Okinawa 沖縄 #2 Day 233 (04/01/23) 旧首里北平等 (1) Tera Area 首里汀良町
旧首里北平等 (ニシヌフィラ) 首里汀良町 (てらちょう、汀志良次 [ティシラジ])
- 汀良町自治ふれあい館
- こむど森嶽 (くもで森、クンディムイヌタキ)
- シーシケェーラセー (獅子舞)
- 新井戸 (ミーガー)
- あすい森嶽 (朝飯杜 アシームイヌタキ)
- クンディムイ橋
- 首里市立郷土博物館跡
- 汀志良次村学校所 (初筮斉 ショゼイサイ) 跡
- 汀志良次馬地 (ティシラジマージ)・御屋敷街跡
- 積廻す (チンマーサー) 跡
- 前聞得大君御殿 (メーヌチィフジンウドゥン) 跡
- 後ヌ道
- 白金御嶽 (シラカニウタキ) 跡
- 儀保殿内 (ジーブドゥンチ) 跡
- 御桟敷 (ウサンシチ) 跡 (1)
- 首里市役所跡
- 御桟敷 (ウサンシチ) 跡 (2)
- 崖処嶽 (アムトゥダキ) 跡
- 首里食糧配給所跡、坂の頂 (フィランチジ)
- 聞得大君御殿 (チフィジンウドゥン) 跡
- 沖縄師範学校・寄宿舎 (虎頭寮) 跡
- 椀胴井戸 (ワンドゥガー)
- ゆいレール 首里駅
- 志良次市場 (ティシラジマチ) 跡
- 無線前道 (ムセンヌメーミチ)
- 儀間ヌ井戸小、汀良町八班シーサー
- 国頭山跡 (グンジャンヤマ)
- 浦添殿内墓
今日からは、琉球王統時代の北平等 (ニシヌフィラ) と呼ばれていた地域の史跡巡りを始める。琉球王国時代の首里は、三平等 (ミフィラ) とよばれる三つの行政区画に分けられていた。北平等の「北」は沖縄方言では「ニシ」と読む。このため、北平等は西平等と書かれる事も多い。北平等には汀志良次村 (ティシラジムラ)、赤平村 (アカヒラムラ)、上儀保村 (ウイジブムラ)、下儀保村 (シムジブムラ)、久場川村 (クバガームラ) の五つの村があり、今日は汀志良次村 (ティシラジムラ)、現在の首里汀良町 (てらちょう) を訪れる。
旧首里北平等 (ニシヌフィラ) 首里汀良町 (てらちょう、汀志良次 [ティシラジ])
明治時代からの民家の分布の変遷を見ると明治時代は現在の2丁目と三丁目の西側に民家が集中している。戦後は米軍により現在の県道82号線の道路が拡張され、また比較的早い時期に帰還許可が降り、首里役所や市場などがあったことで、この道路両側に民家が戻ってきている。本土復帰以降、首里汀良町東側にある三丁目には県道29号 (那覇北中城線) が通り、その北側には汀良市営住宅ができたこともあり、三丁目に民家が増えている。
首里汀良町の明治時代の人口は1,253人で首里の19の町の中で真ん中に位置する。この地域も沖縄戦で犠牲者が出て人口は激減したが、戦後数年で元の人口レベルまでに戻っている。1968年までは人口は増加が続いていたが、それ以降は減少に転じ、その減少は止まらなかった。1986年に汀良市営住宅 (144戸) が建設されて、人口は一気に前年度から30%も増加し、数年は増加傾向にあったがそれ以降は再度減少に転じ、現在でもその傾向が続いている。
2020年末の首里区内での人口は以下の通りで、首里汀良町は、首里区全体の3.4%を占め、ほぼ真ん中に位置する。
首里汀良町訪問ログ
汀良町自治ふれあい館
まずは、汀良町の史跡が集中しているこむど森公園に向かう。小さな公園だ。
ここには町民の協力などで2005年 (平成17年) に建設された汀良町公民館があり、汀良町自治ふれあい館となっている。屋根には村を守る大シーサーの時計台が置かれている。
こむど森嶽 (くもで森、クンディムイヌタキ)
ここは、御願毛 (ウグヮンモー) と呼ばれ、汀志良次村の発祥の地と言われている。琉球国由来記に記載のあるにクムデ森ノ御イベを祀るクムデ森の御嶽がここになる。クムデ森とは「ヤンディ、 クンディ」(やぶれかぶれ、崩れる) している森 (ムイ) の意味で、それが 「こんど森」、更に「こむど森」 に訛ったと考えられている。かつて、御嶽は北向きに石積みのアーチ門があり、香炉が置かれていましたが、現在は石灰岩の根元に香炉が置かれている。
公民館から降る道沿いにも拝所がある。土神と書かれている様に思えるが、定かではない。
シーシケェーラセー (獅子舞)
汀良町では、沖縄県下100以上の獅子舞の中で、最も古く600年程の歴史と伝統のあるシーシケェーラセー (獅子舞) が現在でも催されており、汀良は獅子舞の発祥の地とも言われ、那覇市の無形民俗文化財に指定されている。毎年旧暦8 月15日前後に十五夜の祭で、五穀豊穣と悪疫払いを祈願して公民館前の広場で行われている。
新井戸 (ミーガー)
こむど森の南斜面下の石敷き道を降りると川沿いにあすい森嶽 (アシームイヌタキ) があり、そこには大きな新井戸 (ミーガー) がある。この新井戸 (ミーガー) の創設年代は不明だが、名前から比較的新しい井戸のようだ。近くに天王寺などの重要建物があったので、防火用水として王府がの費用で掘ったと伝わっている。急斜面の下側をL字型に削り、 相方積みで堅固に石積みしてあり、防火用水ということもあり、井戸の口径は4m、深さ15mもある大きな井戸で10人が一度に水を汲み出せる様になっている。 汀志良次村では村井戸 (ムラガー) でもあり、旧正月の若水 (ウビー)を汲んだり、飲料水として使われ、戦前には豆腐水 (トーフミジ) として適した良質の水だった。井戸前の石積みは、戦後、安全のために積まれたそうだ。現在でも水量は以前のままだそうだ。
あすい森嶽 (朝飯杜 アシームイヌタキ)
往昔、伊覇村に一匹の駿馬あり。川を渡り山を越えること平地を行くが如し。 伊覇より首里へは路程遠し。 只此駿馬、朝飯を用意する間に、能く往還する。故にして早飯奔馬 (アシィーハヤウマ) という。(中略) 或日按司、首里王城へ来朝し、馬を回して帰路に向う。 川辺をすぎ、 馬忽にして死す。 都合よく神が現れて告げて曰く。此れ希世の駿馬なり。此処に埋めるが宜い、移し更えるべからず。按司 (中略) 神のいいつけに従い、これを埋める。 其の骨や鞭、皆化して石となる。後に其地の名を早飯森 (アシイームイ) と云う。
前述のシーシケェーラセー (獅子舞) は元々はこのアスイ森で奉納されていた様だ。
クンディムイ橋
この橋の一帯には、昔から幽霊にまつわる話が伝わっている。沖縄戦の時、橋の下方に幾つかの横穴の避難壕が掘られ、そこへ避難した多くの人たちが梅雨の増水で濁流にのみこまれ行方不明になったという。沖縄には沖縄戦にまつわる心霊スポットが多くある。これら心霊スポットは訪れているが、自分には霊感が無いのだろうか、何も感じない。
首里市立郷土博物館跡
汀良町自治ふれあい館の南東側にすぐの所には、戦後、1946年 (昭和21年) に首里市立郷土博物館が建てられていた。1953年 (昭和28年) に龍潭東側の現在の県立芸大の場所に琉球政府立首里博物館として移転し、更に1966年に中城御殿跡に移っている。 1972年の沖縄本土復帰の際に県立博物館となり、その後、2007年には、おもろまちに移転して県立博物館美術館 (おきミュー) として継承されている。
汀志良次村学校所 (初筮斉 ショゼイサイ) 跡
公民館からユイレールが走る県道82号線 (那覇糸満線) にでた所は汀志良次村学校所跡になる。1798年 (尚温4年) に首里に国学が設けられ、続いて平等学校所が創設された。その後、1835年 (尚育1年) には首里三平等始め各地に村学校所が設けられた。汀志良次には村学校として初筮斉 (ショゼイサイ=正しい事を初めて教える) が創設されている。
汀志良次馬地 (ティシラジマージ)・御屋敷街跡
積廻す (チンマーサー) 跡
集落巡りをすると、多くの集落でチンマーサ跡があるが、集落にあるチンマーサは里程標ではなく、やはり円形に石を積みその中心に木が植えられ、集落の人達が木陰で休憩の為に集まる場所だった。
前聞得大君御殿 (メーヌチィフジンウドゥン) 跡
チンマーサと大路を挟んだ東側には、かつては、前聞得大君御殿 (メーヌチィフジンウドゥン) が置かれていた。後ヌ道 (クシヌミチー) から虎頭山麓までが前聞得大君御殿の屋敷だった。この屋敷は1609年 (尚寧21年) に薩摩軍が琉球侵略の際に灰塵に帰したと記録にある。その後、再建された様だが、1744年 (尚敬32年) に全焼し、聞得大君は大中村に移り、翌年、御殿が地汀志良次村に再建されて戻ってきている。屋敷跡はマンションなどの住宅街になっている。
マンションの一画に拝所なのか水場を模したのか、モニュメントがあった。
またその近くの民家にも井戸跡がある。
その近くにも香炉が置かれた井戸拝所があったが詳細は見つからず。
後ヌ道 (クシヌミチ)
前聞得大君御殿の南東部は里道の後ヌ道 (クシヌミチ) が通っている。表の通りに平行して虎岩山に北進して久場川御殿 (同楽園) に通じていた。があった。現在でも小径のままで、少し面影を残している。
白金御嶽 (シラカニウタキ)
その後ヌ道を越えた所は白金御嶽があった場所だそうだが、御嶽らしきものは残っていない。琉球国由来記には西之平等の項に、白金ダケノ御イベとして記載されている。現在ではその痕跡すらない。
儀保殿内 (ジーブドゥンチ) 跡
白金御嶽跡から大路を進むとその端にはかつて儀保殿内 (ジーブドゥンチ) の屋敷が置かれていた。儀保殿内は首里三平等の一つの西の平等を管轄する儀保の大阿母志良礼 (ジーブヌオオアムシレ) の屋敷だった。三平等とは、尚真王代 (1477年~1526年) に全琉球の間切を三平等に分割し、聞得大君の配下に儀保、首里、真壁の三人の大阿母志良礼を任命し各間切のノロの管理を行っていた。三人の大阿母志良礼には微妙な地位の差異があり、儀保の大阿母志良礼はその中では三番目の席次だったと思われる。ここには、 儀保大阿母志良礼が住んでいた。儀保の大阿母志良礼は西之平等の西森、金森、白カネ御嶽、クムテ社、アスイ杜、アムト嶽を管掌し、泊の大阿母の後見役を務め、西原、浦添、宜野湾、中城、越来、美里、具志川、勝連、与那城、羽地、本部、今帰仁、座間味、渡嘉敷と粟国島、渡名喜島の16ヶ間切の祝女 (ノロ) を管理していた。現在はマンションなど住宅街となっている。
御桟敷 (ウサンシチ) 跡 (1)
儀保殿内 (ジーブドゥンチ) 跡から大路を少し進んだ所が、旧暦六月に行われた綱引きを国王が観覧した御桟敷が設けられていたという説がある。また、この御桟敷では聞得大君の誕生日には組踊が演じられ、聞得大君は東隣の御殿の物見台で観覧したという。現在、御桟敷は削られ、跡地は店舗と住宅になっている。御桟敷 (ウサンシチ) 跡の場所については、別の説もあり、そこにはこの後に訪れる。
首里市役所跡
沖縄戦で汀良町は廃墟になり、戦後は立ち入り禁止となっていたが、1945年 (昭和20年) 12月に、知念村方面に収容された首里人約40人が首里復興先発隊として首里に帰り、首里中学校周辺のテント小屋を建て、そこを拠点として、復興作業を行っていた。御桟敷 (ウサンシチ) 跡 (1) の裏の駐車場となっている場所にはコンセット建物の首里市役所が建てられた。
御桟敷 (ウサンシチ) 跡 (2)
先程訪れた御桟敷 (ウサンシチ) 跡に対して別の場所を跡とする説があり、それが首里中校運動場の西側、久場川町への道を隔った屋敷の北西の小高くなった所という。御桟敷 (ウサンシチ) は、おもろ語で「高い所から見下す」 という意味あいがあり、岩の上で聞得大君御殿の神女達が中国への進貢船、接貢船、薩摩への上納船の航路の無事を祈り早晩の帰船を招き寄せる意を込めてティサージ (手巾) を振り見送った場所と解釈されている。確かにここは先程訪れた跡地候補よりは小高い場所だが、ここから那覇港は遠く、船を見送ったとは考えにくい。
崖処嶽 (アムトゥダキ) 跡
二番目に訪れた御桟敷に隣接した崖下には儀保大阿母志良礼の管轄していた崖処嶽 (アムトゥダキ) があった。琉球国由来記にはアモトダケノ御イベと記載されている。アムトゥとは崖を指す「ア ボ」と場所の「ト」で崖の所 (アボト) から変化したと考えられている。香炉など拝所と分かるものは無く、現在周辺は住宅地になっている。
首里食糧配給所跡、坂の頂 (フィランチジ)
戦後、沖縄は米国の軍政府の統治下に置かれていた。汀志良次馬地沿いには、帰還し住み始めた首里住民に軍政府による配給制度のもとに外米が配給されていた。仕事もない人も多く、配給はありがたく、住民はこれで空腹を満たしていた。配給日になるとここには首里市内の各町民が集まり、長い列に並び配給を受けていた。汀志良次馬地の大路はチンマーサから登り坂になっており、首里中学校正門前辺りが頂点になり、沖縄戦までは、坂の頂 (フィランチジ) と称する場所があった。今は道路下にかくされて、見るかげもない新橋 (ミーバシ) を赤田、崎山側から渡り、石畳の急な坂 (フィラ) を上りつめた所だった。石畳の坂の頂 (フィランチジ) も、沖縄戦後、米軍占領軍の戦略道路として開削され消滅してしまった。
聞得大君御殿 (チフィジンウドゥン) 跡
歴代の聞得大君は、国王の姉妹や王女、王妃などの王族が就任し、国家泰平、 国王の長寿、五穀豊穣、航海安全などを祈願していたが、1681年 (尚貞9年) 以後は王妃を以て任ずることに改められた。御殿は1730年 (雍正8年) に、この地に建てられ、当時は読谷山御殿と呼ばれていた。この地には、このほかに今帰仁、仲里御殿、三司官家の伊舎堂殿内、三殿内の一つである儀保殿内などが集中していた。
聞得大君御殿の創建の年はこれまでのところ判然としない様で、「首里の地名」の聞得大君御殿に関する記載も曖昧で矛盾がある。聞得大君御殿の変遷は大体次の様になる。
- 後ヌ道 (クシヌミチー) から虎頭山麓までが前聞得大君御殿の屋敷だった。
- 1609年 (尚寧21年) に薩摩軍が琉球侵略の際に灰塵に帰す。その後、再建されたと思われる。
- 1703年、当時読谷山王子を称した第二尚氏12代王尚益の生母奥間按司加那志 (尚純妃 義雲) が七世聞得大君を拝任した際に、この地に聞得大君御殿が建設され虎頭山麓の前聞得大君御殿から移ったと推測される。
- 1706年 (尚貞38年) 大中村へ新しい殿舎を創建して移る。世子殿の一隅を仮御殿にしていたものと推測される。(その後、大中村からこの地に戻った様だ。)
- 1744年 (尚敬32年) に全焼し、聞得大君は再度、大中村に移る。
- 1745年 (尚敬33年) 御殿が地汀志良次村に再建されて戻ってきている。
- 1884年 (明治17年) 御殿は琉球王府消滅後も神女たちに格護され、尚家の私有となって存続。
- 1890年 (明治23年) に伊江氏に嫁した尚泰王次女 真鍋樽 (安子) の安室御殿を離別させ17世聞得大君に叙任
- 1904年 (明治37年) ~ 1924年 (大正13年) の間に聞得大君御殿は解体され、神体は、大中町の尚氏邸の奥に遷座したと考えられる。
- 明治時代末頃に、聞得大君御殿は売却される。
- 最後の琉球王の尚泰王の世子尚典の長女の延子思戸金翁主が最後の18代聞得大君で、第二次世界大戦後に聞得大君が廃職となるまで続いていた。
- その後、聞得大君御殿跡地は、沖縄県師範学校の演習農場となる。
- 1931年 沖縄県師範学校第二寄宿舎 (虎頭寮) が建設された。
- 戦後は現在の首里中学校になっている。
沖縄師範学校・寄宿舎 (虎頭寮) 跡
首里中学校の校舎近くには沖縄師範学校第一寄宿舎があり、その後、第2宿舎が運動場となっている場所に建てられていた。当時、師範学校は全寮制で2階建ての14部屋があり、各部屋に10人位、全部で50人から60人程の生徒が寄宿していた。
椀胴井戸 (ワンドゥガー)
首里中学校校門の隣にあった琉球政府副主席を務めた知念朝功宅跡地は小さな公園となっており、その中に椀胴井戸 (ワンドゥガー) と呼ばれる井戸跡が保存されている。琉球国由来記 (1713年) には、琉球では天孫氏の時代に初めて井戸が造られたとある。天孫氏の実在は疑わしく伝説とされているので、この記述はあまりあてにならない。この井戸の造りが、石を突き出して積み上げ、口の方へ行く につれ狭くなり、ちょうどお椀を伏せたように広がっているので、椀胴 (ワンドゥ) といわれている。
ゆいレール 首里駅
汀志良次馬地の大路 (現在の県道82号 那覇糸満線) を通っているゆいレールは鳥堀交差点で県道29号 (那覇北中城線) に向い、そこに首里駅がある。ここは首里城にも近く、首里の中心地になる。
志良次市場小 (ティシラジマチグヮー) 跡
首里駅から県道29号 (那覇北中城線) を東に進むと汀良交差点になる。鳥堀交差点付近、現在はモノレール敷設用地になっているが、戦前は狭い泥んこ道だった。この道の両側に明治末頃から、西原間切の幸地や棚原などから、甘藷や野菜が持ちこまれて、自然発生的に朝市ができ、昭和初期にこの汀良交差点付近に移り道沿いに商店も出来ていた。戦後、首里における商業活動の発祥の地だった。その後、道路が拡張され、スー パー進出で朝市は衰退してしまった。
また、この辺りには馬浴し小川があったとなっていた。
無線前道 (ムセンヌメーミチ)
県道29号 (那覇北中城線) 現在の3丁目東端に移動する。1896年 (明治29年) に那覇と首里に通信所を開設し公衆通信の開始された。その通信所はこの辺りにあったと考えられる。その後、首里通信所は受信業務のみとなり、1936年 (昭和11年) までには首里受信所の名称となり、ニ本の鉄塔が建てられ、職員官舎も幾つか付設された。この受信所は沖縄戦では米軍の標的となり消滅し、戦後はこの地の東北方の道向いに受信施設が置かれていた。現在は人の往来も多く賑わっている。無線電信局があった事で、県道29号のこの範囲は無線前道 (ムセンヌメーミチ)、この一帯は無線の目方 (ムセンヌメェー) と呼ばれていた。
儀間ヌ井戸小、汀良町八班シーサー
県道29号 (那覇北中城線) の北側には並行して後ヌ道 (3丁目) が通っている。
その道沿いには儀間ヌ井戸小という井戸があり、その蓋の上にシーサーが置かれている。300年程前に、村の若者が次々に亡くなった。 (いわゆるワカムンドーリ=若者倒れ)。
弁ヶ嶽近くの坊主墓のせいと分かり、悪霊返しのためにシーサーを作った。それからは若者倒れもなくなったという。デング熱が流行した際も病人が少なかったのもシーサーのおかげと信じられている。
国頭山跡 (グンジャンヤマ)
汀良市営住宅の所から首里高校の野球場にかけては国頭山跡 (グンジャンヤマ) と呼ばれていた。明治時代の地図を見ると小山だった事がわかるが、現在ではその面影は消え失せて平らになって集合住宅街となっている。この場所は第二尚氏時代には伊是名島を追われて国頭の宜名真に逃れてきた北 (ニシ) の松金、後の尚円王となる金丸が宜名真でも村人に疎んぜられ、迫害されようとした際、彼を助けて逃がした奥間鍛冶屋 (カンジャー) の二男正胤を鼻祖とする馬氏国頭御殿の持ち山だった。この馬氏国頭御殿に因んで国頭山と呼ばれていた。
浦添殿内墓
国頭山跡 (グンジャンヤマ) の西の端あたりに亀甲墓の古墓がある。浦添殿内の墓という。
これで首里汀良町巡りは終了。今日もそう移動距離は約15kmと前回の赤田町訪問とほぼ同じだった。これぐらいの距離だと、史跡を見ながらなのでそれほど脚には負担はかからない。帰りは下り坂なので、一日中歩いているが疲れはない。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
- 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
- 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
- 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
- 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
- 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)