Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「サウロの回心」

2023.01.15 00:02
使徒の働き 9章1―19節前半
1. さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、2. ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。3. ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4. 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」5. 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6. 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」7. 同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。8. サウロは地面から立ち上がった。しかし、 目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。9. 彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。10. さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。11. すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。12. 彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」13. しかし、アナニアは答えた。「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
14. 彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」
15. しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。

16. 彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」

17. そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

18. するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、

19. 食事をして元気になった。

礼拝メッセージ

2023年1月15日

使徒の働き 9章1―19節前半

「サウロの回心」

 

 「目から鱗(うろこ)」とか「目から鱗(うろこ)が落ちる」ということわざがあります。日本語のことわざ辞典では、「(うろこのような物で目をふさがれて目の見えなかった人が、急にうろこが落ちて目が見えるようになったということから)思いがけないことが原因となって、突然自分の周りの実態がよく見えるようになり、悩みや迷いから解放されることをいう 」〔『成語林 故事ことわざ慣用句』旺文社、1992年、1124ページ。〕と意味が説明されていました。また最近では、雑学クイズ等の回答を知って、「へえ、そうだったんだ。目からウロコやわ!」と言うように、新しい知識を得た時に、驚きを表す言葉としても用いられたりします。

 その「目からウロコ」の始まりが、聖書のこの箇所にあったことをご存知でしょうか。使徒の働き9章18節です。本当に目からウロコが落ちた最初の人物こそ、サウロ後のパウロだったのです。

 今日の聖書箇所は歴史的に重要な出来事です。あのパウロがよみがえられたキリストと出会えた。そしてクリスチャンになった。さらに世界宣教へと遣わされる使命を神様から頂いた場面です。

 神様がこのパウロを立ててくださらなければ、イエス様の福音は世界中に広がっていかなかったかもしれません。パウロがいなければ。新約聖書の約半分、ローマ人への手紙からピレモンへの手紙は残っていなかったでしょう。主イエス様に選ばれ、用いられた器パウロです。彼の回心の出来事、イエス様を信じる信仰へと180度変えられたダマスコ途上の出来事をみことばから見てまいりましょう。そして私たちの人生にも等しく臨んでくださり、私たちを作り変え、新しく生かしてくださるイエス様の導きを共に確認してまいりましょう。

 まずはパウロの以前の姿。大のキリスト教嫌いであったサウロ時代からです。9章1,2節、

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅(おびや)かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

 クリスチャン迫害の急先鋒。キリスト教を撲滅させることを自らの使命としていたサウロでした。クリスチャンたちがどこかに集まっていると聞けば、そこを襲い、彼らを逮捕し、縛り上げ、宗教裁判の被告人席に立たせました。危険思想にとらわれているあんな奴らは殺されても構わないと考えていました。神の教え=律法を厳守し、世の中を正していこうと考えていたパリサイ派のサウロにとって、新たにポコッと生まれたように思われたキリスト教は“異端”だとしか思えませんでした。サウロにとっての神は、旧約聖書に啓示された、ただ一人の神だけでした。ただの人間としか思えなかったイエスが神であるとは、あってはいけないことでした。クリスチャンたちは、ただ一人の神以外の神を拝む不届き者だと、彼らへの怒りが沸き上がっていました。

 しかも、このイエスは旧約聖書の律法で「呪われた者の死」と見なされていた十字架=木につるされた死刑囚だったのです 。

ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。(申命記21:22,23)

そんな男がよみがえって、今も生きている。しかも神の子、救い主だなどということは受け入れ難いことでした。そんな間違った教えがエルサレムからサマリア各地に広がり続けていて、このイエスを信じる者が増え続けていることは、サウロにとって許しがたいことでした。こんな間違った教えは早く消滅させなければならない。サウロはそう信じて、徹底的にキリスト教を攻撃したのです。

 ステパノ殉教後、クリスチャンたちは迫害され、遠くに逃亡しました。彼らを捕らえるため、サウロは大祭司の許可を得て、遠く北の町ダマスコまで遠征するのです。下の地図にもありますが、エルサレムからダマスコまで270キロ。福井市から和歌山市辺りまでの距離に匹敵します。どこまでもクリスチャン達を追い詰めていくサウロの執念のようなものを感じます。

 この時のサウロは、自分の行いが神への正しい奉仕だと信じ切っていました。クリスチャンを撲滅することこそ、神のみこころであり、神に喜ばれることだと。先ほど交読したヨハネの福音書16章。その2節でイエス様が語っておられた通りでした。

「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。」

そんなサウロによみがえられ、天に昇られた主イエス・キリストが現れてくださったのです。3節から5節です。

ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

 天からの光は神様からの光でした。一瞬にしてサウロの視力を奪ってしまう強烈な光でした。イエス・キリストはサウロに「あなたが迫害しているのは、このわたしだ」と語りかけました。

 5節終わりの「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」の「わたしは」を原語の聖書で見てみますと、「エゴー・エイミー」という表現が使われています。「この私なんだ」というように非常に強調されている表現です。イエス様が「わたしがいのちのパンです」(ヨハネ6:35)や「わたしが世の光です」(ヨハネ9:5)と語られる時、使われている表現です。さらに元をたどれば旧約聖書の出エジプト記3章で、モーセが神様に「あなたのお名前は何ですか?」と尋ねた場面で、主なる神様が、「わたしは『わたしはある』という者である」(3:14)と語られた「わたしはある。わたしは永遠に存在する神だ」という神様ご自身を表すお名前です。イエス様は「サウロ、わたしこそ、わたしはあると言われる父なる神と一つの存在なのだ」と、ご自身がまことの神であると語られたのです。

 神に喜ばれようと願い、熱心に行っていたキリスト教撲滅の働き。しかし、実はそれこそ、神ご自身であるイエス様を痛めつけていることだったのです。神様に反逆し続けていることだったのです。サウルは衝撃の事実を突きつけられます。サウルがしてきたことは、教会とクリスチャンの頭であられ、そのただ中におられるイエス・キリストを迫害し、痛めつけることだったのです。自分は神に反逆していた。自分こそ罪人・不届き者。本当に愚かな恐ろしい罪を犯していたことを悟らされたのです。

 視力を失い、自信を失い、これまで一生懸命築いてきた知識やプライドをズタズタに打ち砕かれました。目が見えなくなったサウロは、一人では歩けず、お付きの者に手をとって引いてもらいながらダマスコの町に入って行きます。取っておいた宿の中で3日間、全く飲まず食わずの断食をし、ひたすら神様に祈り続けます。ずっとイエス様の御声が心の中に響いていたでしょう。愚かだった自分を悔やみ、悲しさと罪責感でいっぱいになり、サウルは「主よ、赦してください。私に現れてくださってありがとうございます」と、神様への悔い改めと感謝の告白に導かれて行ったと思います。こんな罪深い私のために、キリストが身代わりに十字架で死なれたことを受け入れます。よみがえってくださったイエス様を信じ、これから主キリストのために生きていきますと決断した3日間だったのではないでしょうか。

 そのパウロのもとにダマスコの先輩クリスチャン・アナニアが、神様から遣わされて来ます。最初アナニアはちゅうちょしました。「我々クリスチャンを逮捕し、連行しようとする迫害者サウロの所なんて行けません」と答えます。しかしイエス様は、「いや、このサウロがこれから異邦人に、各国の王たちに、福音を宣べ伝える者になるのだ。そのために私が選んだのだ」と語りかけます。アナニアは、イエス様の御声を信じて出て行きます。

 アナニアは、サウロの上に手を置いて「兄弟サウロ」と呼び掛けました。兄弟という言葉にアナニアの愛、信仰すべてが凝縮しているように思えます。ついさっきまで敵であった男。自分たちを殺そうと怒り狂って迫って来た男だった。でもキリストに出会ってサウロは180度変わった。これから私たちと同じキリスト共に生きる兄弟なのだと。信仰を持ってそう呼びかけたのです。

 神様は私たちのためにも同じような存在を送ってくださいました。これからも送ってくださるでしょう。こんな者を「兄弟姉妹」と親しく呼んで、共に生きて、関わり続けてくださる方々が今、私たちの周りにいる。これからもいてくださるおかげで、私たちはクリスチャンとして歩み続けていけるのです。

 アナニアがサウロのために祈ると、目から鱗のようなものが落ちました。「目から鱗が落ちる」の語源がここです。サウロは肉眼の目=視力が回復したという以上に、心の目、霊的な目、信仰の目が開かれたのです。イエス様こそ神の子救い主キリストだと。今も生きておられるお方だとはっきり分かって、信仰の目が開かれたのです。

 サウロがバプテスマ(洗礼)を受けて、新しく生まれ変わった場所。そこが11節を見ますと「まっすぐと呼ばれる通り」にあった家だった。とても象徴的な場所だなと感じます。これまでサウロは、自分は神様の前で真っ直ぐに歩んでいると思っていました。しかし、それは独りよがりな自分の正義・自分の価値観から出た真っ直ぐでした。本当のところ、神様の御心とは正反対に歩んでいました。真っ直ぐな道から外れていました。

 イエス様と出会って、イエスにとらえられたサウロは、これから主イエス様と共に生きる真っ直ぐな道に導かれていくのです。サウロの人生を180度方向転換してくださり、真っ直ぐな道=イエス様と共に生きる喜びの道へと導いてくださるのです。

 主イエス・キリストは、私たち一人ひとりにも、あなたにも同じように働きかけてくださっています。ある方には、サウロのような劇的な体験があるかもしれません。別の方は、階段を一段一段登っていくように、少しずつイエス様のもとへと導かれ続けていくのかもしれません。

 イエス様とお会いし、感動し、信じ、このお方のように歩んで行きたいと変えられていく体験は人それぞれでしょうが、神様は私たち一人ひとりの人生に確かなご計画を持っておられ、それを実現してくださる素晴らしいお方です。私たちの人生に、神様が臨んでくださり、私たちの罪を知らせ、キリストにあるまことの赦しと救いを得させようと働きかけてくださっています。そしてイエス・キリストを信じる者へ変えてくださるため、私に助け主=聖霊を送ってくださいます。私が真っ直ぐな道を歩み続けて行けるように、キリストに従って行けるように、助け主=聖霊は、私の内に確かに住み、働きかけてくださっています。サウロに臨んでくださり。サウロを新しく変え、生かしてくださった主イエス・キリストは、あなたにも、あなたの人生にも同じようにしてくださいます。

 そして神様は15節で、「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です」とサウロに新しい使命を与えてくださいました。クリスチャンを捕らえ苦しめていた。そのために遣わされたサウロから、今度は、人々をキリストのもとに導き、そしてキリストのために苦しむしもべへと、全く正反対の者としてくださいました。サウロに新しい人生を与え、やがてパウロと言う新しい名前も与えてくださいました。

 神様は、あなたにも、私たち一人ひとりに、今日も使命を・働きを託してくださっています。「主よ、私はどのような道を? どのような働きを託されているのでしょうか?」と、神様の御心を尋ね求めながら、主に示されながら、今日これからを共に歩んでまいりましょう。キリスト共に生きる真っ直ぐな道。イエス様に従って行く真っ直ぐな道、キリストを宣べ伝え、キリストに仕えていく真っ直ぐな道へと、これから導かれ続けていきたいと心から願います。

 祈ります。


みことばへの応答


Q. 思い出してみましょう。以下、自由にご記入ください。


 あなたがイエス様を知り、信じた時には、サウロのような劇的な体験がありましたか? それとも階段を一段一段、登っていくようにイエス様を知っていきましたか?