2019質問5
質問その5)
次に、私は、春の区議会議員選挙を通じ、少なからぬ有権者より、テクノロジーが進歩した現在では、区議会など不要であって、区の予算の可否程度の問題であれば、直接民主主義で運用可能ではないかという提案を頂きました。
確かに技術的には可能かもしれませんが、私はそれは反対ですということを申し上げました。
二〇一六年、議会制民主主義発祥の地イギリスでは、国民投票によって、欧州連合から離脱すべしという民意が示されました。いわゆるブレクジットといった問題です。今もなお、その手続をめぐるごたごたが継続中であります。
示された民意が正しかったのか、そうでなかったのかはさておき、直接民主主義では、結果が一時の感情によって左右されてしまうし、有権者の感情をも分断してしまうということが改めて分かったと思います。
私は、文京区議会の議員は、人口一万人当たり一人、現在の文京区で考えれば、定数三十四を二十二に削減して、議会の意思決定をシンプルにしたいということはかねてから主張しておりますが、議会が不要であるとまでは考えておりません。テクノロジーが幾ら進歩しようとも、人間が一時の感情で極端に左右される生き物である以上、長期的には、代議制の方が優れた意思決定ができるのではないかと思っているからです。
しかし、その問いをきっかけに、建設的な議論とは果たしてどんなものかについても、私は深く考えさせられる機会となりました。
私はかねてから、せっかく正式な選挙という手続を経て議席を得ても、法的に何の拘束力もなく、参考意見にすぎない、何とか区民協議会の意見ばかり重視される傾向があるなと、内心忸怩たる思いを抱いておりました。
議会においても、他人の意見の引用ばかりが、悪い意味でもかなり目立つようになってきたと感じておりました。中には、何とか協議会でこんな意見が出たが、区の考えはどうかなどといった、会議録を読めば事足りるものをわざわざ質問するケースすらあります。これは、議員の思考停止であると捉えられかねません。
そして、最近流行している区民目線。区民目線という単語も、私は違和感を感じます。そもそも、文京区民でなければ区議会議員になれないわけですから、区民の目線を持っていることは至極当たり前のことであります。それを殊更に強調するのは、主語を曖昧に拡大し、いかにも大層なことを言っているかのように見せるレトリックなのでしょう。
また、文章の主語に「私が」ではなく「区民が」という言葉を必要以上に多用するのも、同じような違和感を覚えます。議員の責任回避行為と捉えられかねません。
本来、議会とは、議員一人一人が多くの有権者の声を咀嚼した上で、己の考えはこうであると、主語を自分にして、一人称で堂々と主張する場であると私は考えているからです。
そうしたことを踏まえ、私たち永久の会は、しっかりと議論を進めてまいります。
また、近年、国会では、野党合同ヒアリングと称して、テレビカメラの前で物言わぬ公務員をいじめるパフォーマンスがはやっているようです。よくマスコミに報じられておりますが、正直言って、見ていて余り気持ちのいいものではないと私は思います。
地方議会に目を転じると、実態はどうなのでしょうか。職員相手にパワハラまがいの行為に及ぶ地方議員もいると聞き及んでおります。
職員を雪隠詰めにして長時間説教をする、意見が受け入れられないと、委員会の場で、果てしなく、説明責任がある、説明責任があると執拗に繰り返す、一見誰も反対できない教科書的な倫理観を盾に粗探しをする、そして、職員や他の議員との会話を密かに録音する、こういった行為を聞くことがあります。とても健全とは言えない、陰湿なものであると考えます。
こうした、議員によるパワハラとも言える行為は、公務員のモチベーションやチャレンジ精神を奪い、行き過ぎた場合には、精神的な病に陥らせるリスクすらあるのではないでしょうか。私は、文京区にはそうした事例がないことを願っております。
いずれにせよ、せっかく時間を割いて議論をするのですから、建設的な議論をしたいと私は考えております。
さて、去る六月十四日、超党派の「落語を楽しみ、学ぶ国会議員の会」、通称「落語議連」の設立総会が国会内で開かれました。自由民主党の有力な議員、そして、日本共産党の小池晃さん、そして、私が敬愛する無所属の細野豪志氏など、幅広い議員がメンバーとして集まっているそうです。
今まで設立の機運はあったのですが、「落ちる」ということで縁起が悪いらしく、議員から敬遠されておりました。
しかし、昨今の全く与野党がかみ合わない国会の議論に業を煮やした数名の声掛けにより、めでたく設立の運びとなったそうであります。
今話題の小泉進次郎氏もメンバーの一人で、落語家の間の取り方などが演説の勉強になる、こう語っているそうであります。
この落語議連の意義について、落語家である春風亭一之輔氏が、産経新聞のコラムの中で以下のように書いていて、私は思わず膝を打ちました。私の質問は、このコラムの引用で締めたいと思います。
「政治家には『演説のスキル』としてのみ落語を聴くんじゃなくて、もっと『内容』を聴いてほしい。落語には貧乏で、酒好きで、怠け者で、女好きで……そんな人がたくさん出てくる。でも社会的に『ダメな人』が生き生きと仲間に加われるのが落語の世界だ。花見に行くんでも『しょうがねぇけど、あいつも連れてくかい?』『おうともよ!』寛容過ぎるくらい寛容な落語ワールド。落語を聴いて、いやされるということは、今の社会がどれだけ息苦しいかということだ。落語の『芯』を理解できる政治家が増えれば、この社会はもうちょい生きやすくなると思うよ」。
以上で質問を終わります。
御清聴どうもありがとうございました。