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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 232 (01/01/23) 旧首里三個 (3) Akata Area 赤田町

2023.01.02 12:16

首里赤田町



2023年の正月を迎えた。ここ数年は、元旦はどこかに自転車で訪れていた。今年は自転車ではなく歩きで今年初の集落巡りとした。昨年末から自宅から歩ける距離にある集落は徒歩でまわることにしている。集落巡り始めは首里赤田町を訪れる。



首里赤田町

赤田町は、首里台地の南東部に位置し、鳥堀町、崎山町とともに首里三箇 (スイサンカ) と呼ばれている。 

赤田は泡盛製造業が盛んな地域で、大正年間が最盛期だった。 当時は12軒の酒造所が存在していた。 現在では、1918年 (大正7年) に創業した識名酒造だけが営業をつづけている。首里王府時代、この一帯はには地名の由来になった赤土の田が広がっていたといわれる。首里城の城壁付近の田を耕すと、 西流する湧水が濁り、 城内の寒水川の水を汚染したので糸芭蕉畑に変わっていった。この地域は水が豊富な地域で、赤田を巡ると、多くの民家の庭や入り口近くに井戸がある。

首里城に近いこともあり、文化財もは丘陵上の一丁目に多くある。

明治時代から民家の分布変遷を見ると、民家は赤田の北半分、首里城に近い側、一丁目と二丁目に集中している。三丁目の下原は谷合になり、谷底にあった集落が少し拡張している程度になる。

赤田の人口は1880年 (明治13年) には1,583人だったが、2020年末現在では916人で約40%減少している。沖縄戦で人口は激減したが戦後1960年代には明治時代の人口に戻ったのだが、その後、減少が続き、その傾向は現在も継続している。

2020年末の首里区内での人口は以下の通り、首里赤田町は19町の中で下から5番目と人口は少ない地区となっている。


首里赤田町訪問ログ



赤田交番所跡

首里城の上ヌ毛 (ウィーヌモー) への入り口付近、現在の鳥掘一丁目下町バス停辺りに1926年 (大正15年) に設置されて戦前まで存在した首里警察署赤田交番所があった。この場所は、戦前までは、南風原、与那原、西原や中城に向かう交通の要衝の地だった。交番所のコンクリート建物は沖縄戦で戦禍に巻き込まれ弾痕を遺しながらも、戦後、風雨を凌ぐ市民の仮の住居として利用されていたが、その後、戦後道路拡幅のため撤去されている。


赤田の湯風呂屋 (アカタヌユーフルヤー) 跡

首里赤田町1丁目の西来院達磨寺の近くに、戦前から「ゑびす湯」の名称で地域に親しまれていた風呂屋 (ユーフルヤー) があった。平成初期年代までは大衆浴場として多くの人々が利用していた銭湯。家庭風呂の普及で、経営的には極めて厳しく、次々と銭湯が姿を消すなかで、この「えびす湯」は、大衆浴場として頑張っている数少ないユーフルヤーだったが、近年になり廃業となってしまった。


寺小ヌ前 (テラグヮーヌメー)、西来禅院達磨寺 (臥雲軒跡)

赤田の湯風呂屋があった首里赤田町1丁目付近の丘陵地帯には、首里王府時代、臥雲軒、慈雲庵、牟尼庵、松沙庵等の幾つかの隠居寺があったので 寺の前 (テラグヮーヌメー)と呼ばれていた。 その一つの臥雲軒跡地には西来禅院達磨寺が建っている。この達磨峰西来院の境内には、尚寧王の国相 (摂政) となった円覚寺第十八代の住持の隠禅師和尚の墓碑が残っているそうだ。

この達磨峰西来院は、1611年 (尚寧23年) に首里儀保町内に菊隠宗意によって創建されている。この琉球人の菊隠は日本での修行も長く日本語にも長けており、島津軍が琉球に押し寄せて来た際、王府の命によって今帰仁まで和平交渉に送られた人物。交渉は不調に終わり、琉球は薩摩に制圧されてしまうわけなのだが、その後も国王の薩摩連行、江戸上りにも補佐として随行し、薩摩との様々な調整役として活躍しているた。その功績が認められ、国師という摂政と同等の位と、儀保に土地も賜り、そこに西来院を建立している。その後、1873年 (明治6年) に金城村に、更に宜野湾 (現米軍普天間基地内) に遷り、明治中期の1890年代初頭頃、現在地に移って来ている。この地に遷ってからは、近くに鳥堀町に「かたのはなの碑文」があったので、碑文ヌ目方ヌ寺 (ヒムンヌ メェーヌティラ) と呼ばれていた。ここには昨年末に首里崎山町を訪れた際に立ち寄っている。下の写真はその際に撮影したもの。赤田の湯風呂屋の角を曲がると寺院が見えてくる。参道などはなく、道路に面して山門がある。門には阿吽の二体の仁王が置かれている。仁王門の山門を入ると境内になるのだが敷地は非常に狭く、ゴミゴミした感じだ。

また、この西来禅院達磨寺は首里十二干支詣りの戌と亥の守護神の阿弥陀如来を安置し、更に万松院から、移管された卯の文殊菩薩も安置している。

山門を入るとすぐ正面一階に納骨堂の連華堂がある。

蓮華堂の前の庭には安産や幼児の成長を守護する子安観音が建っている。

子安観音の奥には小さな池があり恋が飼われていた。池の上には良縁地蔵と書かれた地蔵尊がある。

庭の反対側には縁切に御利益があると言われる不動明王がある。縁切不動明王と書かれている。

本堂はコンクリート製の二階にある。境内が非常に狭いので本堂の外観は撮せない。本堂の中には達磨だらけだ。本堂天井には龍がえがかれれいる。本堂には本尊の観音菩薩が祀られている。

本堂入り口隅には水子地蔵尊がある。

二階も境内になっており、稲荷大明神へ参道には無数の赤鳥居が並べられている。昔からこの様だったのか、沖縄戦で焼失後、再建された時に造られたものだろうか? 参道の曲がり角にお堂がある。

参道脇には縁結び石が置かれて、二つの大石を縄で繋いでいる。

参道の赤鳥鳥居が続く、鳥居に柱には達磨が描かれている。参道の奥に開運達磨堂があり、菩提達磨が祀られている。まわりには福だるまが幾つも置かれている。

達磨堂の隣に稲荷堂がある。これがこの参道が案内する稲荷大明神を祀っている。

その隣には金運神社の祠がある。祠は金色で塗られ、財宝、福徳開運の大黒天を祀っている。

更にその隣には二尊堂があり、向かって左に阿弥陀如来像、右側には弁財天が祀られている。

元旦の今日のこの達磨寺を訪れた。初詣でかなりの人が訪れ、狭い境内には、本土の有名神社や寺院ほどではないが、混雑している。この日はとても写真を撮影でくる状態ではなかった。


大石川家 (ウフイシチャー) 跡

首里赤田町には察度が南進策として本拠地を浦添城から首里城に移す際に先発隊を率いて最初に首里に入った大石川家の屋敷があった場所になる。継世門 (赤田御門) 近くに大石川家の本家があった。尚巴志が察度王統を倒した際には、大石川は正室を離別し、石川一族の存続を図ったと伝わっている。大石川の正室が察度の家族か親戚で察度王統でも要職にあったと考えられる。その後、第一尚氏時代には、石川一統の出自は、阿麻和利に滅亡させられた、勝連城主茂知付按司の系統と伝わっている。首里開拓以後、大きな影響力をもった大石川の一統は、察度統以後の第一尚氏、第二尚氏治世でも、その財力を駆使して四十職 (シジュウスク) と呼ばれた泡盛酒造業者の重要な一員として存続していた。

大石川家は、弥勒菩薩の祭祀を主宰したことで、弥勒石川 (ミルクイシチャー) とも呼ばれていた。弥勒御迎え (ミルクウンケー) は、300年ほど前に、石川門中の祖である求道長老により赤田首里殿内に弥勒面が祀られ、7月14日にお開き、7月16日石川門中を中心に道ジュネーがあったという。1930年代初頭にこの祭が途絶えるまでは、弥勒菩薩役は、大石川の長男が務める事が通例になっていた。現在でも弥勒御迎え (ミルクウンケー) は続いており、弥勒を先頭に行列 (ミチジュネー) が大石川家から出発して首里殿内 (現赤田クラブ)で儀式を行い、次に赤田市場に設けられた舞台で世果報を招く行事が行われている。 旧暦6月に行われた綱引きは士族が主役の行事だったが、この弥勒御迎えの儀式は庶民を中心としたもので、かつては大石川一族は「ミルクウンケーは、百姓の行うもので、士分 (サムレー) の我々のやることではない」と参加を拒否 したという。


ワーフール (豚小屋兼便所) 跡

赤田町の中に三連式の豚小屋兼便所 (ワーフール) がだいぶん崩れているが、その一部が残っていた。この場所は泡盛酒造所だったそうだ。泡盛の製造工程で出るモロミの絞りかす   (カシジェー) を豚に飼料として与え養豚業も併せて営んでいたそうだ。


赤田寒水川井戸 (アカタスンガーガー)

継世門 (赤田御門) 近く首里城城壁外側を走る道路沿いに赤田寒水川井戸 (アカタスンガーガー) がある。球陽には1838年 (尚育4年) に、「掬水の所を磨石を敷き、石垣を築いて東北の松山より流下する泥水を防いだ」との記載がある。スンガーとは村の発祥に関わる泉の宗水 (ソーズ、聖水とする説もあり) か、または方音で「生ずる水 (ソージーン)」のいずれかが、ソーズノカーからソーズンガーとなり、スンガーに変ったものと考えられている。赤田にあることから赤田寒水川と呼ばれていた。崖下を掘り下げ、内部を石積みで固め、水汲み広場を設けた赤田の共同井戸、村井 (ムラガー) だった。首里王府時代、地方から首里へ来た人たちは、赤田御門 (継世門) に入る前に、この井戸で手足を洗い清め身支度を整えたといわれている。戦前まで井戸の東北に、上の毛に上る小径があって、国中城ノ御イベ  (俗称クンユリウタキ) の脇を通って首里城と円覚寺の間の往還に通じていた。現在は赤田寒水川井戸のすぐ後に首里城に登る階段がある。


首里城継世門 (赤田御門 アカタウジョー)

赤田寒川井の道を少し進むと首里城の継世門 (けいせいもん) に出る。ここは首里当蔵町に属しているが、 赤田御門 (アカタウジョー) とも呼ばれ、崎山と赤田の方向に開いて築造された門で石垣アーチ門の上に木造平屋建入母屋造本瓦葺の櫓門になる。首里城外郭の第三門で、添御門 (スエツギウジョウ) ともいわれている。歓会門が正門で、久慶門が通用門であるのにたいして、この継世門は後門にあたり、普段首里城内で使われる日常生活物資の搬入などに使用されていた。また、国王が薨去した際には、世子がこの門から城内に入り、世誇殿で即位の礼が行われていた。美福門と同様に赤田村に向いていることから、その創建以後は美福門に代わってこの世継門が赤田御門と呼ばれるようになった。 現在の門は1998年3月に復元されたもの。

門の南北に2基の石碑が建立され、北碑は漢文で「添御門北之碑文」、南碑は琉球語かな文で書かれた「すえつぎお門の南のひもん」とある。これによると、第二尚氏第四代の尚清王が、倭寇の侵攻に備え、首里城の東南の美福門の外側に新たに城壁を築く工事を始めて2年余りを費やして二重にし、1544年に継世門を創建したと書かれている。 


撓田森 (シナダームイ)

首里城継世門から赤田寒水川井戸の城壁を経て首里城東のアザナまでの南縁下方一帯を撓田森 (シナダームイ) と呼んでいた。 「撓田の近くにある森」ということが地名の起こりと いわれている。 


撓田 (シナダ)

赤田寒水川井戸の向かいの赤田町1丁目一帯は撓田 (シナダ) と呼ばれていた。この地一帯は、弓なりに撓っている地形で、水田が広がっていた。 この「しなり」が撓田 (シナダ) の語源という説と、この周辺の水田で田植えをすると龍樋の水が赤く濁ったので、与那原の浜や浦添の小湾の浜から大量の砂 (シナ) を荷駄で運んで、水を浄水することにしたので、これまでの赤田を砂田に呼びかえたという説がある。


赤田村学校所跡

1835年に第18代尚育王が、それまでまちまちに設置されていた村学校所を、首里三平等の全ての村と泊、那覇に設置を命じたことにより、この赤田にも学校所が創立され、初学館とも呼ばれていた。(この赤田には学校所が1835年以前からあったかは不明) 赤田の中心地の現在の一丁目に学校所があったとされ、現在は商店が建っている。


識名酒造

赤田村学校所跡の東側の道沿いに、赤田で最も古く1918年 (大正7年) に創業した識名酒造がある。創業当時から造られている看板銘柄の「時雨」は、戦後の沖縄で量り売りが主流だった頃、最初に瓶詰めして名前を付け、ラベルを貼って売り出された泡盛としても知られている。最古といわれる古酒を持っていることでも知られ、戦火を逃れた150年古酒と130年古酒が保管されているそうだ。


首里殿内 (スンドゥンチ) 跡

現在の公民館の赤田町倶楽部の敷地は、琉球王統時代には首里殿内 (スンドゥンチ) が置かれていた。琉球王国時代の高級女官の一人の首里大阿母志良礼 (スンオオアムシラレ) の神殿及び住居跡にあたる。女官御双紙には、1691年 (尚貞23年) に易氏の首里大阿母志良礼が任職されたとあり、首里城正殿 百浦添の大庫裡 (二階)の東南隅にあった「おすゑんみきふちゃ (ウシンミクチャ)」で、国王へ拝謁し首里大阿母志良礼の印可状と、神職の首飾り環を拝領しているとある。首里大阿母志良礼の管掌の祭祀は、首里城内十嶽と園比屋武御嶽を他の二大大阿母志良礼と共に掌り、南風之平等管内にある弁の御嶽、あかす森、国中城御嶽、 崎山御嶽、阿旦川御嶽、仲里二御嶽の祭祀を主掌し、南風原、大里、佐敷、知念、玉城、具志頭、金武、恩納、大宜味、国頭、伊江、伊平屋の12間切の祝女 (ノロ) を所管していた。 三年に一度、旧暦9月に、国王は聞得大君を従え、首里殿内の火ヌ神の前で豊作祈願を行っていた。 

第一尚氏時代に、この地がどのように位置づけられて使用されたかについては不詳であるが、察度王統の時代には察度王の重臣である寿礼結致 (シュリウッチ) に比定されている大石川の屋敷であったと伝わっている。赤田のミルク祭祀は大石川の先祖により主宰されていたことから、地名の首里殿内 (スンドゥンチ) は、寿礼結致 (シュリウッチ) の居館がその起こりであると考えられる。

赤田町では旧暦7月16日に弥勒神が町を練り歩くミルクウンケーの行事が古くから催され、この首里殿内で儀式が行われている。

この辺りは前田 (メェーンター) と呼ばれていた。前田 (メェーンター) は「前の田」を表す方音で、大石川の居館だった寿礼結致の館の前という事が地名の起こりであると考えられる。


道絡り (ミチグヤー)

先日 (12月20日)、首里鳥堀町を訪れた際に水庫裡 (ミジグイ) を見学したが、これがあった三叉路は道絡り (ミチグヤー) と呼ばれている。ミチグヤーとは三叉路のことだが、ここは十字路 (校間 アジマー) になっている。この場所は赤田町、当蔵町、鳥堀町の境界にあたる。この地名の由来には諸説ある。鳥堀町側に水庫裡 (ミジグイ) からきたとする説。一帯が低地で、雨水で道路が冠水したことから水が道を食ったとする説。古語の"寄り集る"ことの凝り (コリ) からクィに、さらにグャーに転訛化した説。からまることを指す古語の“り"転じて“道の屈折した"ことをいう方音のグーイに転化したとか様々だ。


メーチンジャガー

首里赤田町2丁目東側にメーチンジャガーと呼ばれる村の古い共同井戸を言います。 名称の由来は不明。この井戸は、お椀を伏せたように井戸口は狭く、水底が広くなっている椀胴井戸 (ワンドゥガー) 形式の井戸だったそうだ。(ワンドゥガーの説明は首里汀良の椀胴井戸に図入でされている。)


ハルガー

メーチンジャガーの近くにも井戸が残っていた。ハルガーと呼ばれているようだが、この井戸についての詳細は見つからなかった。わざわざ残しているところから、村ではたいせつにされていた井戸に思える。


待口ヌ前 (マツグチヌメー)

後述の赤田市場 (アカタマチ) の近くに首里殿内に伺候する各地のノロが順番を待った御待所現があった場所がある。首里三平等の三殿内の真壁殿内、儀保殿内と同じように、各地方の間切の祝女たちが殿内へ拝殿のために一度に押しかけ混雑するのを避けるために三殿内の近くには御待所が設けられていた。ここはこの辺りは首里殿内の御待所が設けられ、その前は待口ヌ前 (マツグチヌメー) と呼ばれていた。


石平等 (イシンダ)

御待ロから丘陵下の谷間への道がある。この道は現在では県道82号線で分断されてしまったのだが、下原 (シチャーラ) 集落までの石道の坂で石平等 (イシンダ) と呼ばれていた。かつてあった石畳道は、1930年代初期に県道建設の際に消滅している。県道開通後はこの道路から下に伸びる坂は下原坂 (シチャーラフィラ) と呼ばれるようになった。「平」が「坂」と同義語で使われているは初めてだ。石平とは「石の平石」の坂道のことを意味している。首里では、石畳の坂 (フィラ) としては最古のものだそうだ。石畳の坂道の多い古都首里の地で、イシンダの名が付与されたのも石畳のフィラとして最古のものだったからと考えられる。この道は、首里王府時代、開得大君が斎場御嶽で行われる就任式の御新下りに行く時に使われたと道グェナで歌われている。この石平等 (イシンダ 写真左) を歩くと途中、崖の上で道が寸断 (右) されていた。

石平等は県道で寸断され、その下側が下原坂 (シチャーラフィラ) として残っている。


赤田市場 (アカタマチ) 跡

首里鳥堀町の大角座 (ウフカクジャー) の横断歩道橋の路肩一帯は戦前までは、食肉、豆腐、野菜、雑穀などの食料品の相対売りの赤田市場 (アカタマチ) があり、各地のノロや赤田、崎山、鳥小堀村の三箇の住民が売り買いしていた。 この狭い場所にも関わらず、いつ頃から市場が始まったのかは不明だが、王府時代に首里殿内に祗候する各地のノロの控所の御待ロ (ウマチグチ) がこの市場の端にあった事で人が集まっていたからかも知れない。


下原 (シチャーラ)

県道82号線から下側の谷間は赤田三丁目になりう下原 (シチャーラ) と呼ばれていた。その底を流れる安里川が南風原町と首里赤田町との境界となっている。1906年 (明治39年) に、南風原間切新川村から当時は伊武志川原 (インシチャーラ) と呼ばれていた下原が首里に編入されている。明治時代の地図では安里川沿いに集落が見られるが、赤田町中心部からは飛び地になっている。 沖縄方言で「イヌ」にあたるのが「イン」で、小さい、狭いを意味している。伊武志川原 (インシチャーラ) は「狭い下原」で、現在の下原に変化したと考えられている。


下原橋 (シチャーラバシ)

下原 (シチャーラ) 集落と南風原町新川の境界となっている安里川に石造アーチ橋の下原橋 (シチャーラバシ) が架かっている。弁ヶ岳を水源とする安里川には、 四つの石橋が架かっています。 下原橋、ナゲーラ橋比擬川 (ヒジガー) 橋、金城橋で、1677年 (尚貞9年) に金城橋とともに木橋から石橋に架け替えられてる。


これで赤田町巡りは終了。帰宅した時点で15kmを歩いていた。赤田町は首里では自宅に近い場所にあるので、それほどの距離ではなかった。首里はまだまだ先に広がっているので、20-25kmの距離を歩くことになるのだろう。



参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)