■低くて高い空
飛ぶ鳥の 腹しか見ずや 地上人(ちじょうびと)
「お前、ずっとこんな所に居て、希望とかあんのか」
「ありますよ。希望っていうか何ていうか」
1週間前に入ってきた隣のベッドの青年は、相変わらず無愛想に不躾なことを言ってきた。
せっかく相部屋になったのに初めのうちはろくに話さず、たまに死んだような眼でぼくをじっと見てはつまらなさそうに舌打ちをして逃げるように布団を被ってそっぽを向いた。やっと昨日話し掛けてきたと思ったら、いきなりこんな調子だった。
看護師さんとの会話から、名前がハタケヤマということだけは判っていた。見た目ぼくより少し上、高校生くらいだ。だから青年というよりはホントは少年なのかもしれない。そして彼はぼくを含め、目に映る全ての人に悪態をついていた。彼の第一印象はナゲヤリ、そんなところだった。
昨日。彼が初めてぼくに言ってきた言葉。
「お前、長ぇのか」
「えぇ、まぁ」
「どのくらい居んの」
「ずっと、ですね」
「ずっと?」
「生まれてからずっと。ここで育ったようなもんです」
「ふん、つまんねーヤツ」
何か言おうと思ったけれど結局黙っていた。彼はそのまま黙って天井を睨みつけている。ぼくは読みかけの本を取ろうとサイドワゴンに片手を伸ばした。ところが先刻来た看護師が不用意に身体をぶつけたせいで本の場所がいつもの位置から少し奥にずれていて、ぼくは右手で何とか手繰り寄せるようにして捉えたものの、バランスを崩して落としてしまった。それをハタケヤマさんはずっと盗み見ていた。
「すみません、取ってもらえませんか」
「自分で取れよそれくらい」
「出来ないんです、点滴してるから。それに」
ハタケヤマさんはぼくの言葉をほとんど聞きもせず、わざとらしく溜め息をつきながらぼくの真下に落ちた本を拾ってくれた。受け取ろうと右手を出すと、彼はすっとその本を取り上げて、そして言った。
「お前、オレのこと気にならねーのかよ」
「たとえば?」
「何処の誰だとか、なんでここに来たとか、色々あんだろ」
「別に。聞いて失礼になることもあるし」
「オモシロくねーヤツ」
「そうですね」
ふん、と彼は鼻を鳴らしてぼくに本を突きつけるようにして返してくれた。
「あ、名前は知ってますよ。ハタケヤマさん。看護師さんがそう呼んでるの聞きました」
「他には?」
「関西の病院から転院してきた。オペが終わったら退院する。これは看護師さんたちの世間話だからホントかどうか知らないけど」
「いいのかよ看護師がベラベラ喋りやがって」
「あまり良くないですね。それから、ぼくより年上」
「見たら判んだろそんなことは」
「ピーマンが嫌い」
「あん?」
「給食のピーマンだけ、除けてましたね」
「…………」
「それから、いつも機嫌が悪い」
「ケンカ売ってんのか」
「ほら、今日も」
「ほっとけよ」
「やっとボール受けた」
「ボール?」
「ここに来てからずっと黙ってたでしょ。やっと、ぼくの言葉に反応した」
「お前なぁ」
「ぼくはカイドウアオイ。14歳。改めてよろしく」
「感じ悪ぃマセガキだぜお前」
「たまに言われます」
差し出したぼくの右手を握ることなく、彼は呆れたような顔でぼくを見た。初めて見せる『表情』だった。ぼくは右手を所在無く引っ込めた。
「お前、ずっとここに居るって言ったよな」
「えぇ。外に出たこと無いです。あ、病院の中庭ならごくたまに」
「それってどうよ」
「どう、って?」
また彼の表情がいつもの不機嫌なそれに戻った。年の割に妙な落ち着きがあると、ぼくはよく言われる。同年代の友達と接触がないぼくにとって、年相応というのがいまいちよく判らない。小児病棟に居た頃も大部屋ではなかったので、会話の相手はほとんど院内の大人だった。そんなぼくの態度がどうにも気に食わないらしい彼は、元々気短なところもあるのだろう、その都度イライラと小さく悪態をついてくれた。
「お前、何のために生きてんだよ。ずっとこんな所にこもってさ、ベッドからも降りられねーザマして」
口が悪い。だけど素直な人だな、とぼくは思った。こんなこと今まで誰も聞いてこなかったから。そもそもこんなこと、普通の大人は誰も聞かない。普通の大人? じゃぁ彼は普通じゃないのかな。大人じゃないから聞いたのかな。そんなことを考えてちょっと可笑しくなって小さくふきだした。彼がそれに気付いて軽く睨みつけた。
「生きるため、かな」
「は?」
「特別なことは何も望まない。ぼくはただ真っ当に『ヒトの生き方』をしてみたいだけ」
「なんだそれ」
「『何のために生きてる』って聞いたでしょ。その答え」
「意味わかんねーし」
「地上の人間の多くは、恐らく生きていることの本質を知らないままに生き、気付かないまま死んでいく。そう考えれば、ぼくはとっても恵まれた存在だと思う。だって、いつ死ぬか判らないんだもの。だからこそ、生きている今に必然性を感じ、生きている今を実感出来る。生きている事そのものを、意味として捉える事が出来る。地上に張り付いてしか生きられないぼく達だって、飛ぶ鳥の背中を見る事は出来る。でもその事に、ほとんどの人間は気付いていない」
ベッドに身体を起こしたままぼくの顔をしばらく物珍しそうにじっと眺めていた彼は、やっと我に返って口を開いた。溜め息も一緒に漏らした。
「お前、将来坊さんにでもなれよ」
「いいですね、それ」
「意味わかんねーって」
「ま、考え方次第で色々変えられるって事かな」
「お前、ぜってぇ友達出来ねータイプだな」
「友達はいませんよ」
「ヤなガキ」
ちょっと意地悪で言ってみたつもりが、更に彼には気に食わなかったらしい。彼は頭を掻きながら横目でぼくを睨んだ。
「外の世界に生で触れられない分、知識ばかりつきました」
「そーゆーのは知識ってより知恵っつーんだよ」
「まぁ確かに」
彼は小さく舌打ちをして、逃げるようにベッドに身体を投げ出した。衝撃でベッドがキシキシと音をたてた。彼は頭の後ろで両手を組み、ひざも立てて組んだ。とても入院患者らしくはなかった。
「そう言えばハタケヤマさん、言葉に訛がありませんね。関西から来たのに」
「親が両方とも神奈川」
彼は寝返ってぼくに背を向け、面倒そうに一言応えた。
「あぁ、なるほど」
「ナルホドってなぁ ―― お陰で学校じゃウキまくってよ」
「浮きますね、確かに」
「お前と話してると、感狂うゎ。疲れた」
「初めてまともに話したから、余計でしょ」
彼は応えなかった。ぼくは拾ってもらった本をそのまままたサイドワゴンに戻した。今度はわざと、自分で少し向こうに押し込んで。
■ ■ ■ ■
入院も1ヶ月が過ぎるとお互いかなり肩の力が抜けてきて、相変わらず口は悪いが初めの頃より数段会話も続くようになっていた。彼から話し掛けてくることも少なくは無かった。
「たまには外に出てみろよ。オレがサッカー教えてやるぜ」
「出たいけど、先生の許可が無いとどうにも。それにぼく、点滴してるし」
「んなもん、持って歩けんだろ。ほら、何かガラガラってしてるヤツ居るじゃん」
「そうだけど、ぼく、歩けないんです」
「そうなのか」
「うん。足にほとんど感覚が無くて。こうして背中を支えながら起こして座るのがやっと」
「結構厄介だな」
「ですね」
じっとしているのが苦手な人なのだろう。オペから10日もしないうちにほぼ自由に歩き回れるようになった彼は、毎晩のように看護師さんの目を盗んでは点滴をお供に病室を抜け出した。そしてしばらくして、タバコのにおいを連れて帰ってきた。実は看護師さんはみんな知っていた。
ある日、彼は久々にご機嫌斜めでやたらとぼくにからんできた。班長さんにとうとうバレて、さんざんな目にあったらしい。ぼくは告げ口してないよ、と心の中で弁解しておいた。
「っつーかお前、いー加減その敬語みたいな喋り方やめろよ。何かすっげー感じ悪ぃ」
「そう? でもハタケヤマさん、ぼくより年上だし」
「別にタメ語使えっつってんじゃねーけどさ、その感じ悪ぃの何とかしろ」
「あは、オモシロい。ハタケヤマさん」
「だから感じ悪ぃんだってお前」
「ごめんなさい。そう言えばハタケヤマさんの下の名前、ぼく知らない」
「あれ、そーだっけ。入り口の名札に……って、あそか、お前見たことねーのか。ノリユキ。ダチはみんなノリって呼んでる」
「じゃぁノリさんだ」
「何かオッサンくせぇ」
「ホントだ」
「シバくぞ」
口では悪態をつきながらも毒気は抜けて、わざと大きなモーションで右手を振り上げた。本気でないことが判りつつもぼくが少しビクッとしたのを見て、彼は面白そうに大きな声で笑った。
「ねぇ、いくつ?」
「あれ、それも言ってなかったか」
「うん。ノリさんが自分で言ったのは、両親が神奈川だってことだけ」
「そうだっけか。オレ、18」
「じゃぁ高校3年?」
「ホントはな。でもダブってっから今2年」
「ダブってるって?」
「留年。去年オレ入院しすぎてさー、出席日数足りんかったんよ。最悪じゃん」
「へぇ、そういうのがあるんだ」
「お前みたいのはダブりまくりだ」
「ホントだね」
彼の言葉にはいつも遠慮がなかった。ぼくはそんな彼の型にはまらないところが気に入っていた。確かに世間一般では浮く人かも知れないが、そもそもぼく自身がそこから遠い存在なので、ほとんど気にならなかった。
これまでも隣のベッドには何人もの患者が来て、そして去って行った。長期もいれば短期もいたし、無事退院した人もいれば、事情で転院した人もいた。処置室に行ったまま戻ってこなかった人もあった。そのほとんどとは大して会話もなく形だけのあいさつ程度で済んでいた。比較的年の離れた大人が多かったせいもあるのかも知れないが、誰もがただ通り過ぎる人のように、とても希薄だった。
だからハタケヤマノリユキという人は、ぼくにとって何もかもが新鮮だった。出来ればずっといて欲しいとも思った。でもそれは本人にとってはいい事でないのは当然で、だからぼくは黙っていた。
「今年も実はヤベぇんだよなぁ」
「足りないの?」
「おう。こんなんでさー、別に高校行ってる意味ねーじゃんとかって思わね?」
「どうかな。ぼくは学校自体行ったことないから判らないけど」
「あーそっか、すまん。聞く相手間違えた」
「ヒドイなぁ。でもアレだよ、考え方次第 ――」
「『考え方次第で色々変えられる』ってヤツか」
「あ、うんそう。よく覚えてたね」
「ったりめーだよ。いきなりインパクト強すぎだっつーの、お前は」
五体満足な彼は、自分のベッドの上であぐらを掻いてふんぞり返った。自慢することでもないように思うけれど、余程記憶にあるらしい。彼の脳に刻印を押したような感じで、ちょっとぼくは得意気だった。
■ ■ ■ ■
ぼくのことでも、ぼくのことばでも、なんでもいい。
ただ、彼の記憶に、すこしでも、ひとつでも、のこればいいなと思った。
もしかしたら、ぼくの希望は、いつのまにかそれに、変わっていたのかもしれない。
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それから彼は2ヶ月近くいて、そして無事退院していった。結局留年はしてしまったけれど、元の学校に復帰して学校中ダチだらけにするんだというようなことが、何となく聞き取れた。
ぼくは満足におめでとうもあいさつも言うことが出来なかった。例の本は、あれからずっとサイドワゴンの少し奥の方に黙って収まっている。
彼は、飛ぶ鳥の背中を見ることが、出来ただろうか。
ぼくは、その背中に乗ることが、出来ただろうか。
------------ (c)紅蓮・井上きりん 2008.09. ------------