寄り添うこと。損をすること。
あれは小学校6年生のこと。
ひょんなことから、クラスから孤立したいじめられっこと仲良くなった。
あの時から、僕は寄り添うことを覚え、大切にした。
時に、そうした姿勢は、自分すら孤立の対象となったりする。
日本の集団性の酷さは、なんとなく、子供の頃から気がついていた。
論理や理性などが通じない、一種の数の暴力であり、メディアがそれを平気で後押ししたりする。
ユーモアという名の暴力や差別。いや、暴力や差別、理不尽さに、ホモサピエンスの脳は、時々、快楽を感じるらしい。
さて、私は5年前に市議会議員という公職を選んだ。いや、自ら選んだことを、一定数の方が支持をしてくれた。
君ならやれるだろう。君に任せた。という感じだろう。
だから、私はその職責を全うしなければいけない。
市民の声を聴く。市民に寄り添う。
世間の政治家候補者のリーフレットには、こうしたニュアンスの言葉が当たり前に並ぶ。
必要最低条件のように。
私は、たった一人の声でも聴きたいし、たった一人にでも寄り添いたい。
あの、小学校6年生の時の自分のように。
彼は言った。「君に会えて良かった。生きてて良かった」と。
世の中、誰も引き受け手がない役割というものがある。
大概、そうした役割は、最終的に嫌われ者になるか、誰からも注目されずに、いたことすらも忘れられるような役割である。
そんな役割が必要になった時には、必ず、私が率先して手を挙げた。
なぜ、そうしてきたのかわからぬが、
そんなことでもめるのが面倒くさいということと、
俺なら、孤立しても、損をしても、精神的に耐えられるという確信があったからだ。
(そもそも、損得勘定が前提にはないので、損をするとは一度も思ったことはない)
また、それは、集団性の狂気への反抗でもあった。
私は、自分でも恐ろしくなるくらいに、時々、非常なクールさを発揮する。
孤立すること、嫌われることが嫌で、必死に、取り繕う者がとるような、あんな恥ずかしいこと・・・。
私には到底できぬ。
孤立する者。真の孤独に耐えた者。
案外、そういう人はかっこいい。そして、そういう人種が時代を変えてきた。
ただそのためには、絶対的な精神力と、何かを残せるための努力と結果が必要となる。
私は、その者になれるだろうか。なってみたいものだ。
いや、ならぬでも・・・・別に良いが。
要は、自分が納得できるか否か。
そこれこそが最も肝心。
私はあきらめない。
しかし、同志はほしいものだ。