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拵える という知恵の記憶

2022.12.31 02:41

拵える こしらえる

この言葉が好きである。

日本語っていいな 暖かいな と感じる言葉だ。

ただ作業として作るのではなく、誰かを思いやりながら 例えば料理を 例えば毛糸の手袋を 「こしらえて」いるはずで。

その暖かさがない時にはきっと使わない言葉に思う。


この「こしらえる」ということには

まさに小さな さらにおいしくなったり 使い心地が良くなる知恵の作業が「下拵え」なんだなと この歳になってきづく。


料理屋を始めた時 料理屋出身でもないのにいろんな下拵えを知っていた。

しまえびの処理 とか

餡を包む時晒しを使って とか

大人数の料理の時のコツとか 母との台所で学んだだけではない知恵 下拵えの知恵が染みてたのは 数百人規模の人寄せを切りもる叔母を手伝っていた時だろう。

あれはあれで 衆が集う時の 時間とか相手に合わせての「こしらえ」だった。

さらに手際という頭を使う作業も小さな時から なぜか好きだったので口の悪い叔母には重宝された。


おにぎり一つもそうだ。作る おにぎりは出来上がった形は同じだが、固く塩味も均一で幾分しょっぱく 体裁はいいのだが 何かが違う。

手で握るおにぎりは手の腹に粗塩をつけて握る三角をずらしながら 外側はしょっぱく内側には塩気が少ない そこに具が収まる

この具合が美味しい。


ある時作るのは同じじゃない?

と 台所の1人がいきなり茶碗の白飯にしおをふりかけて混ぜ握り出した。

しかし やはり同じではなかった。

こしらえる には その 理由がちゃんとある。

端折って最後の体裁という辻褄あわせても

同じものにはならない。

それにはこさえる という言葉は合わないだろう