【深川②】深川平野町
2018.04.16 15:23
町名:深川平野町
読み方:ふかがわひらのちょう Fukagawa-Hiranochō
区分:町丁
起立:1701(元禄14)年
廃止:1869(明治2)年
冠称:「深川」
後身:深川亀住町
現町名:江東区深川一丁目
概要:築地町24ヶ町の1つ。神田久右衛門町の材木問屋の木置場であった。幕府により埋め立てられ、1701(元禄14)年に一部が御細工所御馬具師等の拝領町屋敷、永代橋番人の拝借地となり、その残りは1702(元禄15)年までに日本橋檜物町大黒屋忠兵衛、深川八幡前房州屋諸治兵衛等、4人に払い下げられ、町屋が建てられた。町名は当町等24ヶ町の名主平野甚四郎の姓に因む。1713(正徳3)年、町奉行支配となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数85軒(町方書上)。
東には浄土宗大音山響流院正覚寺、臨済宗三聖山専念寺、曹洞宗海照山増林寺、黄檗宗永寿山海福寺、浄土宗双宗山養源院心行寺、同幽遠山玄信寺、新義真言宗賢台山法乗院等の寺院が並んでいたので当町を「(深川)七軒寺町」と俗称した。また、法乗院内に閻魔堂があるので、油堀に架かる富岡橋を「閻魔堂橋」と俗称した(備考)。閻魔堂橋は河竹黙阿弥の『梅雨小袖昔八丈』の舞台ともなった。『本所深川繪圖』では1ヶ所だが、『大江戸今昔めぐり』では深川万年町三丁目を挟んで2ヶ所存在する。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、深川亀住町に編入となり消滅。現行の深川一丁目。
撮影場所:深川平野町