【深川②】深川海辺大工町
町名:深川海辺大工町
読み方:ふかがわうみべだいくまち Fukagawa-Umibe-Daikumachi
区分:町丁
起立:江戸期(江東区は後の深川大住町を1760(宝暦10)年と、後の深川西大工町・深川仲大工町を元禄年間(1688~1704年)としている)
廃止:1869(明治2)年
冠称:「深川」
現町名:江東区清澄一~三丁目、白河一丁目
概要:葛飾郡西葛西領のうち。海辺新田に起立した町。町名は舟大工が多く居住したことによる。開発以来、御舟手方役屋敷、諸大名の下屋敷、寺院が置かれ、境界が複雑になり、『備考』には万年橋続俚俗上町分・同所東続俚俗仲町分・高橋通西側の分・仲町分下組の4つに分けて記されている。上町分は1699(元禄12)年に町人9人により起立された町で、玉穂稲荷があった(備考)。仲町分は1691(元禄4)年に家作が許された所で、「河岸」と俗称する所があった。高橋通西側の分は1688(元禄元)年に11人の町人が買い受け、1695(元禄8)年に家作が許され、「高橋組西側」とも俗称された。仲町分下組は1696(元禄9)年に次郎右衛門ら町人5人が岡部左近から譲り受けた地で、表通りでは干鰯が売られ、裏通りは町屋となった。「高橋組東側」と俗称されるほか、銚子から送られてきた干鰯を売るので「干鰯場」、「銚子場」と俗称した。4つの町屋はいずれも町奉行・代官の両支配を受けた。化政期(1804~1830年)の家数は4ヶ所の合計で737軒(町方書上)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、上町分・仲町分は「深川西海辺大工町一丁目」と改称し消滅、高橋通西側の分は「深川西海辺大工町二丁目」と改称し消滅、仲町分下組は「深川東海辺大工町」と改称し消滅。現行の清澄一~三丁目、白河一丁目の小名木川沿い。
撮影場所:深川海辺大工町