6)思想
「思いの世界と謂うのはネ、地獄の世界だヨ」と云ったのはヤマギシ会の創立者「山岸巳代蔵」だが、思いと謂うのは生きとし生ける生き物の中で、人間だけが天から与えられた特権であり、此の思いと謂うものが、人類の進化を遂げ、此の世界を創造し、科学文明を開化して来たのである。但し、此の思いが一歩間違えれば、戦争を惹起し人間同士が殺し合いを展開する、猛毒になったと云える。所謂「諸刃の剣」である。又、一方では「思うな考えろ」と謂うのがあるのだが、どうしても〝思う〟と謂う事は、過ぎ去った過去に拘泥し、考えると謂うのは未来に属する。と言って良い。
人間は、思い(邪気・邪念・妄念・怨念)から身近な人間関係から、対立・抗争・闘争、果ては戦争に行き着く。一方、考えると謂う事は理性的な、科学・機械・技術を産み、人類の進歩・進化を産み乍ら、内界の思いの禍に因って、人類は破滅の道への奈落の底へ飛び込んで行くのか。今朝、窓を開けると、大空を鳶が悠然と時空に左右される事なく、何の悩みや苦しみも無いかのように、風に乗ってスーイ~と滑空している。人間以外の生き物は、幸福も不幸も凡ゆる人間特有の喜怒哀楽苦快の感情の中で、怒(縄張り争い)だけがあるだけだ。後は泣く事はあっても涙は知らず、今こゝを無理なく自然体で生きている。
扨て茲で、幕末維新の起爆剤となった、〝陽明学〟を紐解いて見たいと思うのだが、其の中の「四言教」を取り上げる事にする。王陽明は「善無く悪無きは心の体。善有り悪有るは意の動。善を知り悪を知るは良知。善を為し悪を去るは格物」と説いた。依って、上記の中で陽明学の核と成るのが〝良知〟であり、王陽明はそれを致すと説いて、『致良知』を提言し、「知行合一」を唱えたのだが、要するに物事は「行って始めて知った事になる」と謂う事である。然るに、良知を良心と同様に見做す傾向があるが、良知は単なる心性的な情緒論ではなくて、儒教で云う所の「天理・大義・惻隠」の〝仁の心〟が、王陽明の云う所の良知と云っても良い。
基本的に、「格物致知」の研鑽であり、「善を為し悪を去る」の修行である。孰れは「善無く悪無きは心の体」の境地に至るのが、究極絶対の真理である。然るにその境地は、善も悪も無いのが本来の「心の体」と謂うのだが、それは例えば眼にゴミを入れても、金・ダイヤを入れても害物になる。と謂う教えであり、此の思想は、仏教で謂う所の無念無想とか無我の境地とか自分を意識した思想ではなく、又儒教の単なる善悪論で片付くものでもない。所謂、力とかエネルギーは善か悪かと説いても意味がないと、謂うようなもので、『天地万物一体仁の心』としか言いようがない。中々其の真理は奥深く、其の真理を〝確乎不抜〟するは至難の業である。
幕末維新は、「攻める方も陽明学・守る方も陽明学」だった。と、云われるのだが、日本陽明学派は、知行合一を掲げ、歴史の表面に踴り出て、活躍する行動型と、自己の内面に沈潜して、人格の完成を主眼とする思索修養型の二つに分かれる。主として大塩平八郎・吉田松陰・西郷南洲は「行動型」であり、池田草菴や林良斉、吉村秋陽等を「思索修養型」として類別される。その中で、幕末維新の先駆者となった、大塩の高弟であった林良斉と、親交の深かった孤高の陽明学者、池田草菴を取り上げる。後年草菴は〝但馬聖人〟と言われた。
文化十年(1803)但馬の養父郡宿南村の池田孫左衛門の三男に生まれる。(他の陽明学者は名門の出が多いが、草菴の父は農業)十歳の時母を、十二歳で父を失う。(歴史上偉大な人物は殆んど家庭に恵まれない。然るに、不思議と日本の高名な陽明学者は、幼少の頃父母を失っている不遇な人が多い。)十一歳の時但馬地方の名刹(有名な寺)である広谷村の満福寺に預けられる。寺の住職、不虚上人に就いて仏門の修行をしていたが、文成十二年十七歳の時、讃岐出身の相馬九方(元基)と謂う学者が、広谷村に来て儒学を講じる。元基の講ずる儒学が、草菴の心を動かし、僧籍を捨てゝ、孔孟の道こそ自分の進むべき道であると。翌年、不虚上人の元を去って、相馬九方の塾に入った。
後年、草菴は相馬熟の塾長になり、二十一歳の時春日潜菴と相識り、陽明学に惹かれるようになった。翌六年潜菴の世話で京都に移り、無用の交友を断って読書と思索に専念し、七年松の尾山麓の草庵に移り、自ら学問しながら二・三の小童に読書を教えていた。(この時、号を草菴と名乗る)二十五歳の時郷里に帰り、長兄の子、盛之助を伴って京都に向った。盛之助は草菴と起居を共にし、清貧に甘んじて学問に励んだので、草菴はその素質を喜び、その成長に期待していた。(併し乍ら、盛之助は草菴に伴ない、佐藤一斎を訪ねた帰途病を発して、其の後死去享年二十六歳)
弘化二年(1845)草菴三十三歳・五名の門弟を伴い、伊予小松藩の朱子学者近藤篤山を訪ねる。その途中丸亀に渡り、多津度の林良斎を訪ねた後、安芸広島の吉村秋陽、備中松山の山田方谷を訪問した後、京都の春日潜菴にも会う等、大旅行となり武者修行にも似て、極めて意義のあるもので、交友が広がり、又深くなって、江戸時代後期の陽明学者の人物像や業績が、今日残される事になった。「百冊の書籍を読破するより、一人の大人物と会え」と、戸松慶義先師は生前よく言っていたが、紙片からは伝わらないものが、生身の人間からはその所作や謦咳に接する事で、大いに学ぶ事が多い。将に「百聞は一見に如かず」だ。
特に林良斎とは、弘化二年八月に初めての面会から、約三年ハヶ月の間に二人の書簡の往復は三十七通に達し、両家の子孫は大切に保管して来ていると謂ふ。又他の吉村秋陽・春日潜菴と往復した書簡、文章等を集めて「鳴鶴相和集」を出版した。(本当の知己、心友は生涯に二人か三名程度と云われるのも良く判る)草菴の「青渓書院」が幕末に於ける、私塾の有数なものゝ一つであった。その教育の法は、心を養ふに〝正心誠意〟の大本を以てし、是を導くに〝忠孝節義〟以てした。
池田草菴 肄業餘稿抄(語録)
- 人の学をなすゆゑんのものは、經史の二途のみこれを除いて、即ち千巻万冊も総て無用に属すと。其の四書とは大学・論語・孟子・中庸であり、五経とは、易経・詩経・書経・春秋・礼記・である。
- 政(マツリゴト)をなすの道は、食を先となし。兵はこれに次ぎ、信はこれに次ぐ。然れども、この三者に就いて、軽重論をずれば、即ち心を要となし、食これに次ぎ、兵またこれに次ぐ。
(上記は、天海和尚の家康への教訓)
- 人の志を立つるは遠く且つ大なり、然も高きに視点を置く。
(エベレストに登ろうと志している人は、富士山は容易に登れる。)
- 足の容は重く、手の容は恭しく、目の容は端はしく、口の容は止み、声の容は静かに、頭の容は直く、気の容は粛み、立つ容は徳に、色の容は荘にす。
(荘…厳重おごそか)(所謂る双葉山の木鶏の話)
(如何にも強そうなのは、下っ端)
- 聖賢の意味・気象は、聖賢にあるのではなく、各自の胸中にあるのだ。それを身を以て体し、意で以て体し、意で以て、認識する事を肝要とす。
(孝は父にあるか)
- 草菴は読書の量よりも質を重んじ、書物に依る知識よりも体認を随所に説いている。又、これぞと信ずる書と謂うのを精読する。
(知行合一)
- 人心の心體は、元々病なし、病は即ち妄より起こり、生ずる如何に邪念、邪気を料理するか。
(今此処、死んでしまった気になって)
- 古より、賢人・君子の(子)のその身を處するゆゑんのものは多く、窮苦・寂實の間にあり、みな心を動かし、性を忍び、益々その徳を厚くするゆゑんにして、みずからその苦たるを知らざる也。
(幾度か辛酸を経て、志はじめて固し)南洲
- 人の貴ぶべきものは、富でなく徳にある。
(金持ちは直ぐ潰れるが、徳のある清貧者は中々潰れない)
草菴の交友した友人で、林良斎(大塩平八郎の高弟)と春日潜菴(西郷が弟子を修行に出した)であった。(良斎とは往復書簡三十七通・三年八ヶ月の付き合いがあり、潜菴とは二十一歳の時からであった)林良斎が、春日潜菴に与えた書簡に、草稿に就いて「外見は、素朴で飾り気はない人だが、精神的には情知豊かで、意志の人である。又、俗世間を超越して、君子の修行を積まれた人である」と、絶賛している。(所謂、人物になると此の両人共年長者大先輩であった)
草菴は、日々聖賢の道を求めて修養し、「愼独」を実践し、名利野心を顧みることなく、人格高揚に努めた。(人間形成・自己実現・自己完成を求めた、漢になる人と成る)朱子学と陽明学が互いに競い合っている中に劉念臺が出、両者の長所を採って融合させた。彼の「愼独」こそ千聖の真の血脈である…と。(この念臺を尊宗した)幼少にて父母と別れ、晩年最愛の長男長女を失い、更に甥の盛之助失い、激動する時世に直面し、決して幸せな人生だったとは思えない。修養を積み重ね悟った書の中にも、一抹の哀愁のようなものを感じる……。