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シュヴァンクマイエル

2018.04.20 12:23

触覚、聴覚、視覚全てにおいて私の好きな作家です。

「アリス」など長編アニメーションも紹介したいのですが、それは後ほどブログの方で取り上げるとして、ここでは分かりやすい短編を2本ピックアップしました。

一作目は好きな人多いのでは?という「肉の愛」、二作目は少しエロッティックな粘土です。


ここからは、彼の作品についてのインタビューを和訳付きで紹介します。

(ありがたいことに本数が多いので追記します。)



「触覚」

私が彼の作品を推す、一番の理由です。

冒頭からおっさんの鼻ちょっとひっかかってピンてなるの好き・・・

 1974年以降、私は触覚へのリアリティに注目していきます。

 私は、集団と個人、それぞれにおいて実験を行い、"触覚と想像"の本を書いています。

例えば、シュルレアリスムのグループでの反感、嫌悪についての調査しました。 

私にとっての"触る"というのはとても大切なことです。

 それに、なぜコンピュータアニメーションが嫌いなのかの理由でもあります。

 触感のリアリティが失われるからです。 

それらはすべて見た目なのです。アニメーターは"置く"という動作の際に物には触れません。

そして、触れたことによる感情の変化を失うのです。

 私の映像は冒頭からとてつもない細部へのこだわりがあります。 

その目で確かめてください。

私の撮影における、ものの構造へのこだわりを。

 それにこれは一つのステップにすぎないのです。 映像において、視覚を通して彼らに触れるという点においての。

 私にとって、手は今のところ確信させてくれるのです。

 私がみせる映像内での触覚的シチュエーションは見る人々の眼を通して、本当に自分が触っているかのように、感じさせるでしょう。 



「音」

いい音だよね、、。


では、別の観点から。

 私の映像の中での音は、実際にその映像を撮っている時に生まれたものです。 

まず初めに、私は(作曲家)ズデニェク・リスカと仕事をしました。

 リスカは私に音楽をつくってくれました、それに彼は天才です。

ええ、もちろん。

 音楽家はリズムだけではなく雰囲気までも生み出します。 

彼はそうでした。他の仕事を必要としないのです。 

そして、彼が亡くなったとき、私は本当に音 楽を失いました。 

その上、70~80年代には総じて、音楽は限界を超えていたし、歌が無くなることを望む世界のように思われました。 

そして、私は自問自答した。 

音楽を伝えようとしていないじゃないかと。

 私は音楽と共に仕事を始めました。

アーカイブからまるでそれが美術品であるかのように持ってきてね。

 So,私は音楽と協力してるんだ。

 作曲家が曲を書くのとは違って、私のは(実際の音の)切り貼りを意味します。 

ようするに、私は本質的な音と共に仕事をしているのです。 

それに、音は、意味そのすべてなのです。

 音のないアクションは存在しません。

 近代の映画において、射撃も車のドアをバタンと閉めるのも、それ以外の音はありません。

 私たちは何もかもすべてに音を作る。 

髪を梳かす、服のボタンを留めるとかも含めて、私は(それ以外の音を)知りません。

 すべてのものはそれ特有の音があって、私たちはいつも音を記憶してる。 

私たちは常に全てのもの、すなわち音をレコーディングしてるんだ。 

そして、私たちは映像の終わりに聴き直すでしょう。 


「自然」

途中ね、ちょっと過激めな映像なんですが、それも含めて結構好きです。


少し複雑な自然についてです。 

私は"主導権を放棄せよ"という本を書きました。 

私は人々は人類中心主義を放棄しなければならないと主張します。 

進化の過程で私たちは一つの可能性からはじまった、

もしくは、一つの宇宙の単純な自然の一部です。

 自然を人類中心主義のためのものだと見下すのではなくて。 

これは、父は神であり、母は自然からきているということを意味します。

 結論、母は常に子どもを生み育てるものですが、父はなにか一定のものがあるわけではないと記録は示しています。

 ゆえに、私は人々は文明を諦めねばならないのです。

 おそらく、文明に価値はなく、文明が人間の手にわたるのは最善ではないのです。

そして、私はいくつかの著者から引用すれば、リーヴァイ・ストラウス、フロイト、アンドレ・ブルトンetcを支持します。

 人間の優位を問い、文明を否定します。 

しかしながら私は、マルキ・ド・サドを求めて、"Lunacy(狂気、愚行)"という作品をつくっています。 

この異様さを通して、自然に猛激しているのです。

 彼は自然を本質的に、私たちを破壊し殺す売春婦だと言います。

そして、このように彼は母に対して殺人犯になりたいとただ欲するようになります。 

今、私の中では二つの展望がぶつかり合っています。 

私の歳にもなれば自然とこのようになるのです。

 一つは、殺人犯がドアの後ろで待ち構えている。 

自然は……。 

そして、私の意見は今のところ自然は相反するということです。 


「死」

骨に目って可愛いよね・・・。死というか、構造美じゃないかな。


82歳にもなると、自然と自分自身の変化から身を守ろうとします。

大体の人は避けようとするでしょう。

けれど私は多かれ少なかれそれを利用します。 

骨はゆっくりと後から現れ始めます。

 そして、現時点で私は聖骨箱をつくるのです。

 多少の準備や鍛錬は必然的に一定のステイトになるとでも言いましょうか。

その上、骨とは驚くべきものです。 

ただ見た目が美しいだけではありません。

正確には、それらには彼らの死があるからです。

死は美学を否定します。しかしながら、形において骨は大変美しいのです。

骨は彼ら自身のカタチなのです。

骨を展示すれば、あなたは単純に示すでしょう。

 同様に、私は気がついたのです。

 アフリカの壮大なバオバブという木は、その造形であるからギャラリーにそびえ立つことができるし、辺り一面を支配していた。

同じように貝も全くもって完璧だ、

あと、そうそう、虫も素晴らしいね。

 自然とは本当に信じられないアーティストなのです。

 それにはなんの疑いもありません。 



「恐怖」

冒頭怖め(多分切り株を赤ん坊として育てたら本当に生きてたってホラー作品)ですが、

内容は私好みです。クマイエルの作品の空気感っていいよ。。


私の映像はいつも想像的です。 

これは、私は想像力で仕事をしていることを意味しますし、

想像の運び手である神秘も想像に含みます。

 そして、私の映像はグロテスクと恐怖の境界にあります。 

その空気感が私は1番しっくりくるのです。

 あなたは通りの端を歩いています。

すると、時々グロテスクやホラーを感じます。

なぜなら、あなたはバランスを取らねばならないからです。

ちょうどそんな映像を私が最後に作るであろう作品の展望です。 

私は快適というより庶民的な恐怖とさえ言えるものを見つけたと言わねばなりません。

"リアルな日常の映像"からね。

 なぜなら、庶民的な恐怖はあなたの想像力が見つけるし、いつだって見つけられる。

 一方で、"リアルな日常の映像"は自然と偽りになります。

リアルとは少し違う。

それらはみな、想像性のない、カモフラージュなのです。

あなたは簡単に見分けられるでしょう。 

それこそが本当に、私がなぜ、極められた恐怖感を好きでないかの答えなのです。 

イタリアのネオリアリズムと呼ばれる運動に"リアルな映像"がありますが、

私にとってのリアルとは異なります。 



「人形」


私は映画監督ではありません。 

人形劇の勉強をしていました。

 私にとっての人形は生涯の友です。

 本来、私のすること全ては人形劇であると言えなくもないのです。 

人形とは不思議なものです。

 玩具? 

ここで彼らは人形劇を子供がみるように捉えています。

だけど、それだけじゃない。

 彼らはアフリカやオセアニアの原住民なのです。

 シャーマンは一般的まともな社会でのコミニュケーションとしてだけでなく、神々や患 者とのときでさえ、人形を使います。 

彼らシャーマンは悪魔や神々を身に纏うとき、本当に人の姿を与えるのです。

 彼らはトーテムアニマルもしくは悪魔なのです。 


アニメーションにおいても同じことが言えます。 

私はいつも言っています。「アニメーターはシャーマンである」と。

 なぜなら彼らは生命のないものに命を吹き込むのですから。

 しかし、アニメーターにはこれを行うのにテクノロジーが必要です。

 シャーマンには必要ありません。 

可能な者とテクノロジーなしにでも可能な者 

小さな子どもにも同じことができます。 

子どもはシンプルに玩具を生きたものとして認識します。

 玩具は彼のために生きるのです。

 一方、私たちはテクノロジーを使わねばなりません。 

そして、これは私がなぜ、どこがテクノロジーであるかが明らかに目に見える、間違いなくコンピュータアニメーションである、というのが好き でない理由でもあります。

 あなたはすぐ、これがコンピュータがしたとみるとこができるでしょう。

 それが私は嫌いなのです。 





以下は和訳まだ追いついてません。