【深川②】深川猟師町
町名:深川猟師町
読み方:ふかがわりょうしまち Fukagawa-Ryōshimachi
区分:総称
起立:江戸期
廃止:不明
冠称:なし
後身:深川佐賀町一・二丁目、深川黒江町、深川相川町、深川熊井町、深川諸町、深川清住町、深川富吉町
現町名:江東区佐賀一・二丁目、永代一・二丁目、福住一丁目、門前仲町一丁目、清澄一・二丁目
概要:「深川漁師町」とも書き、単に「猟師町」、「漁師町」とも称した。隅田川東岸、永代橋近くの8ヶ町の総称。葛飾郡西葛西領のうち。1629(寛永6)年、熊川理左衛門等、8人を代表とする漁師が幕府に願い出て、深川海手潮除堤外の干潟を埋め立てて、居住8人の名前をもって次郎兵衛町、藤左衛門町、助右衛門町、新兵衛町(親兵衛町)、理左衛門町(利左衛門町)、彦左衛門町、弥兵衛町、助十郎町とし、8ヶ町の総称を「猟師町」とした(江東区教育委員会によると深川大島町を足して9ヶ町)。
1630(寛永7)年から漁師等は幕府へ菜魚を献上。明暦の大火後、本所・深川地区の拡大に伴い、1670(寛文10)年、検地を実施。1695(元禄8)年、次郎兵衛町と藤左衛門町を合併、地形が肥前国佐賀湊に似ていたので深川佐賀町一・二丁目とし、他の6町をそれぞれ深川黒江町、深川相川町、深川熊井町、深川諸町、深川清住町、深川富吉町と改称、さらに深川大島町を加えた(備考・新編武蔵)。猟師町内各町は町奉行の支配を受ける一方、年貢は幕府代官に納めた。『元禄郷帳』の総石高は134石余、『天保郷帳』では142石余、『旧高旧領』では145石余。明治初期、深川猟師町の名称は消滅し、町奉行支配の各町は次第に深川佐賀町一・二丁目、深川黒江町、深川相川町、深川熊井町、深川諸町、深川清住町、深川富吉町となる。やがて俗称「深川猟師町」はその他の町も含まれるようになり、昭和の中頃まで漁業や海苔の養殖を続けていた。
撮影場所:深川猟師町(深川富吉町)