【本所②】本所法恩寺前深川代地町
町名:本所法恩寺前深川代地町
読み方:ほんじょほうおんじまえふかがわだいちちょう Honjo-Hōonjimae-Fukagawa-Daichichō
区分:町丁
起立:1697(元禄10)年
廃止:1776(安永5)年
冠称:「本所」
後身:深川元町代地、深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)
現町名:墨田区太平一~四丁目
概要:葛飾郡西葛西領のうち、1697(元禄10)年に深川元町の一部が上地となり、本所法恩寺前等3ヶ所に代地を与えられた。1713(正徳3)年、町奉行・代官両支配となる。当初は「本所法恩寺前深川代地町」と称していたが、付近に代地として下された町屋が多かったため、1776(安永5)年に「深川元町代地」と改称して消滅(備考)。深川元町代地は化政期(1804~1830年)には家数113軒(町方書上)と賑やかな町となる。
『北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一年八月ノ形』では法恩寺の真ん前東側に1ヶ所、法恩寺並びの東側に1ヶ所、現・太平四丁目交差点の四ツ目通りを挟んで東西に1箇所の3ヶ所に「深川元町代地」と、『本所絵図』にはその3ヶ所にその前身の町名である「深川代地町」とある。
後身の深川元町代地は、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、本所太平町一~四丁目に編入となり消滅。
※『嘉永新鐫本所繪圖』において、深川元町代地は『北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一年八月ノ形』と同じ位置に3ヶ所確認できるが、現・太平三丁目部分は「同(深川)六間堀町代地(深川六間堀代地町)」となっている。また『本所絵図』では現・太平四丁目交差点北側東西に「深川代地町」とあり、その東は「六間堀代地町」、「柳島横川町」と続いている。
となると、『角川日本地名大辞典』では、1869(明治2)年起立の本所花月町の前身が「深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)」とあり、現行では「太平4丁目・錦糸4丁目」とあるので、『嘉永新鐫本所繪圖』で現・太平四丁目交差点北側東側に「柳島町」と書かれているのは間違いということになる。
撮影場所:本所法恩寺前深川代地町
参考:太平四丁目交差点北西側 墨田区太平三丁目12番8号(イニシア錦糸町)
参考:太平四丁目交差点北東側 墨田区太平四丁目8番1号(シゲタビル 靴専科錦糸町店)