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琉球

2023.01.08 05:25

https://yutopiakenkyu.hatenablog.com/entry/2016/06/07/052132 【33. 万国の架け橋を目指した琉球王国 多国文化共生の地】より

 紺碧の海、抜けるような青空。サンゴ礁に抱かれた美(ちゅ)ら海の島・沖縄には、かつてアジアの海を席巻した大貿易国家「琉球王国」が存在した。

 世界遺産「琉球王国のグスク関連遺産」は、その四百年の栄華を伝える遺産である。

 地を這う龍のようにうねる石垣に囲まれた王府・首里城。太古の森の中の聖地・斎場御嶽(せーふぁうたき)で営まれる海の彼方の理想郷「ニライカナイ」への祈り。中国、日本という大国の間に埋没することなく琉球王国は独自の世界観を作り上げてきた。

 沖縄には現在「グスク」と呼ばれる石づくり建築が、200以上残っている。その巧妙で美しい石積みは、規模、そして技法において、同時代の日本本土のそれを遙かに上回る。なぜ人口も少ない小さな島で、このような優れた技術が発達したのか?そして巨石に囲まれた聖地で伝えられてきた、現代にもつながる独自の自然信仰はどのようにして生まれたのか? 琉球王国には、この世離れしたすばらしい文化と社会が築かれていたのである。

 琉球王国とは、今から約570年前(1429)に成立し、約120年前(1879)までの間、約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した王制の国のことである。

北は奄美諸島から南は八重山列島までの琉球諸島には、約3万2千年前から人類が住んでいたことがわかっている。琉球諸島には、先史時代を経て、日本の鎌倉時代に当たる12世紀頃から一定の政治的勢力が現れはじめた。各地に「按司(あじ)」とよばれる豪族が現れ、彼らが互いに抗争と和解を繰り返しながら次第に整理・淘汰され、やがて1429年尚巴志(しょうはし)が主要な按司を統括し、はじめて統一権力を確立した。これが尚(しょう)家を頂点とする琉球王国の始まりであった。

その後、琉球では独自の国家的な一体化が進み、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して海洋王国へと発展してきた。首里城はその海洋王国の政治・経済・文化の中心であった。

琉球王国の歴史の中では、一度だけ大きな政権交代があった。統一王朝が成立してから約40年後の1469年、伊是名島(いぜなじま)の農夫出身の金丸(かなまる)がクーデターにより政権を奪取し新王朝を開いた。しかし、金丸は前例に従い、また中国皇帝との関係にも配慮して尚王家を継承し、尚円王(しょうえんおう)と名乗った。このため、琉球王国の歴史では、この政権交代以前の王朝を「第一尚氏王統」、それ以後を「第二尚氏王統」と呼んでいる。

さて、この第二尚氏王統は、初代国王尚円(しょうえん)から数えて19代目の国王の尚泰(しょうたい)時代まで(約400年)続いた。その間、1609年に日本の薩摩藩が3000名の軍勢をもって琉球に侵攻し首里城を占拠した。それ以後270年間にわたり琉球王国の表向きは中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続していた。しかし、やがて日本の明治維新により成立した日本政府は、1879年(明治12)軍隊を派遣し首里城から国王尚泰(しょうたい)を追放し沖縄県の設置を宣言した。ここにおいて、琉球王国は滅亡した。

 歴史

 12世紀に農耕社会が始まり、グスク文化、三山時代をへて15世紀には琉球王国が成立する。琉球王国は明への朝貢、東南アジア・東アジア・スペインとの交易で栄えた。1609年に、薩摩藩に侵攻され属国となった。琉球王国は、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後も、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、王国廃止まで薩摩藩と清の両属という体制となりながらも、独自の国と文化を維持した。また、琉球が支配していた奄美諸島は、割譲され薩摩藩直轄地となった。

 1872年に、琉球王国は琉球藩(琉球処分)になり、1879年琉球藩が廃止され鹿児島県へ編入、同年中に沖縄県が分離成立した。その後、様々な施策が行われたが、相変らず経済基盤が脆弱であったため、日本本土・ハワイ・中南米へ移住・移民する者が多く、戦後も続いた。

 第二次世界大戦終了後、沖縄県は奄美諸島とともにアメリカ軍による支配のもと日本から切り離され、紆余曲折を経て、1952年に琉球政府が発足した。国際法上琉球人(Ryukyuan)として、日本人ともアメリカ人からも区別され、パスポートも琉球政府発行のものが交付された。奄美出身者は、始め琉球人とされたが、1953年に奄美諸島は日本に復帰し、沖縄に出稼ぎにきていた奄美出身者は「日本人」に戻った。沖縄で仕事を続けるためには居住許可が必要となり、公職追放(当時の琉球銀行総裁、等)などで政治的権利は剥奪され、土地所有権が認められないなど、沖縄に住む奄美出身者は様々な制限を受けることになり、これは沖縄の日本復帰まで続いた。

 

 1972年5月15日、沖縄が本土復帰し沖縄県が復活する。沖縄出身者は日本国民としての地位が復活し、日本人に戻った。

 琉球の神話、伝説

 ニライカナイ(もしくはニライ)とは、沖縄、南西諸島各地にある伝承です。地域や島によって内容は様々ですが、多くは遠い海の向こうに存在し、神々が住むとされる楽土をいいます。人はニライカナイから生まれてき、死ねばニライカナイへ帰ると考えられてきました。ニライカナイの神々は、海を渡り琉球を訪れ、その年の豊作や幸福を人々に運ぶとされます。

 これはいわゆる「異界・異人信仰」に類した伝承とも考えられています。

 四方を海に囲まれた琉球民族は、浜辺に打ち寄せる色々の物や、海を渡って訪れる異国の人間との関わりから、ニライカナイを信じるようになったのではないかと考える説もあります。


https://oki-park.jp/sp/shurijo/about/186 【約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した王制の国】より

琉球王国とは、今から約570年前(1429)に成立し、約120年前(1879)までの間、約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した王制の国のことである。

北は奄美諸島から南は八重山列島までの琉球諸島には、約3万2千年前から人類が住んでいたことがわかっている。琉球諸島には、先史時代を経て、日本の鎌倉時代に当たる12世紀頃から一定の政治的勢力が現れはじめた。各地に「按司(あじ)」とよばれる豪族が現れ、彼らが互いに抗争と和解を繰り返しながら次第に整理・淘汰された。やがて、1429年尚巴志(しょうはし)が主要な按司を統括し、はじめて統一権力を確立した。これが尚家(しょうけ)を頂点とする琉球王国の始まりである。

その後、琉球では独自の国家的な一体化が進み、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して海洋王国へと発展してきた。首里城はその海洋王国の政治・経済・文化の中心であった。

琉球王国の歴史の中では、一度だけ大きな政権交代があった。統一王朝が成立してから約40年後の1469年、伊是名島(いぜなじま)の農夫出身の金丸(かなまる)がクーデターにより政権を奪取し新王朝を開いたのである。金丸は前例に従い、また中国皇帝との関係にも配慮して尚王家を継承し、尚円王(しょうえんおう)と名乗った。このため、琉球王国の歴史では、この政権交代以前の王朝を「第一尚氏王統」、それ以後を「第二尚氏王統」と呼んでいる。

この第二尚氏王統は、初代国王尚円(しょうえん)から数えて19代目の国王の尚泰(しょうたい)時代まで(約400年)続いた。その間、1609年に日本の薩摩藩が3000名の軍勢をもって琉球に侵攻し首里城を占拠した。それ以後270年間にわたり琉球王国の表向きは中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続していた。しかし、やがて日本の明治維新により成立した日本政府は、1879年(明治12)軍隊を派遣し首里城から国王尚泰(しょうたい)を追放し沖縄県の設置を宣言した。ここにおいて、琉球王国は滅亡した。


https://tokotokotorikura.com/%E4%BA%94%E5%B3%B6%E5%AD%90%E7%88%B5%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%84%89%E3%80%90%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E6%AE%BF%E6%A7%98%E3%83%BB%E4%BA%94%E5%B3%B6%EF%BC%88%E7%A6%8F%E6%B1%9F%EF%BC%89%E8%97%A9/ 【五島子爵家の終焉【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㊸】】より

前回まで子爵五島盛光の五島振興にかけた生涯をみてきました。

今回は、これを受け継いだ子爵五島盛輝と五島子爵家の終焉をみてみましょう。

五島盛輝(もりてる・1904~1945)

五島盛輝は明治37年(1904)11月27日に五島盛光の長男として東京麻布我善坊町の麻布邸で生まれました。

父盛光の急逝に伴って、大正12年(1923)7月31日に家督を継承し、弱冠19歳で襲爵します。

学歴等は不詳ですが、父に従って12歳ごろ福江へと移ったあと、昭和3年(1928)ころに東京市赤坂区青山南町4-22に移っているのは、大学進学のためでしょうか。(『人事興信録第8版』)

しかし、すぐに五島の隠殿屋敷に戻っているところをみると、五島が気に入っていたのかもしれません。(『人事興信録第9版』)

全五島学童相撲大会

学歴や業績など知ることはできませんでしたが、日本大相撲協会が編集発行する『相撲』7号に、盛輝の「全五島学童相撲大会」という記事が掲載されています。(「全五島学童相撲大会」五島盛輝『相撲』7号)

記事によると、大会は旧五島藩公五島家の先祖を祀る県社城山神社に奉納するものです。

大正14年(1925)から毎秋10月16日例大祭当日に行われていて、全五島23ヶ町村の国民学校の児童がリーグ戦方式で対戦する催しとありました。

記事には肩書などはありませんが、『人事興信録 第11版改訂版』には趣味が相撲とあるところをみると、盛輝がこの大会を始めたのかもしれません。

また、昭和13年(1928)度には所税を25,000円納めたともあるので、盛輝は地域でも有数の資産家だったとみてよいでしょう。

こうしてみると、盛輝は「殿様」にふさわしい仕事を行っていたものと思われます。

五島盛輝と英子

また、『人事興信録 第13版』をみると、昭和16年(1941)ころ英子を妻に迎えています。

この英子は、男爵尚順の三女として明治45年(1912)3月1日に生まれました。(『旧華族家系大成』)

英子の父・尚順(しょう じゅん・1873~1945)は、最後の琉球王・尚泰の四男です。

尚順男爵(『沖縄県写真帖 第1輯』親泊朝櫂(小沢書店、大正6年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。

【尚順男爵と真子夫人『沖縄県写真帖 第1輯』親泊朝櫂(小沢書店、大正6年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

明治5年(1872)の琉球処分に伴って7歳で上京したのち、明治25年(1892)に沖縄に戻っています。

翌明治26年(1893)には沖縄で最初の新聞社・琉球新報を創設し社長に就任、船会社や農園を経営する沖縄を代表する実業家になったのでした。

また男爵に叙せられ貴族院議員にもなった、戦前の沖縄における保守派・支配層の中心的人物です。(『コンサイス日本人名事典』『旧華族家系大成』)

『人事興信録 第14版』をみると、盛輝の兄弟たちも家を離れていますので、盛輝は隠殿屋敷で琉球のお姫様と仲良く暮らしていたようですから、なんだかおとぎ話のようですね。

突然の悲劇

ところが、この暮らしは突然悲劇的な終わりを迎えます。

昭和20年(1945)8月9日、長崎に投下された原子爆弾は、一瞬にして町を焼き尽くしました。

そこに偶然、長崎へ所用で出かけた盛輝が居合わせたのです。

被爆した盛輝は、何とか五島に戻りましたが、原爆症に苦しみながら9月6日に亡くなってしまいました。

盛輝をみとった英子ですが、父の尚順は沖縄地上戦に巻き込まれて死亡、故郷の農園も戦場となって焼失してしまっていました。

五島子爵家の終焉

五島家の家督は、分家していた盛輝の弟・盛寛が継いだものの、戦後の混乱期に襲爵には至らず、華族制の廃止に伴って五島子爵家は廃絶してしまいます。

そして、父と故郷を失った英子は、そのまま隠殿屋敷を一人で守り続けました。

沖縄の実家は兄弟たちが復興しましたが、帰ることもなく、英子は夫・盛輝との思い出の地にとどまったのです。

長く屋敷を守り続けた英子も亡くなって、現在、隠殿屋敷は「国指定名勝 石田城五島氏庭園」として五島市が管理・公開しています。

【グーグル・ストリートビューは五島氏庭園入り口(撮影者:中村郁夫)】

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など:

「陰陽寮」『延喜式 巻十六』藤原忠平ほか(慶安元年版)宮内庁書陵部蔵

『鯨史稿』大槻準編(江戸時代写本)国立国会図書館蔵

「値嘉郷」『肥前国風土記』明治初期写本、早稲田大学蔵

『華族銘鑑:鼇頭』長谷川竹葉編(青山堂、1875)

『華族部類名鑑』安田虎男(細川広世、1883)

『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887)

『華族名鑑 明治22年版』彦根正三(博行書院、1892)

『華族名鑑 明治23年版』彦根正三(博行書院、1892)

『通俗五島紀要』大久保周蔵(鶴野書店、1896)

「貞観十八年三月九日丁亥条」『国史大系 第4巻 日本三代実録 巻第二十八』経済雑誌社編(経済雑誌社、1897)

『日本戦史 関原役』日本戦史編纂委員撰(参謀本部、1893)

「天平十二年戊子条」「宝亀七年八月条」『国史大系 第2巻 続日本紀(巻十三)』経済雑誌社編(経済雑誌社、1901)

『読売新聞』明治43年(1910)12月9日付朝刊「旧藩と新人物」153信越付佐渡59

『人事興信録初版』(人事興信所、1911)

『人事興信録 3版(明治44年4月刊)く之部−す之部』(人事興信所、1911)

「特殊部落改善と宗教」五島盛光(雑誌『救濟』、大谷派慈善協会本部(京都)、1911)

『維新土佐勤王史』瑞山会 編(富山房、1912)

「細民部落改善事業」五島盛光(雑誌『慈善』、中央慈善協会 編集・出版、1915)

『人事興信録 4版』人事興信所編(人事興信所、1915)

「救濟事業に就て」五島盛光(雑誌『救濟』、大谷派慈善協会本部(京都)、1916)

『伊能忠敬』大谷亮吉(岩波書店、1917)

『華族名簿 大正5年3月31日調』(華族会館、1917)

『人事興信録 6版』人事興信所編(人事興信所、1921)

『読売新聞』大正10年(1921)5月9日付朝刊

『麻布区史』東京市麻布区 編集・発行、1921

『ヅーフと日本』斎藤阿具(廣文館、1922)

『日本戦史 朝鮮役 本記・附記』参謀本部編(偕行社、1923)

『坂本竜馬関係文書』第一/第二(日本史籍協会叢書)、岩崎英重 編(日本史籍教会、1926)

『隽傑坂本竜馬』坂本中岡銅像建設会 編(坂本中岡銅像建設会事務所、1927)

『切支丹の復活』(前・後篇)浦川和三郎(日本カトリック刊行会、1927)

『人事興信録 第8版(昭和3年)』人事興信所編(人事興信所、1928)

『人事興信録 第9版(昭和6年)』人事興信所編(人事興信所、1931)

「文禄の役」「慶長の役」中村栄孝『岩波講座日本歴史』第6巻、国史研究会編(岩波書店、1935)

『維新前史の研究』井野辺茂雄(中文館書店、1935)

「全五島学童相撲大会」五島盛輝『相撲』1(7)号、日本大相撲協会 編集・発行、1936

『日英交通史之研究』武藤長蔵(内外出版印刷、1937)

『人事興信録 第11版改訂版 上』人事興信所編(人事興信所、1939)

『人事興信録 第13版 上』人事興信所編(人事興信所、1941)

「野依秀市の混沌」梅原正紀『ドキュメント日本人9 虚人列伝』谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎 編(學藝書林、1969)

『入唐求法巡礼行記』1(東洋文庫157)円仁、足立喜六訳注・塩入良道補注(平凡社、1970)

「五島藩」森山恒雄『新編 物語藩史』第十一巻、児玉幸多・北島正元監修(新人物往来社、1975)

『日本史 9』ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳(中央公論社、1979)

「海外刊行の日本の古地図」『対外関係と文化交流』(思文閣史学叢書)田中健夫(思文閣出版、1982)

『入唐求法巡礼行記』2(東洋文庫442)円仁、足立喜六訳注・塩入良道補注(平凡社、1985)

『角川日本地名大辞典 42長崎県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1987)

「五島藩」森山恒雄『三百藩家臣人名事典』第七巻、家臣人名事典編纂委員会編(新人物往来社、1989)

『島嶼大事典』日外アソシエーツ編(紀伊國屋書店、1991)

『コンサイス日本人名事典〈改訂版〉』三省堂編集所 編・上田正昭ほか監修(三省堂、1992)

『日本捕鯨史話』教養選書83、福本和夫(法政大学出版局、1960初版、1993改装版)

『平成新修 旧華族家系大成』上巻、霞会館華族家系大成編纂委員会編(吉川弘文館、平成8年)

『朝日新聞』2009年9月23日朝刊(長崎版)

『くじら取りの系譜 概説日本捕鯨史』中園成生(長崎新聞社、2001)

『伊能忠敬測量隊』渡辺一郎(小学館、2003)

『長崎県の歴史散歩 歴史散歩㊷』長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史分科会編(山川出版社、2005)

「福江藩」森山恒雄『近世藩政・藩校大事典』大石学編(吉川弘文館、2006)

『江戸時代全大名家事典』工藤寛正編(東京堂出版、2008)

「福江藩 別称五島藩」森山恒雄『藩史大事典〔新装版〕』第7巻九州編、木村礎・藤野保・村上直編(雄山閣、平成27年)

『海の国の記憶 五島列島(歴史家のたわごと1)』杉山正明(平凡社、2015)

「大陸への玄関口 ―五島列島と周辺の島々」須田牧子『大学的長崎ガイド ―こだわりの歩き方』長崎大学多文化社会学部編(昭和堂、2018)

『日本捕鯨史〔概説〕』中園成生(古小鳥舎、2019)

『SHIMADAS(シマダス)日本の島ガイド 新版』日本離島センター 編集・発行、2019

Webサイト:五島市観光協会、「長崎しま旅行こう」長崎県観光連盟・長崎県文化観光国際部観光振興課、五島市、新上五島町、新上五島町観光伊物産協会、小値嘉町

参考文献:

『文禄慶長の役 正編 第1』(歴史調査報告 第3)池内宏(南満州鉄道、1914)

『大礼記念 長崎県人物伝』長崎教育会 編集・発行、1920

『文禄慶長の役 別編 第1』(東洋文庫論叢 第25)池内宏(東洋文庫、1936)

『中世対外関係史〔東大人文科学研究叢書〕』田中健夫(東京大学出版会、1975)

『倭寇(新装版)』(日本歴史叢書)石原道博(吉川弘文館、1996)

『江戸開府400年記念特別展 伊能忠敬と日本図』展覧会図録、東京国立博物館 編集・発行、2003年

次回からは藩邸を歩く編、まずは六本木上屋敷と五島子爵家鳥居坂邸跡を歩いてみましょう。