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1周目(ヨシオ カサヤカ)

2018.04.20 03:27


 祖母の体調が急に悪くなり、数日間全く食事も取れず、自力で起き上がることもできなくなったと、実家から連絡があったのは、今から2週間ほど前だった。2月に1週間ほど帰国した時は、腰を痛めて自力で歩くのが困難だったが、まだ元気だった。そのあと急に様子が変わったらしい。

 前回の帰国からこんなに短期間でまた戻るのは全くの予定外だったが、私はもう一度帰ることにした。5年前も、冬の終わりに一度帰国し、4月の頭に予定外の再帰国をしたことがあった。その時の理由は母親の容態が悪化したことだった。ちょうどミャンマーの正月のシーズンで、私は本来であればビザの更新のために隣のタイに数日出国するだけの予定だったのだが、土壇場で日本に戻ることになったのだ。

 うちの家族には皆4月に何か起こる気がすると、私は夫に縁起でもないことをいい、その割には冷静に、可能な限り乗り継ぎが楽でかつ安い航空券をネットで選んだ。戻りの日付は、日本到着日から10日後にした。私は祖母の看取りをするつもりでいた。

 結局、祖母は意外にも入院している間の数日で回復し、私が国際線への乗り継ぎのためロサンゼルスに着いた頃には、退院して実家に戻っていた。もう、心の中で予行演習していたような状況はすぐに起こらないと分かり何かが弛緩した状態で、中国製の小さなキャリーケースをゴロゴロと転がし国際線ターミナルへと向かった。 

 満州で生まれ、25歳の時に引き揚げてきた祖母は、私がこれまで見た人の中で一番体が丈夫だった。私たち孫が小さい頃は、共働きの両親の代わりに家事をし、80歳ごろまでは時々登山もしていた。

 「そういえばずっと昔から私は祖母が亡くなる様子というのを想像していたな」とふと思い出した。私は非常に暗い子供だったので、夜、布団に入ってから眠りに着くまでの空想も暗かった。自分が死んだらどうなるか、世界が終わったらどうなるか、それから、祖母が亡くなったらどうなるか、だいたいその3つのうちどれかを考えていた。もし今振り返って屁理屈をつけるとすれば、当時の私の世界には、自分自身と、祖母しかなかったからだと思う。私は、下の妹弟のように集団生活に馴染めず、一度入った保育園を退園して、1年後に入りなおしている。だから、家族の中で一番長く祖母と家の中で過ごしていたのだ。

 自分自身のルーツがあるとしたら、この妄想も含めた、祖母の存在だと思う。

 祖母の昔話は、小学校の国語の教科書に出てくる「戦争の話」とは違っていた。空襲も、お父さんの出征の話もなかったからだ。その代わり、ガイチやナイチという、祖母以外の大人は使わない単語がよく出てきた。父親が戦地に出征した話はなく、「うちのお父さんは引き揚げを経験する前に死んだから幸せだった」と話していた。自分が生まれ育った街の話、そこから着のみ着のまま汽車に乗り、ギュウギュウ詰めの船に乗り、舞鶴についた話などをした後に、「まあナイチの人に話してもわからないと思うけどね」とよくつぶやいていた。祖母が「外地」に生まれ「内地」に引き揚げてきた経緯を、日本史と関係付けて認識したのはのはもう少し後のことで、当時は、同じ「お年寄り」でも、みんなが同じ思い出を持ってるわけじゃないんだなということだけを漠然と感じた。

 また、祖母の話に何度も登場し、印象的だったのは、「中国人の太郎さん、二郎さん」だった。祖母の実家は旅館を営んでおり、太郎さんと二郎さんはその従業員だった。祖母からは、幼い頃彼らにはよく可愛がってもらったこと、厨房で働いていた太郎さんのつくるキンピラ牛蒡は美味しかったこと、をよく聞いた。しかし、祖母は彼らの本当の名前を知らない。終戦後、引き揚げで満州を去るときまで彼らは私たちを手厚く助けてくれた、中国の人たちには本当にお世話になった、とも祖母はよく話した。ただ、彼らがそのあと何処に行きどんな人生を送ったのか、祖母は知らない。もちろん、彼らの写真も残っていない。

 太郎さんの話を聞く時、私の頭の中には、厨房で作業をする人の後ろ姿が浮かぶ。若いのか、年老いているのか、笑顔なのか、怒っているのか、悲しい顔なのか、その顔は見えない。

 祖母は、料理や買い物など、昔出来ていたことは年と共に少しずつできなくなり、今は1日の大半を椅子に座って過ごしている。今日が何曜日か、今孫がどこで働いているのか、などは覚えていられなくなったが、その一方で、満州での生活の間耳にした中国語はまだ覚えていて、新聞の折り込みチラシやカレンダーなど裏紙で作った自前のメモ帳に、ごく簡単な中国語の単語を時々書き留めている。

 「ご飯食べましたか」「おいしいです」「どこへいきますか」「また会いましょう」

 そのメモを眺めるたび、もしこのまま私が生きていくうちに、思いがけない場所でいつか太郎さんや二郎さんの子孫に会えないだろうか、と夢想した。私の根っこが祖母によって作られたように、どこかで、太郎さんや二郎さんによって根っこを作られた誰かが存在しているのだ。その誰かに聞いてみたい。私の祖母と同じ街に暮らしていた彼らの、本当の名前や、私の祖母の思い出とは当然大きく異なるであろう、その街に対する彼らの想い。彼らが人生の中で感じた幸せなことや悲しいこと。

 頭の中でそんなことがぐるぐる浮かんでいる間、私の身体はどんどん進んだ。ターミナルの前で客待ちをするタクシーの運転手たち、国際線の到着ゲートから出てきた人々、空港の作業員と思しきユニフォーム姿の人たち、いろいろな人の間を通り抜けて、出発ゲートにたどり着く。私は家に向かっている。自分の根っこに会うために。

2018年4月
ヨシオ カサヤカ