8 柏野浅間山
大内山川とは宮川の上流部、三瀬谷で分岐するその支流である。三瀬谷から、大内山川上流への道が、熊野灘へ向かう熊野街道である。途中には、伊勢神宮の別宮である瀧原宮があるが、その瀧原宮から7、8キロ上流へいった場所が柏野である。伊勢からの熊野街道沿いには、浅間山が点在している。
川はグーグル図の下部(南)から流れてきて、時計回りに半周し、図の右(東)へ進んでいく。柏野地区は、ほぼ川に囲まれている。村の生活が、川からの影響を常に受けていたことは想像に難くない。
大内山川に囲まれた柏野地区の真ん中、こんもりと残る緑が浅間山である。これでも標高は、206メートルもある。かつては、ふもとに浅間神社が社を構えて いたが、昭和初期に鉄道が通り、熊野街道に面していた神社の入口をふさいでしまった。出入りが不便になり、現在は近くの津島神社に合祀されている。今も山の南西側には、浅間の字名が残り、南東の線路側を分け入ってみると、社の石積みが残っている。
登山道は分かりづらいが、先ほどの山の南西側、浅間字から付いている。浅間山の斜面に崩落防止のフェンスがあるので、そこから登る。最初は草で荒れているが、すぐに踏み跡が明確になる。数年来の盛夏で、登りは大汗である。
頂上にはまだ新しい鳥居があり、その奥には、ぽつんと石積みにコンクリートの社がある。コノハナサクヤヒメが祀られている。傍らの木には幣が、背を伸ばして結び付けられていた。つい最近まで注連縄地区も加わって、富士登山が行われていた記録が残る。
村へ降りて自治会長宅を訪ねると、ご主人は留守だったが、奥方が、今年も竹にお飾りをしたものを山へお祭りに行っていた、と教えてくれた。浅間神社はなくなっているが、信仰は絶えていないようである。
山を一周してみると、道から少し高いところに墓地があり、こんな碑が掲げられていた。中瀬霊苑建設の碑、とある。
「旧中瀬墓地は大水の毎に冠水をきたし、永年にわたり心病の限りでありました。今般各関係機関の協力のもとに、当地に移転完成をみました。・・・昭和五十二年三月をもって完成」、と記されている。
中瀬とは浅間山北側の字である。昭和52年とは最近のことであるが、宮川水系がこれほど堤防工事をつくした現代になっても、いまだこの川が、「大水」を出していることがよく分かる。
川に囲まれ洪水には悩まされるが、河原が作った小さな平坦地は生活を起こすには好適地でもあった。ここに人が住んだ頃から、柏野地区の人々は大雨で川が増水すると、高台にあった浅間神社の場所に避難しただろう。現在も残る浅間神社跡の石積みは、簡単なものでなく、斜面を削って広い敷地を作り、それを何段も重ねている。熊野街道に面するこの場所は、一時は紀州藩の砦になっていたという。社が残っていれば、村の人々が過ごす避難所としての機能を果たすには十分な大きさだったことが推測できる。浅間さんは、繰り返された大内山川の洪水から柏野の人たちを守っていたのであり、そして柏野の人々は、村を水難から鎮守する守護神として浅間さんを敬っていたと思われる。
・「歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR」25号 、朝日新聞出版、2010年
・「大宮町史」編集:大宮町史編纂委員会、1987年