の部分に手を入れて長い紐を取り出した。
「アルバートにいさま?」
「ルイス、私とはこれで手を繋いでいるから大丈夫だよ」
「…?」
「ほら、ねこさんリュックに付いている紐だ」
「ひも」
ルイスが背負っていたねこさんリュック、実はアルバートとウィリアムが特別に作らせたねこさん型ハーネスリュックなのである。
ねこさんの頭にある隙間に収納されていた取っ手を手に持つアルバートを見上げ、ルイスはふと持っていたぬいぐるみに目をやった。
丸い頭はつるんとしていて何も付いていない。
「このねこさんにはひもがないです」
「リュックだけの特別仕様だよ。これならルイスの手が塞がっていても一緒にいられるだろう?」
ぬいぐるみを検分してから首を傾げたルイスはアルバートの言葉に、なるほど、と言ったように目を瞬かせた。
二人と同時に手を繋ぐための便利なリュックだったのだ、このねこさんリュックは。
ルイスはそう解釈して、嬉しそうにアルバートを見上げて礼を言う。
「ありがとうございます、にいさま。うれしいです」
「私もルイスと手を繋げて嬉しいよ」
「ルイスが気に入ってくれて良かった」
ウィリアムが安堵したようにルイスへと声をかけ、視線だけはアルバートと合わせていた。
アルバートも同様にウィリアムを見る。
どうやらこのねこさん型ハーネスリュック、ルイスはちゃんと気に入ってくれたらしい。
やはりデザインの勝利か、とアルバートが悦に浸っているのを他所に、ウィリアムはウキウキと歩いていくルイスを見下ろした。
「ルイス、あまり駆け足になると転んでしまうよ」
「だいじょうぶですー」
近頃のルイスは随分と逞しくなった。
5歳にも満たない幼児に逞しいとは何事だろうかとウィリアムですら思うけれど、事実そう表現するしかないほどに、何故かルイスは強いのだ。
体格はむしろ華奢な部類に入るだろう。
太っているどころか痩せている方だし、ウィリアムとしてはもっとふっくらしてほしいと願うあまり、アルバートにも母にもナニーにもバレないようこっそりおやつを与えているほどである。
それでもルイスはいまいち痩せ型で、そうだというのに日々の遊びと母直伝の訓練のおかげで随分と強くなっているのだ。
にいさんとにいさまはぼくがまもるんです、といいながら小さなお餅のような手で繰り出すパンチは、見かけによらず重たかった。
むしろ小さくて軽いことがより厄介な要因なのだろう、何かに驚いた拍子には反射的に逃走するようになった。
そのすばしっこさときたら、運動神経と体力には自信のあるウィリアムもアルバートも虚をつかれると見失ってしまうほどなのだ。
これまでに何度も驚いたルイスが目の届かないところに逃げていくことを経験した。
幸いいずれも敷地内でのことであり、ルイスにも分別があったため危険に晒されることはなかったけれど、屋敷の外に出る機会が増えるとそこにどんな危険があるか分からない。
手を振り解かれては追いかけるのに厄介だと、そう懸念した兄達渾身の作品がこの「ねこさん型ハーネスリュック」だった。
「ねこさんリュック、かわいいのにべんりですごいですねぇ」
「外に行くときは必ずこれを持っていくんだよ」
「はい」
歩幅の小さいルイスに合わせ、ウィリアムとアルバートは小さく足を動かしていく。
右手はウィリアムと、左手はぬいぐるみと、背中のリュックを通してアルバートと共にいるルイスの機嫌はとても良さそうだ。
ハーネスさえあればルイスがいきなり走り出してもひとまずは安心である。
けれど、何があるかは分からない。
当然ハーネスにはGPSを内蔵しているし、設定を解除せずに一定距離を保護者から離れた場合にはすぐにエマージェンシーコールが鳴るようにしている。
決して油断は出来ないが、実際に使ってみないと改善点をあげることも出来ないため、早々に使用するのは都合が良かった。
そうして三人と一匹での散歩を楽しんでいると、前から大きな犬を散歩させている人が見えてくる。
「あそこにしろいいぬさんがいます」
「そうだね、犬さんもお散歩してるみたいだ」
「ほう、随分立派な犬だな。ルイスほどの背丈がありそうだ」
「……」
張り切って歩いていたルイスの足取りが心なしかゆっくりになったように思う。
ウィリアムとアルバートはそれを指摘せず、静かになったルイスの視線の先を追う。
白くて大きな犬はふかふかの毛並みがどこか包容力を感じさせる。
落ち着いた様子を見て賢そうな犬だと、そう判断した二人は改めてルイスを見下ろした。
そういえばルイスは犬を直接見るのは初めてだったような気がする。
「わふ!」
「…!!!」
犬との距離が段々と近づいてきたと思いきや、挨拶のように軽やかな鳴き声が聞こえてきた。
連れている男性も軽い会釈をして三兄弟に意識を向けている。
それに同じく会釈を返せば良いだけの話だったのに、ルイスはそう思わなかったらしい。
「〜〜!!」
大きな犬の大きな鳴き声に驚いたのだろう。
ルイスは肩を跳ねさせた次の瞬間、ウィリアムと繋いでいた手を振り解いて歩いていた方向とは逆に向かって走り出した。
「え、ちょ、ルイス!」
「ま、ちなさいっルイス!」
「っわ、あぅ!」
繋いでいる手を簡単に振り解かれた衝撃に目を見開いたウィリアムはショックを受けつつ、少し先で足踏みしているルイスを見た。
背負っていたねこさん型ハーネスリュックを持っていたアルバートがその持ち手を握りしめたおかげで、ルイスは逃走できなかったのだ。
ねこさんぬいぐるみを縋るように抱きしめつつ、ルイスは兄達を振り返る。
けれどその先には先ほど大きな声を出していた大きな犬がいた。
「い、いぬ…!」
またも走って逃げ出そうとするルイスを引き止めるためアルバートはハーネスを離さず、ウィリアムは駆け寄ってその体を抱き上げた。
抱っこに抵抗することはなく、ルイスはウィリアムの腕の中で犬を見ないよう顔を埋めている。
さながら気持ちは狙っていた大物を釣り上げている釣り師だったと、後のアルバートは語った。
「す、すみません。驚かせてしまったみたいで」
「わふ…くぅん」
「あぁ、大丈夫です。弟は初めてこんなに大きな犬を見たものだから、少しびっくりしてしまっただけですよ」
「立派な犬ですね、とても賢そうだ。君も落ち込まなくて良い、こちらこそ失礼したね」
「…ぅ」
ルイスの様子を見ていた飼い主と犬は恐縮したように謝り倒すが、向こう側には何の非もない。
謝ることはないのだと笑いかけながら少しばかりの会話をしてから、三人は歩いてきた道を引き返すことにした。
もう散歩どころではないし、驚いて逃走しようとしたルイスも抱っこされているうちに落ち着くだろう。
何よりねこさん型ハーネスリュックの性能は十分に把握できたのだから、これから改良に向けて緊急会議をするため早急に帰宅しなければならない。
「ルイス、あの犬さんは挨拶をしただけだよ。大きな声でびっくりしてしまったんだね」
「…いぬさん、ねこさんよりもおおきかったです」
「あの犬は大きい種類の犬なんだ。ルイスを怖がらせるつもりはなかったことは分かってくれるね?」
「はい…でもおおきくてびっくりしました」
「それで…逃げようとしたんだね」
「はい…」
「そうか…」
そこの角を曲がっていってもう見えなくなった犬を見ようと、ルイスはウィリアムの肩越しに視線を向けている。
そんな末っ子を遠い目で見つつ、ウィリアムとアルバートはねこさん型ハーネスリュックを開発して良かったとしみじみ思うのだった。
(ああもあっさり手を振り解かれたとあっては流石にプライドに障りますね。今日から僕も体を鍛えようと思います)
(逃げるルイスのハーネスを引くのも中々の力仕事だった。ルイスは日増しに強くなっていくな)
(はい。喜ばしい限りですね)
(だがルイスに負けてはいられない。兄として、今度こそルイスをしっかり守っていくためにも強くならなくては)
(頑張りましょう、アルバート兄さん)