平和のモニュメント
https://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3030000/3030200/p005199.html 【平和公園モニュメント一覧】より
設置目的 長崎北クラブ創立25周年記念 原爆の悲惨さと平和祈念を訴える
長崎の原爆 松口月城
原爆炸列天地轟く崎陽満目猛烟生ず。大厦髙楼瞬時に砕け山崩れ海翻り鉄塔傾く
須臾にして焔々大火起こり焦頭爛躯累々として横たわる
夫は妻を喚び妻は子を覓む阿鼻叫喚修羅の声
八万の生霊恨みを呑んで死す噫原爆の大犠牲
文化の悪用人類を滅ぼす平和の鐘何の時にか鳴らん
作者は著名な現代漢詩作詩家として知られ医学を以って社会に貢献されるかたわら漢詩作の研究を究められ昭和三十三年来崎の際原爆の悲惨な情景を見聞されて原爆犠牲者の御冥福と世界永遠の平和を祈念して作詩された
其の詩魂は広く吟道愛好家に受け継がれ毎年八月九日平和公園に於ける原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の際献吟されて居ります
此の詩碑は先生自筆の詩を刻み原詩は長崎市に寄贈されて居ります
平成四年九月二十七日
ライオンズクラブ国際協会
京都北、長崎北クラブ
https://nagasakipeace.jp/search/about_abm/scene/1102.html 【11時2分】より
市内の記録
昭和20年8月9日午前11時2分。
原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度9,600メートルの上空から第二号の原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎に投下した。彼の手記によると、長崎の市街も、第一爆撃目標都市小倉と同じく雲におおわれていた。スウィーニーはレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。すでに燃料は沖縄基地までようやくという状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。示された照準点への爆弾投下まであと30秒、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒。そのとき、はからずも爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)にかけての中間地帯だった。爆弾の投下は目視爆撃で行えということが示された重要命令だった。そこで、ここが急遽投弾目標となった。
爆発は、目標地帯からおよそ5~600メートル北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。(通称爆心地公園の上空)
爆発時の諸状況は、次の通りであった。
爆発点
爆発点の高度についてはいくつかの推定値があるが、現時点では503メートル~±10メートルが信頼度の高い数値と考えられている。
ちなみに、昭和20年10月、木村一治(もとはる)、田島英三理化学研究所員が、井樋ノ口交番所の庇の影、浦上天主堂の石碑の影、長崎医科大学附属病院の焼け跡で見つけた影の三方の影から爆心を測定し、そのときは爆心点高度を490メートル~±25メートルとしていた。
火球と熱線
爆発と同時に空中の一点に摂氏数千万度ともいわれる火球が発生、体積が急速に膨張した。爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間にその直径は約30メートル、温度は摂氏およそ30万度になり、さらに火球は百分の一秒から一秒の間に直径100~280メートルに達した。
火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間にわたって外部に強い影響を与えたと考えられている。
特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの間においての赤外線であった。一説では地上物質の表面温度は、原爆の直下では恐らく3,000~4,000度にも達したと推定されている。
衝撃波と爆風
爆発に伴って生じた物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。またそれと同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。
爆風
爆心地からの距離 最大風速(秒速)
0 キロメートル 440メートル
0.3キロメートル 330メートル
0.5キロメートル 280メートル
0.8キロメートル 200メートル
1.0キロメートル 160メートル
1.2キロメートル 130メートル
1.5キロメートル 94メートル
1.8キロメートル 72メートル
2.0キロメートル 60メートル
2.5キロメートル 38メートル
3.0キロメートル 30メートル
3.5キロメートル 26メートル
原子雲(きのこ雲)
爆発時の巨大なエネルギーは、地上のものを吸い上げ、吹きあげ、巻き上げて原子雲を立ち昇らせた。この原子雲は刻々と色と形を変えながら、ぐんぐんと上昇した。その上昇速度は次のようにみられている。
約0分30秒 3,000メートル
約1分30秒 4,500メートル
約2分30秒 6,000メートル
約4分30秒 7,000メートル
約8分30秒 9,000メートル
原爆投下機の機長・スウィーニーは「垂直の雲は驚異的なスピードで上昇を続けており、その色はつねに変化していた」「上昇してきた雲が、7,500メートルの高度で白くきのこ状に膨らみ、さらに加速しながら上へ噴出を続け、9,000メートルにいた我々を追い越して、少なくとも14,000メートルにまで達した」とその手記に記している。
このきのこ雲は、近郊はもちろん遠く県外でも望見されたが、意外にも、爆心地に比較的に近い距離に居た者には、きのこ雲は見えなかったと証言する者が多い。
立ち昇ったきのこ雲の雲頂はやがて崩れ、次第に東方へ流れていった。雲の移動速度は時速約12キロメートルと推定されている。
原子爆弾の炸裂時の状況について、長崎県は『8月9日長崎市空襲災害概要報告書』に次のように記している。
『原子爆弾ノ炸裂ニ際シテハ先ズ強烈ナ一大閃光ガ迸バシリマシタ。ソレハ恰モ強烈ナ「マグネシウム」ヲ焚イタト同ジ様ナ感ジデ、アタリ一面ガ白茶ケテボンヤリ霞ンデ仕舞イマシタ。ソシテ爆発ノ中心部デハソレト同時ニ、又多少距離ノアル所デハ夫激ヨリ瞬時ノ後、猛烈ナ轟音ト共ニ強烈ナ爆風ト熱気トガ襲ウテ来タノデアリマス』
https://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3030000/3030100/p005151.html 【願いのゾーン】より
願いのゾーン 祈念像地区
「願いのゾーン」として位置づけられる祈念像区域は、平和祈念像を中心に、平和の泉、世界各国から寄贈されたモニュメントなどを設置し、平和を願う場にふさわしい空間として整備されています。毎年8月9日には、祈念像前の式典広場で平和祈念式典が行われます。
平和祈念像
平和祈念像郷土出身の彫刻家・北村西望氏の作で、昭和30年(1955年)に完成。像の高さ約9.7メートル、重さ約30トンの青銅製で、「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」と作者の言葉が台座の裏に刻まれています。平成11年度に大規模な修復工事を行いました。
なお、被爆75周年を前に、経年により劣化している平和祈念像の修復(塗り直し)を、平成31年1月から実施していましたが、平成31年3月28日に完了しました。
平和の泉
平和の泉水を求めながら亡くなった原爆犠牲者の冥福を祈り、昭和44年(1969年)につくられたものです。
なお、被爆75周年を前に、経年により劣化している平和の泉のタイル改修および泉の中の防水工事を平成30年10月から実施していましたが、平成31年3月27日に完了しました。
折鶴の塔
折鶴の塔
長崎の鐘
長崎の鐘当時、被爆地には魚雷や戦車などを生産する多くの軍需工場があり、動員学徒、女性挺身隊と呼ばれた中学生や女学生をはじめ、多くの人々が働いていました。長崎の鐘は、33回忌にあたる1977年にここで亡くなった方々の冥福を祈るためにつくられたものです。
長崎刑務所浦上刑務支所跡
長崎刑務所浦上刑務支所跡原爆炸裂時にあった長崎刑務所浦上刑務支所の周囲の壁の一部が今も残されています。
主な施設
平和祈念像、式典広場、平和の泉、長崎の鐘、モニュメントなど
平和公園駐車場(有料)
地下部(バス36台・普通車31台)、地上部(普通車53台)合計120台
平和祈念像
像の高さ約9.7メートル、台座の高さ約3.9メートル(昭和30年設置)
願いのゾーンマップ
諸国民友好の像
人生の喜び
平和
乙女の像
平和のマント
Aコール
平和の碑
太陽と鶴
無限
地球星座
戦争に対する平和の勝利
未来の世代を守る像(新しいウィンドウで開きます)
平和の記念碑(新しいウィンドウで開きます)
生命と平和との花
人生への讃歌