【深川②】深川三十三間堂町
町名:深川三十三間堂町
読み方:ふかがわさんじゅうさんげんどうちょう Fukagawa-Sanjūsangendōchō
区分:町丁
起立:1694(元禄7)年
廃止:1869(明治2)年
冠称:「深川」
後身:深川数矢町
現町名:江東区富岡二丁目
概要:切絵図には仙台堀の南で富岡八幡宮の東側の三十三間堂に隣接してある。1657(明暦3)年、元地、浅草三十三間堂境内に堂守・鹿塩久右衛門の助成地として開かれた町だったが、1698(元禄11)年の火災の翌年、まだ湿地だった当地に三十三間堂とともに同坪数の代地を給された。1694(元禄7)年から町奉行支配となる(備考)。享保年間(1716~1736年)から岡場所があったが、1798(寛政10)年までに取り払われた。化政期(1804~1830年)の家数30軒(町方書上)。
三十三間堂は京都の蓮華王院の三十三間堂を模したもので、本尊は千手観音、はじめ浅草にあった(後の浅草坂本町、浅草浅留町)。境内は弓術の練習、射的場として使用され、本堂では1646(正保3)年から1852(嘉永5)年まで通し矢が行われた。通し矢の最高記録は石川備中守の臣梶川勝蔵の1万11本。1703(元禄16)年の記録で、梶川は12歳の少年だったという(武江年表)。弓場は1641(寛永18)年、新両替町の弓師備後が幕府の許可を得て、はじめ浅草に作ったもので、1698(元禄11)年の火災に遭ったため、1701(元禄14)年に当地に移築された(画報)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、深川宮川町、深川入船町代地、三十三間堂と合併し、深川数矢町の起立となり消滅。なお、三十三間堂は1872(明治5)年に撤去され、神葬地となるが、文書記録は浄土宗正覚寺(深川二丁目)に移管される。
撮影場所:深川三十三間堂町