温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第112回】 西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫,1950年)
今にして思えば幸運だったなと思う一つは、高校時代の倫理科教師が良き先生であったこと。先生は哲学部出身で倫理の教科書や資料集なども執筆していた。それとは別で『先生が教えてくれた倫理』(清水書院)というタイトルで本も出しているから、実名を出しても問題はないだろう。先生の名前は矢倉芳則氏、私よりも20歳くらい年上となるから、私が教えを受けたときはまだ40歳手前だったことになる。
矢倉先生が教えるスタイルは独特で、まず授業冒頭でお手製のプリントを配り、毎回異なる哲学者・思想家について10分程度のミニ講義を行うところからスタートする。語り口調は理性的かつ情熱的であって、難しい哲学・思想を語るときほど、高校生の日常経験や世相に絡めながら教えてくれた。倫理を知識として学ぶだけでなく、実践をどこか心がけてほしいとの思いからか、その放射する熱量は大きく、生徒にとってはときに過大に感ずるほどでもあった。私は矢倉先生の知性に尊敬を感じつつも、その内容に納得がいかないときは授業中でも手を挙げて何度も意見を述べ、ときには準備室まで押しかけて議論をふっかけたりもした(先生はそれに付き合ってくれた)。
私の記憶に間違いがなければ、配布されたプリントのなかに哲学者・西田幾多郎を紹介するものがあった。西田哲学のエッセンスを分かりやすく紹介しながら、後半に「矢倉の私見としてはカントの純粋理性批判よりも難解だ」といった感じの一文が書かれていたはずだ。西田についての先生のミニ講義がよっぽど印象的だったのか、放課後、古本屋ですぐに『善の研究』(岩波文庫)を購入している。
ただ、私が手に入れた『善の研究』は旧版であり解説などは一切付属しておらず、第1編の厚い壁を理解できずに初戦は終わった。現在刊行されている改訂版は京都大学名誉教授で日本哲学史を専門とする藤田正勝氏の解説が含まれており、旧版よりも随分と親切なものとなっている。なお、この藤田氏は高校生向けの倫理参考書なども執筆しており、22年夏には一般向けに『西田幾多郎「善の研究」を読む』(ちくま新書)というとても良き解説書も出版されている。
西田幾多郎の思想を語る上でもっとも重要になるのが「純粋経験」という考え方である。『善の研究』はこの純粋経験という意味合いを明らかにするべく様々な角度からアプローチしており、これを感ずることができればこの本は即座に閉じてもいいのだと個人的には思っている。なお、西田は当初『善の研究』というタイトルではなく、「純粋経験」という言葉をタイトルに入れようとしたが、出版社の都合で採用とならなかった。4編で構成される同書は、第1編でもっとも肝となる純粋経験の考え方についてストレートに書かれている。
ただ、西田が同書の「序」で読者に助言するのは、第1編は根本ではあるが、初めて読む場合、第1編は省略してスタートするのが良いとしている。第2編「実在」、第3編「善」、第4編「宗教」と構成されている各編は、確かに純粋経験の理解へと至るために必要な各種ツールを読者に示してくる。
第2編「実在」では、主観と客観を分けて考えるデカルト的な常識から外れて、この主と客の対立以前の刹那に実在をみるといったアプローチについて語る。知・情・意の分離がないところに、実在の真景があるとする。
第3編「善」では、倫理や倫理学を巡る諸説を語りながら、人には先天的な他愛の本能があるとし、「善行為とは凡て人格を目的とした行為であるということは明である」(第3編第11章)とする。加えて、知・情・意が合一され、「ほとんど自己の意識がなくなり、自己が自己を意識せざる所に、始めて真の人格の活動を見るのである」(同)ともいう。
第4編「宗教」では、それを人間が生きていく営みと結びつけ、「その要求は生命其者の要求である」(第4編第1章)とする。神を特定の宗教が想定する性質のものではなく、宇宙の外に存在するわけでもなく、宇宙の根本と位置づけて、人間が知の領域で語れるものではないとする。ただし、知からは「いかにも不可知的であるが、また一方より見ればかえって我々の精神と密接して居るのである」(第4編第3章)といい、その背後にやはり知・情・意の分離がない合一された人格が前提とする。
ところで、第1編第1章、『善の研究』のなかでも純粋経験をもっとも端的に語るとされる冒頭の文章は次のように始まる。
「経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なる者である」(第1編第1章)
高校時代の授業をきっかけに西田哲学を知り、これまで『善の研究』を何度読み返してきたかわからない。当時買い求めた同書は読み返す度に引いた線や書き込みでだいぶ年季が入った代物になっている。私は大学で哲学を専攻したわけではなく、独学で学び来るなかで西田哲学に対して深い敬意を払うようになった。ただ、西田が助言する本書の読み方については一つ思うところがある。第1編を省略して他から先にあたることで、確かに純粋経験の意味合いを掴むツールは手元に与えられる。純粋経験という表現の構造に何が含まれるのかもある程度明らかにもされる。しかしながら、純粋経験への筋道を理屈でわかり得ても、感性でこれを掴み得るかは別物だとも思うのだ。
浅見なる私見であるが、はじめに第1編第1章から入り、論旨の筋道や意味合いを巧く追えずとも、感性でもって同書が持つ常識とはまったく異なる深みを感じ、それをどうにか掴みたいと思わせる気持ちを持つことが大切だと思える。要するに『善の研究』は、自らの感性でもって冒頭一文に少なからず心が動くかどうかにあり、それが最初から出来なければ、あるいは過度に懐疑的になるならば、他の編からスタートして第1編に戻っても理屈を追うだけで終わる代物のようだ。『善の研究』は読み手の感性の在り方、知・情・意の調和程度がそもそも問われる書物でもある。
ところで、倫理科の矢倉先生だが、高校での配布プリントに「矢倉の私見としてはカントの純粋理性批判よりも難解だ」と、カントを引き合いに言及したその真意はよくわからない。当時、矢倉先生は、西田幾多郎とカントを織り交ぜて授業をしてくれた記憶は朧げにだがある。ただ、『善の研究』において、西田は自らの思想を説明していくなかで色々な哲学者・思想家の考え方を引用紹介しているのだが、カントについては他と比べると割合あっさりと言及するくらいで終わっているのだ。
これは私個人の手前勝手な自由の営みなのだが、カントと西田が時代も国も超えて対峙したならば、互いに何を分かりあえて、どこで線を引いたかを時折想像をしてみる。おそらく一つ問題になるのは宗教と道徳の関係や立ち位置についてだと思う。カントはある論文のなかで、「道徳は不可避的に宗教に至る」といいつつも、道徳が存立するためには宗教をまったく必要としないといっている。要するに宗教よりも道徳を上に置くといった姿勢を取る。
これに対して西田は反対の立場をとる。『善の研究』ではなく、彼の別の書簡のなかで、カントの道徳至上を認められないとし、宗教は道徳を超越するともいっている。ただ、西田のいう宗教とは、特定の宗教を起点としない、宇宙の外に神を見出しもしない、宇宙根本のようなものである。これを『善の研究』の一部分では「統一的或る者」と表現している。
カントもまたキリスト教を啓示宗教として重んじつつも、その在り方については歴史的・経験的要素を省けるという。要するに奇跡などを「神の子」の証拠として外に求めるようなことはせずに、「神の子」の理念は理性の内に存するべきものといった態度をとった。この言わんとしていることは誤解と波紋を生じさせて、結果的にカントは王の不興を買って公職からの追放間際となり、著作の一部も発禁処分を受けている。
もしかすると、カントと西田の宗教といったものの概念や在り方については言葉の上では折り合いがつくかもしれない。さすれば、道徳が先か、宗教が先かの問題は、論理上はもう少し整理はできもするだろう。それでもなお、両者が相容れない点は、西田がいうところの「統一的或る者」に人間が触れられるか否かだと思う。カントは明確に否とし、人間が理性で知ることに限界がある以上は、感性が何かしら代用したとしても、そこに積極的な意義を見出しはしないだろう。西田は知識や言葉の上では不可知でも、知・情・意の分離しない、主客未分の純粋経験が「統一的或る者」との密接を可能にしてくれるとし、そこに積極的な価値を置くことになる。
この両者の違いを言葉の上で丁寧にしっかりと詰めていくことは哲学の大切な作業となる。そして、この違い程度を深淵と思うか、浅近と感ずるか、自分自身に問うことがまた哲学だとも思うし、ここに生きることへの態度表明が含まれる気もするのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。