Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

伊勢志摩国浅間信仰図

12 贄浦(にえうら)浅間山

2015.08.29 14:36

 御幣に付けられた吹き流しは、20年ほど前、華やかさを添えるために付けたとのことである。だがどうしても、富士山の裾野の広がるイメージを意識してしまうし、梵天にした幣垂れは御幣の原形なのだが、白い紙球が美しく空に舞う姿は、富士の白い頂上部を連想してしまう。富士信仰である浅間祭りという先入観が、そうさせるに違いなかった。付け加えて、災害神のキーワードを重ねてみてみれば、その白く浮遊する残像は平安期の富士が日常的にそうであったように、その頂上に昇る噴煙とも見紛う。

 竹竿を飾った神事の中で、神の依り代として空中にさまよう神霊を呼び寄せる道具を「髭籠」(ひげこ)と呼んだ折口信夫から、その初夏の竹柱を「天道花」とし、太陽神の民俗祭祀と捉えたのは柳田國男だった。また、その具体的図像を南北朝期の絵巻に発見したのは宮本常一という。それは、極細であるが民家の先に竹竿が少しの飾りをされている様子が描かれている。さらに柳田國男は、「天道花」を農事の始まる旧暦四月の氏神祭りの一部と示唆した。そして保立道久氏は、その祭り神事を鎌倉期の「一遍聖絵」に見出し、「苗代」「忌札」「的」「葉桜」「卯の花」「竹の子」「注連縄」などを、中世の人たちの年中行事の風景として蘇えらせたのである。

贄浦の弓引き神事「大的小的」の的(写真:伊勢志摩きらり千選から引用)

 その風景は贄浦にも残っているようである。「一遍聖絵」で弓の「的」は、田園風景の中の物置小屋の傍らに片付けられている様子が描かれ、それが祭りが終わった後の風景であることが分かる。贄浦では、弓引き神事がもともと田畑で行われていた行事であることを残すために、畝を七列半並べて弓をうける地面を造作している。神物である「的」の背後には、これも祓いの意味を持つ松と榊と笹が立てられている。伊勢志摩地方、また全国的にも弓引き神事は分布している。これは、全国に広がっていた神宮の神戸(かんべ)御厨(みくりや)の影響もあると考えられる。

 贄浦はもともと、伊勢神宮の荘園である吉津御厨に属し、鰡(ボラ)を献上していた。今でも鰡のカラスミが作られているのは、その名残であると思われる。吉津御厨は既に鎌倉中期以前から神宮の所領となっていたと思われ、その頃から伊勢の神事・文化が入ってきていたと考えられる。

 祭りは6月28日に行われた。方座浦のようにオシロイと紅で化粧をする代わりに、色とりどりの頭巾を被って、何かの化身となっているようである。数珠と腰の鐘は修験の印である。

 幣、竿柱の話に戻ると、保立氏は柱信仰と結び付けて、欧州の六月婚(ジューンブライド)の準備である五月柱(メイポール)、記紀でイザナミ・イザナミが婚姻を誓った天の御柱を引用し、男女の関係を説明する。振り返って浅間信仰では、北部松阪の古い記録が興味深い。彼の地の浅間祭りは、青年の参加が存続している理由のひとつだったという。祭りの片づけが終わった夜、青年たちは、白い鬼縮緬の帯を締め繰り出し、愛宕町の柳の下では首白粉のお姐さん方がそれを迎えたという。

 桶に入れた水を撒く踊り手は、導者の先導役として先々を清めているのか、はたまた、津波をモチーフにその警戒を暗示しているのだろうか。この踊り手だけが、その仕振り・役割が高度化されていることが注目されるが意味は不明である。浅間さんがここでは水の神であることの表現には間違いないだろう。水は神事の清めに必要であるばかりでなく、もちろん農業など生きていくには不可欠なものであり、時に川を氾濫させ、洪水となり、津波となって浦を襲ったのである。

 かつて贄浦の幣は十数本も立ったという。浦の各組全てが幣を出していた。けれど幣を長くしたり、太くしたり、飾ったりすることはなかったという。というのも、祭りの終盤はやはり、幣上げの競争があったからである。どの組が一番に浅間神社の祠に到達するかは、組の名誉がかかっていた。漁業者の心意気である。吹流しが付くようになったのは、競争がなくなったからである。ただ、ここでも競争が取り入れられていたのは、津波避難の教訓を暗示するためではなかっただろうか。

 幣が上がってくるのを待つ間、稚児のご機嫌取りも忙しい。避難の訓練も、稚児が一番である。

 浅間さんに着いた幣は、祠の周りの神木の頂点に結び付けられた。年長の者が、あれこれ指図していた。隣の浦からも見えるようにしているのだろうか。祭衆は祠の周りを踊りながら唄をうたう。「サンゲ、サンゲ、ロッコンショウジョウ」。修験の唄である。先ほどの、水桶の踊り手も同じように水を撒く素振りで回る。過去に亡くなった者の霊を弔っているようである。

 贄浦の最明寺には宝永津波供養塔があり、そのときの被害を伝えている。宝永地震は、紀伊半島沖の南海トラフを震源としたM8.4と有史以来最大級のもので、東海から紀伊半島までの沿岸地域に甚大な被害を及ぼした。贄浦では、九十四軒の家屋中、八十五軒が流され、五十五人もの命が奪われた。ただ、津波碑は宝永地震のあった百四十九年後の安政三年(1856年)に建てられているのだが、伊勢志摩地方は、その二年前の嘉永7年(1854年)に同じ南海トラフを震源とした安政東海地震・安政南海地震の津波を二日間連続で受けている。宝永地震の津波碑は、深く強く津波伝承を意識して建てられているのである。

 白い富士の形の枠型が印象的である。竹谷靭負氏はいう、日本人は富士山を眺望するとき、原像の富士の美しさだけでなく、頭の中で、様々な富士山のイメージを繰り返し重ねているという。つまり、大抵頭の中で美しい富士が重なっているのが、日本人なのである。新幹線の窓に求めているのは、既に頭の中に美しく出来上がっている富士であり、日本人はそれを確かめるために、新幹線の車窓を楽しみにしているといってもいいだろう。

 未明から漁に出た伊勢志摩地方の漁師達も、そんな気持ちで海に出ていたのではないのかと思う。いくら海上で遮るものがなくても、天候しだいで稀にしか富士を目にすることはできなかった。それでも、彼らの心の原像には美しい富士が既に出来上がっており、稀に見る富士はただそれを確かめる作業の一部でしかなかった。しかしそれは、至福の作業だったに違いない。



引用・参考文献

・保立道久「巨柱神話と天道花」(物語の中世)講談社学術文庫、2013年

・竹谷靭負「日本人はなぜ富士山が好きか」祥伝社、2012年

・松阪市教職員組合「松阪の民俗」、1981年

・国立天文台編「理科年表」丸善、2011年

・伊勢志摩きらり千選HP http://www.kirari1000.com/

・新田康二「いのちの碑・三重県100基」冊子、2014年