提案『乳児の音学的能力と言語の獲得』
先日生徒のお母様が歯科でレントゲンを撮った際モーツァルトの曲が流れてきて驚いたとの話から「乳児にモーツァルトを聴かせても能力開発的効果はないという話は本当ですか?」と訊ねられました。モーツァルトの曲を大学生に聴かせ成績に影響が出るかどうかを実験した話に色々な尾鰭が付いてモーツァルト効果が神話のように実しやかに出来上がったと考えられます。私も能力開発については懐疑的だと考えますが、乳児にとってモーツァルトが受け入れやすいのだろうと実感していることも事実です。その理由については乳児の聴覚発達初期の段階で母親学で学んでもらっていますのでここでは申し上げませんが、モーツァルトに限らず音楽を取り入れているご家庭のお子さんは聞き取る力が高いことは事実です。能力開発というよりも音楽を聴くことで傾聴する力が鍛えられ、その相乗効果で様々な力が徐々に底上げしているのだと考えます。
また音楽は世界的共通語と言われるように言葉も文化も異なる人種間をも超越するコミュニケーションであり、言葉以上に人と人とを結び付け繋げてくれるものでもあります。そのような音楽を乳児はどのように獲得していくのかを今回は考えてみたいと思います。
これまで何度も話してまいりましたが乳児の聴覚はほぼ聞こえる状態の器官発達で誕生し、そして1歳までにほぼ大人と同じ精度の聴力を獲得すると言われます。そのことからも分かるように誕生直後から様々な良質音を聴き様々な音を聞き分ける機会が多ければ多いほどその音楽的能力を磨くことができます。胎児についても妊娠24週以降からは感覚器官がものすごいスピードで出来上がっていくため重要な時期に入り、そのタイミングで良質な音楽的を刺激を与えることで誕生後の言語の獲得にも良い影響を与えると言われます。先述した通り音楽家のお子さんは耳が良いと感じることは多々あり、他言語の獲得にも優れていると思います。
乳児が言葉を獲得する出発点は音にあります。
生後2ヶ月ごろの乳児は舌を使わずに喉を鳴らしてクーイングという音を自発的に出すようになり、そのクーイングに親が応呼することでコミュニケーションの土台を気付くことになります。その後そのクーイングから言葉にならない言語音である喃語という音を出し、その喃語の初期は母音のみ、やがて母音と子音を組み合わせた音で喉から出る音の変化を楽しみ、母音と子音の組み合わせやその発する音の回数を変えて楽しんだりしながら自発音に耳を傾け楽しんでいます。これがいわゆる自発的傾聴です。
上記のことからも分かるように誰かが教えるわけでもなく、自発的に発達を獲得しながら新たな楽しみを見出す発達を行い、言語の基となる音の獲得に入っていきます。また喃語を発する乳児を観察するとものすごい勢いで手足をばたつかせて音を楽しんでいることがわかります。音と体を動かしながらリズムを取ることを既に実行し言語の基礎となる音を楽しんでいるのですが、多くのお母様はそのことにあまり気づいておられません。
その後1歳前後に音やリズムに合わせて体を動かす動作を目にすると「もしかして我が子は音楽的才能があるのでは?」と思う方が多いものですが、実は多くが喃語獲得時期に手足をばたつかせていた動作性の精度が上がっただけなのです。よって1歳前後で音楽を耳にした時に体全身でリズムを取ったり、音に合わせて体を揺らしてみたり手を叩くなどの反応の多くは、言語習得の土台となる音の獲得の延長線上であることが一般的で音楽的才能がある場合は本当に稀なのです。(音楽的才能がある場合には1歳以前に既にその兆候が出ています。)
我が子はどちらなんだろう?発達としての現れなのか、それとも天賦の音楽的才能が備わっているかを見極めるためには、誕生後の1年間の音楽的刺激がどれほどあったか、良質な音をどれくらい耳にしたかによって決まるのです。かといって一日中音楽を聞かせるわけではありません。そのような行動は逆に発達を阻害する要素にもなるので新生児の母親学でお伝えしています。
一般的に天賦の才を手にして生まれる子供は全体の数%といわれ、その中でも音楽の才となると更に少なくなります。よって一般的な子供が圧倒的に多いことから音楽家と言われる多くの方々は幼い頃から努力を積み重ねてこられたわけです。そのような親御さんをお持ちの子供たちは日々音に触れ一般的なご家庭の子供と比較しても音に対する反応に違いがあると同時に言語性も高い傾向があります。音と言語の関係性が深いことを音楽家のお子さんたちから学び感じ取ってきたことが私の一つの財産になっているとも言えます。私自身がクラシックを愛してやまないのは親の影響が多大であると同時に、そのような子供達を目の当たりにして子供や孫にも質の良い音楽環境を与え言語性のみならず心や思考の豊かさを獲得できたらとも考えます。私が子供の頃は子供がクラシックコンサートに足を踏み入れるには年齢制限がありました。しかし現代は小さな子供向けにオーケストラやアンサンブルがコンサートを開き、楽器に触れさせる経験をさせてくれる団体さえあります。我が子もとにかく各音楽団体の演奏会に連れていくようにしました。耳を鍛えていると指揮者によっても演奏の色が違うことを幼ながらに感じ取ってしまうようにまでなりました。そう考えると音楽家の家庭でなくても本物の音に触れる機会を経験させることだけで音楽の魅力を感じたり、琴線に触れたり、興味や好奇心が湧く経験や喜びを獲得できるものです。その経験は生涯を通しての財産になり、いつでもどこでもその経験を実感することができます。
私自身が子供を育てるにあたり実験的なことをした経験があります。例えば寝かしつけに子守唄とダンス曲を聴かせ、経験値の少ない乳児でも断然子守唄で眠りますし、ダンス曲をかけると眠ってくれません。また愛を伝える曲と鎮魂歌などを聴かせると子供が私に寄り添ってくれる甘え方が明らかに違ったのです。言葉とは明らかに異なる音楽の力が経験値の少ない子供の感性にダイレクトにも伝わることを考えると、やはり人間にとって心で感じる音を生涯求めることとは、時に喜びを表現するものであったり、気持ち奮い立たせるものや癒すもの、喧騒から逃避すること、哀愁や思い出に浸り時に涙を助長し心を軽くするものです。音楽は現在進行形で人間の感情に直接働きかけ、過去にタイムスリップすることや未来に希望や夢を抱き想像することもできる本来人間が持ち合わせている感情に寄り添えるものだと考えています。言葉や文化、人種や国の垣根を超えた人としての感情が相通ずる唯一のものだとも思うのでこれからの時代は、より良質な音楽を味わい、人が人でいられるような心のゆとりや豊かさ、相手を慮る気持ちを子供達には育んでほしいのです。
記載しようかどうか迷いましたが読んでくださると人の人生に音楽が深く関わるケースがあるのだなという一つの事例をお伝えし今日のブログの締め括ります。
私の父が荼毘に付され骨を拾うとき、母は父に向けて父が好きだった『椰子の実』を口ずさんでいました。その歌に母がどのような想いを込めて歌っていたかはまだ聞けていませんが、私たちには分からない夫婦の思い出や様々な感情があったはずです。突然のことで私も戸惑いましたが母から父への感謝と花向けだったのではと思うと同時に、音楽で繋がっていた両親を羨ましく思い、音楽には言葉を大きく超える想いが存在することを知ることもできました。
人は生涯を通して音楽に触れ人生の感性を磨き、音楽がその人の人生をも支えるものとして存在してほしいと考え、それが乳児の頃から長い年月をかけて心に寄り添えるものであってほしいと考えます。音楽と言葉は密接な関係にあることが乳児を通して認知する経験をみなさんにもしてほしと考えています。