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北海道大学体育会サッカー部

誰かのお陰で私は生きている

2023.01.15 05:46

 さて、やっとこさ引退ブログが僕のところまで回ってきたわけですが、これは順に某山田くんの怠慢によるものなので悪しからず。本来入れ替え戦前の11月頭に公開される予定だったブログなので、時系列がおかしいことになっておりますが、敢えて当時の感情をそのままお伝えしたいので原文ママでお届けします。

 引退してからというものの、もう一度フットボールの虜になっております。指導者の道をこれから進む予定なので、いろいろなことの整理に加え、守備やドリブルを実践的に練習しています。沢山伸び代があって毎日わくわくしながらボールを触っています。まあ現状報告はそんなところで本編へどうぞ!


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 皆さんこんにちは。全国に散らばる大嶽ファンクラブの方々如何お過ごしでしょうか。札幌は夏がやっと終わったと思ったらもう冬を迎えそうです。朝練なんてベンチコートを持って行くほど寒くなってしまいました。

 さて今回は私の引退ブログということで悠長で独善的になってしまいそうですが暫しぐっと我慢して頂きたいものです。いつかはやってくると解っていましたが、いざこうしてブログを書いていると込み上げてくるモノがあります。先ずは4年間の足跡を自己省察的に語っていきたいと思います。私の心の変遷を嘘偽りなく書き記していきますのでお付き合いください。

<4年間の足跡>

[1年目]

 北大への入学が決まったのは3月中旬ごろでしょうか。後期入試で受験したので他の人より遅いタイミングで進路が決まったわけです。確か母親と車の中で見たと記憶しています。私はその時にはあまり実感が湧きませんでしたが、隣で喜ぶ母親の姿を見て少し嬉しくなったのが思い出されます。

 普通の人は大学に入ったら何をやろうとあれこれ考えると思いますが、私の場合は特に他のことをやりたいとも思えず、自然な流れで体育会サッカー部の門戸を叩いたのでありました。と言いますのも恩師の先生に「絶対に部活をやっておくのだ」と、釘を刺されておりました。もう少し自分の頭で物事を考えんかいと突っ込みたくなります。

 そういう訳で父母にその旨を申し上げると、「お金がないから部活を続けるのはよしなさい」と言い出すではありませんか。高校生までの私にはサッカーをするのにお金や時間が掛かるといった感覚が点でないもので有りますから、これには困り果ててなんとか両親を説得しようと試みるのでありました。手始めに大学サッカーに係る費用を算出致しました。部費が毎月4000円、ユニフォーム代で9万円と、、、。はて案外お金が掛かるのねとは思わずにはいられませんでした。しかしそれでもなんとか生計が立つように出鱈目な計算をして父母に見積書を提出いたしました。公文で鍛えた計算の速さで週4日時給1500円の家庭教師で5時間指導したら毎月12万円、奨学金を4万円借りれば生活できると叩き出したのです。後から振り返って見るとこれには横須賀の計算機も吃驚仰天であります。誰が家庭教師をこんなに出来ると保証したのだ、と今思うとおかしな点が沢山あります。しかし当時の父母はこの見積書で部活を続けることを快諾してくれました。実際の数字が如何とかそういうことではなく、意志の強さと計画的にやっていけるかどうかを見ていたのかもしれません。(今このブログは飛行機に乗り遅れて9時間電車で名古屋に帰省する途上で書いている訳でありますから、計画性も減ったくれもございません。)

 さてお話の舞台を札幌に移しましょう。私は寮生なので4月はそれはそれは大忙しだった訳ですが、なんやかんや新生活にも順応出来ました。札幌に来て5日程経った頃でしょうか。当時4年目の黒くんが私の存在を聞きつけ挨拶してくれました。どうやら年目ラインで「キーパーきた!!」と大喜びで報告していたみたいです。また寮にはもう一人浅井くんという謎に包まれた男がいると聞いていました。後にその2人から現在まで続くバイトのもんきち商店桑園店を紹介してもらうことになります。

 初めて練習を見学しに行った日は確か夕方練の屋内でした。いつものミニゲームをしていて、1人目を引く選手がいて、「あの人上手いですね」と黒くんに申しますと、「嗚呼、大山ね今日だけやで」と半笑いで返されたのを思い出します。

 私の記憶は次に北大クラブとの練習試合に移り変わります。晴れた日のグランドで40×2の試合だったはずです。北大クラブはキーパーが足りず小笠原おがを派遣するという事態で、皆んなが笑っていたのを覚えています。その試合は2-0で勝利し、大学サッカー初の練習試合を無失点に抑えて非常に悦びを感じました。

 そして4月24日の新歓ゲーム大会がやって来ました。北大サッカー部はこの会に来ることを以て正式入部となります。私はこの日より体育会サッカー部としての道程を歩み始めた訳であります。

 1年目は私にとって当に激動の時代でありました。学校の方は総合入試の諸君に比べ文学部が決まっていたためしばしば手を抜くことができました。衝撃を受けましたのは北大サッカー部名物雁来朝練で御座います。当時は今ほど車持ちの諸君がいないので、1年目はボール2つと任意の荷物を担ぎ込んで自転車で片道40分の旅に出掛けるわけです。まあこれがきついこときついこと。向かい風が吹く日には自転車を降りて走った方が早いのではないかと思う始末であります。しかし朝日が登る中、あいみょんを爆音で流しながら風を切る感覚はなんとも言えないものがありました。帰り道は椋本や高廣とのんびり弱音や愚痴を吐き出しながら授業に向かうのでありました。

 私は夏頃になるとある感情が心の何処からか浮かんでくるようになりました。それはサッカーをし続けることへの疑いでした。これは私のサッカー人生において重要な転機となる一夏を迎えることになる予兆でありました。大学に入りますと周りの人間は実に自由に過ごしている訳であります。海外留学に向けて準備する者、道内を自転車で一周する者、珍しいサークルや部活に没頭する者など、大学生活では多様な人間生活の有り様をまざまざと見せつけられるのでありました。今までの人生において「なぜサッカーをしているのか?」という問いについて何も考えたことは御座いませんでした。ここで私は人生最大の壁にぶち当たるのです。宛ら五月病のような具合でぼんやりと自身の将来について考えて見るのですが、矢張り私にとってサッカーと勉強しかしてこなかったことは強烈なコンプレックスとなって眼前に立ち現れたのです。

 段々と練習に行くのが楽しくなくなっていきます。当時のチーム状況はあまり芳しくなく、雰囲気も最悪でありました。本来楽しいはずのフットボールが重い足枷のように感じられる日々が続くのでありました。

 確か8月に入ってすぐの頃だったでしょうか。私は部活を辞めると言い出したのです。この一件とは関係ありませんが、「桐島部活辞めるってよ」は実に名作です。高校生の日常生活を描きながらそれとは別の次元で、実存主義について普遍的なテーマを語るといった点で名作と言わざるを得ないでしょう。話が反れました。一先ず4年目の平川や荒木に電話してその旨を伝えました。そして年目に伝えると急遽年目会議が開催されることになりました。体育館の2階で皆の表情が非常に暗かったのが思い出されます。私は何を言われても雲を掴むような返事しかせず、愚図愚図振る舞っていました。今でも鮮明に覚えてるいるのは井田には「年目の恥だからお前なんぞいらん」と言われ、湊には「辞めるのはお前の勝手だが何故相談しなかった」と言うことでありました。その時はうんともすんとも返事をしませんでしたが、今になって振り返ると少し嬉しかったのかもしれません。当時の私は寮と部活の2つのアイデンティティの中で揺れ動いておりました。昔の寮は今より俄然活気があって非常に楽しかったので、どちらかといえば部活の仲間と学食に行くよりも寮に帰って飯を食い騒いでいた方が楽しかったのです。私の心の居場所は寮にあったと言えるでしょう。そんな私を見兼ねて山田が相談に乗ってくれました。平成ポプラ並木の三又路の芝生の上で1時間ほど語らい合いました。詳らかな内容は覚えておりませんが麻生の文化祭のことを話していたはずです。茗荷とも話しました。「何も部活を辞めて自分の居場所をわざわざ失くすことはなかろう。休部にしてやる気が出たら戻って来たら良い。」とのことでした。

 私はここで大切なことに気づいたのであります。私は彼等に対して仲間意識があまり芽生えてこなかったのですが、彼等は私を仲間の1人だと心からそう思っていたのであります。私は馬鹿でした。然しここまで騒ぎを大きくしたからには、私の小さな虚栄心が邪魔をします。結局部活に戻るなんて言い出せずに休部してしまいます。

 さて8月といえば東北大定期戦です。私は携帯電話の向こう側に映る楽しそうな姿を見て些かも羨望の眼差しがなかったとは言い切れません。夏のアイリーグでは私のせいでキーパー不在の中、山田と高廣がその代わりを務め大量失点する姿を見て、居た堪れない気持ちになりました。然し私は自分で決めたことをそう易々と投げ出すわけにはいきません。サッカー部にいてはやれないようなことを気が変わらないうちにやり尽くしてやろうと画策しておりました。

 先ず手始めに音楽を始めました。三味線を借りて1人で弾いてみるのであります。馬鹿なことも思いつきました。ペットボトルで船を作って豊平川を下ろうと計画するのです。なんという愚か者でしょうか。そして道内のあちこちを探検することも思いつきました。しかしどれも上手くいきませんでした。なんとなしに中途半端に終わってしまうのです。

 そんな夏が過ぎ私の元に急報が入ります。4年目平川が骨折したから直ぐに戻ってこいとのことでした。これには堪らず私は練習に復帰した訳ですが、依然として練習は楽しくありません。戻って来たのはいいものの、試合には急造キーパーの大山くんが先発。最終節には骨折しても気迫で平川が強行出場した訳であって、私もなんやら脚が痛いとほざいて結局試合には出ませんでした。今の私が見ていたら何を愚図をしているのだと言いたくなってしまいそうです。

 その年は最終節後がない東海大との試合で0-2で敗北し、降格を突きつけられます。いつもへらへらしている黒澤が泣きじゃくる姿を見て少し心が揺れました。集合写真も1番後ろです。そんな心持ちでした。

 19-20シーズンが終わり、私の中である心持ちの変化が見てとれました。私は部活を続けて行く中で様々なことにチャレンジできないのが私にとってマイナスなことだと考えていました。然し実際に休部して痛感したことは「何も部活をやっていることがチャレンジできない言い訳にはなり得ない」ということであります。そこである理想像が私の中に浮かんで参りました。限られた大学生活の中で部活も勉強も遊びもバイトも全部やれる人間が真にカッコいいのだと。そう。全てはサッカーありきの生活だったことに失って初めて気付いたのです。人は大切なことに気づくのが遅い時が往々にしてございます。北海道の短い秋にそう思えたことがそれ以降の大学生活を劇的に変貌させていきました。

 そして迎えた多賀政権。キーパーは私1人きりでした。当然キーパーの練習なぞできる訳がないので、他のFPに混ざって練習しました。今では定番の443もこの年からのメニューでした。私は慣れないながらも一生懸命食らいつき、フットボールの楽しさを徐々に取り戻していくのでした。筋トレも私の楽しみのひとつになりました。どうやら私はセンスがあるらしく、みるみるうちに筋トレにハマっていきました。お陰で一時は169cm76kgというおかしな体型になりました。

 この頃からプライベートも非常に充実してまいりました。年目飲みは出来れば参加するようになり、(お金がないので時々さぼりながら)勉強にも精を出すようになりました。ボスの長谷川貴彦先生の演習に参加できず悔しくて、先生の著作を全部読むという意固地を見せるほどでした。またバイトでは味覚園を始めて、やまけいくん、わたるくん、片寄くん、宮島など先輩に可愛がってもらえて非常に楽しい生活が送れました。

 後日談ですが、私の部活辞める危機から救ってくれたのは味覚園も一緒にやっていた応援団の辻さんでした。辻さんには寮で受け入れをして頂き、毎朝パンをごっつぁんしてもらいました。私は元々声が大きいことだけが取り柄であるような人間で御座いましたので、応援団から積極的な勧誘を受けておりました。とりわけ辻さんには寵愛を受けておりました。そんなある日辻さんから添い寝新歓を受けることになりました。1人用の布団に私と熊のような大男が潜り込むのは無理がある話でした。それは一晩中「応援団入らないか?みんなの夢を一緒に追いかけないか?」と耳元で囁かれるというものでありました。どれ程の時間が経ったでしょうか。私は「応援団に誘っていただくのは嬉しいです。然し私はサッカー部を頑張りたいのです。」と申しますと、「そうか、お前の気持ちはよくわかった。応援される立場として頑張ってくれ。」と後押ししていただきました。そして夏のある日に部活を辞めてしまうかもしれませんと相談すると、辻さんは怒りました。「俺との約束はどうなるんだ。一生懸命やると言ったじゃないか!」と。私はそうした経緯もあってなんとか踏みとどまることが出来たのです。

 さて冬の私は寮での執行部にも挑戦いたします。毎日22-1時ごろまで会議をし、そこから寮内の売店の買い出しに行くため4時ごろに帰寮。そこから9時の1限に眠い目を擦りながら向かうのでありました。そして夕方からの部活をしてから、たまにバイトに行き再び寮の仕事に向き合う訳です。こんなことは半年前の自分にはできっこありませんでした。しかし私にはもう迷いや躊躇いはなかったように思われます。この頃の心情を一言にして表せば、カートヴォガネットJr.の「タイタンの妖女」に出てくる<そうあろうとする万有意志>でありました。これさえあればどんなことでも出来てしまうのです。木星に一瞬で漂着したり、念話も未来予知も<そうあろうとする万有意志>の前には造作もないことでした。

 さて冬の一大イベント東京遠征がやって参ります。長い屋内練習の時期を経てフルピッチでの実践の場です。これは非常にワクワクして東京入りしたのを今のことのように思い出されます。宮島が1on1勝率100%目指すと宣言して1発目の1on1で敗北していたのは最大のハイライトと言えましょう。初日の対戦相手は創価大だったでしょうか。文字通りのボロ負けでした。試合後井田にぶち煽られ、腹が立った私は暴行を加えるという事態になりました。これには私自身も吃驚です。モラトリアム人間と化した夏から一転、馬鹿にされて心の底から怒りが湧いてくるまで成長したか、と。井田くんごめんね。あのキックで成長実感できました。

 関東のチームはどこも強くて試合をするごとに成長する自分達自身にワクワクしながら過ごしておりました。私はキーパー1人なので全ての試合にフル出場するというチームで最も恵まれた選手でありました。また東工大との試合では父母が態々東京まで駆けつけて、応援してくれました。元気にサッカーする姿を見せられてよかったです。

 最終日当時まだ流行りたてのコロナの影響で東農大との試合が中止に。急遽OBの丸山さんが指導してくださいました。その時にはまさかコロナがここまで大事になるとは誰も思っておりませんでしたから、時代というのは全く解らないものです。

 そうして1年目という激動の時代を終えた訳ですが、人生で最も悩み考えた時代だったと思われます。仲間や色んな人に迷惑を掛けましたが、屹度こんな時期が人には必要なのかもしれないと思っています。今シーズンは何人か部活を離れていってしまった選手やマネージャーが御座いますが、私は悩み抜いた1人の人間として1つ伝えたい。大方の悩み事は時間が解決してくれるし、兎に角色んな人に話すことが肝要。自分の見えている世界は後から振り返ってみると霞んでいて窮屈だなんてことがままある。ひとつ立ち止まって自分を相対化せよ、と。

 

[2年目]

 さてこの年はコロナが流行たてで学校側も碌な対応もしなかったので、夏まで部活の停止を受けました。ここからしばしば部活停止の処分を受けることになるのでこれ以降の部活停止については割愛したいと思います。

 待ちに待った新入生キーパーは3人練習に来てくれました。そのうち1人はフットサル部に行ってしまいましたが、以前体育館で元気に活動していたのでホッとしました。さて残った2人が牛崎とあっちゃんで御座います。私はもう嬉しいばかりの気持ちで日々過ごしておりました。夏の部活は屋内での活動が禁止され、人数制限も課されておりました。そこで少人数で長時間にわたる練習を余儀なくされる訳ですが、炎天下の中3時間泥んこになって毎日練習しました。然し待ち望んでいた後輩たちと一緒にサッカーをするのが楽しくてしょうがないので全くそんなことは気になりませんでした。

 遂に始まった学生リーグ2部。それはそれは全く別の意味で厳しい戦いの始まりでした。先ず勝って当たり前の試合をし続けるというのは非常に難儀なもので御座いました。特にキーパーは1試合に数度しかボールを扱わない上に、一度のミスで失点してしまうというストレスフルな役割でした。順当に最終節まで無失点勝利を重ねていきましたが、最終戦の北医戦は中々思い通りにゲームが進みませんでした。先制したものの、後半八木ちゃんのクリアミスから一対一を決められ同点に追いつかれます。然し本郷と怪我で苦しんだ鈴木謙吾のゴールで3-1勝利を収めます。

八木ちゃんの号泣が印象深いゲームでした。

 晴れて全勝優勝を果たした訳ですがレギュリエーション上昇格は御座いませんでした。代わりに1部の2位とプレーオフをして勝てば全国というチャンスを頂きました。コロナの関係で札大が辞退、繰り上がりで東海大との対戦が11/8に決まっておりました。然し11/7の練習は多賀主将によるとゲーム大会をするとのことでした。私は果ておかしなことを言うなあと考えておりましたが、実は道教会から公式戦の中止を言い渡されていたのです。それが練習直前になって部員に告げられゲーム大会は行われました。4年目は皆笑顔でした。楽しそうでした。多賀は中止の連絡を聞いた時思わず涙したそうです。然し1番楽しそうにプレーする4年目を見て、「これが4年目の最後に私たちに見せる姿か。」と感服したのを思い出します。

[3年目]

 いよいよ3年目のシーズンが始まりました。この頃から自発的に部活に対する貢献について思索を巡らすようになり、分析班長や栄養管理などの仕事を始めました。分析は従来の一次データ集計に留まる分析から一歩踏み込んで主観による考察を加えるようになりました。また栄養管理はマネージャーと協力しながら選手の身体作りの一助としたいとの思いから始め、茗荷父にも助けをいただきながら形にできた次第であります。

 さてシーズンの方はどうかと申しますと、総理大臣杯の1回戦が7月頭に御座いました。この試合はご存知の方も多いと思いますが、本郷のゴールで先制し、ラストワンプレーまで1-0にするも、ラストプレーでPK献上。1-1にされPK戦突入。PK戦は岩教GK阿部に3本止められ敗退。私は1本も防げなかった悔しさで一杯になってしまいました。

 そこから秋のリーグ戦がスタート。その年も全勝優勝を飾るが、私の中で印象的だった試合は樽商戦で御座いました。3-2で押し切って勝ったものの、立ち位置のミスから2失点。チームの勝利を素直に喜べませんでした。そんな訳で2年間もの2部でのリーグを経て漸く1部への昇格を果たした訳でありました。

[4年目]

 今年は私は副将としての立場を持ってシーズンに挑みました。ある日の3年目会議で主将副将を決める流れになりました。井田が主将なのは満場一致でしたが、副将には誰も名乗りを上げません。私は自ら立候補しました。どういう訳で副将になろうとしたのか明確な動機があったとかそういうわけでは御座いません。ただ私しか適当な人間はおるまいという一点の意志のみに於いて私自身をそうさせたのでありました。

 シーズン開幕前、井田や首脳陣との会議の中で「殴り合うサッカー」を掲げ、2019シーズンからの脱却を目指しました。今思うと分析や準備が非常に甘かったと言わざるを得ません。2部の試合の中で感じた自分達の立ち位置と1部のチームの中にある立ち位置の乖離は想像以上のものでありました。

 迎えた道都戦。一度も有効な攻撃ができずに0-0で試合終了。この試合で無失点で終えたことが私に謎の自信をもたらしてしまいました。そしてこの自信はみるみるうちに打ち砕かれていくことになってしまうのです。

 私は6月から教育実習に向かい、チームを離れることになりました。そんな中の学園戦。1-8での敗戦。私は実習校で部活の指導をしながらその結果を見た時唖然としてしまいました。そして私がチームに戻ったら違いを見せてやると意気込んだのであります。そして実習から帰ったその日に札大戦がありました。1年生キーパーのしんのすけが瞼を切る怪我。交代を余儀なくされました。私が出場したのですが、早々に複数得点を奪われ、超絶ロングシュートも2発決められてしまいました。結果はまたも1-8。私は実習明けだから仕方ないと少し言い訳がましく思いながら帰途に着いたのでありました。

 井田不在の翌週の北翔戦。私がキャプテンとして何がなんでもチームを引っ張るんだと強い気持ちで臨みました。今年の北翔はかなり完成度が高く、手も足も出ないまま0-3でゲームが終わってしまいます。しっかりと調整をして臨んだ中で完敗。自分なりに数本セーブはしたものの、喉から手が出るほど欲している勝利が遠い。厳しいものがありました。

 続く函館教育戦。裏天王山ということで勝たないと自動降格が近づく一戦。前乗りして試合に臨む。当日の朝、合宿恒例の朝散歩と1年目の一発芸。そこそこウケる。この日キャプテンの本郷がチームを締める。一瞬ピリつく空気。コイツには私には無い言葉の重みがある。私には持ち合わせている何かが足りないとこの時感じたのでありました。試合の方はと言いますと、なんとか1-0勝利。西平賀のスライディングお尻火傷でチームを救う。試合後の挨拶でわざわざ函館まで足を運んで応援してくださったOBや保護者の方と向き合った時、やっと勝てたとホッとした気持ちで少し涙が溢れました。

 そんなこんなで延期分を除いて前期が終了した訳ですが、チームの状況は良くなりません。システムを二転三転し、チームは混乱。矛先は首脳陣へ。私は541に変更してブロックを敷き続けると聞いた時、少し嫌な予感がしました。それは2019シーズンと同じような戦い方になってしまうのではないか。デジャブ的にズルズル行って降格してしまうのではないかという思いでありました。然し私は副将に名乗りを上げた時決心していたのです。井田に全幅の信頼を置き、私は懸命に支え続けると。

 そうは言うものの、この頃から私自身の副将としての役割に疑問符がつくようになりました。首脳の中でも監督を任されるでもなく、何か突出した仕事があるわけでも無い。そんな微妙な立場に頭を悩ませました。然し秋頃になると徐々にその考えも洗練されていきました。私は他の首脳陣が目の届かないところを見ようと思い始めたのです。中々出場時間に恵まれずストレスを抱える選手、自分の中で迷いがあるであろう選手たちの「良き聞き手」であろうと思い立ちました。私は首脳陣と他の選手との媒介となりながら、チームが良い方向になるように、私にしか出来ないことをやろうと強く思ったのであります。

 さて時計の針をやや戻しましょう。私にとって今年の夏は非常に多忙な時期でありました。2回に渡る教員採用試験や東北遠征、アイリーグの連戦など充実しておりました。そんな中、私は総理大臣杯を目処に先発の座を奪われてしまいました。いざベンチで90分座って見ていると非常に退屈なものです。アイリーグとの兼ね合いで私自身出場時間が短くなっていきました。中々詰まらないように思われますが、私はその中でもやれる事をやり切ろうと心に決めておりました。後輩の育成を中心に活動を進めていくためキーパー長も引き継ぎました。残り少ない時間で数多くのことを、後輩に残していこうと思える今日この頃であります。

 さて後期の試合は直近で皆さん覚えていましょうから割愛しましょう。徐々にチームとしての完成度は高まっているように思われます。開幕戦には何も出来なかった道都にも数多くのチャンスを作り出し、岩教にも北大らしいフットボールができるところまでは辿り着きました。

 学生リーグは残り2試合。入れ替え戦含めて3試合しかもうこのチームで戦うことは出来ません。最後に笑って終われるように1日ずつ大切に過ごしていきたいものです。

<おわりに>

 さて長々とした文章に最後までお付き合いいただきありがとう御座います。最後に皆様への挨拶を結びの代わりとさせて抱きます。

・後輩諸君

 君達のお陰でここまでやって来れました。ありがとう。私のモチベーションは君達にカッコ悪い姿を見せられないという思いでした。3年目はチームの中心として4年目の非力を支えてくれました。然し敢えて厳しい事を申しますと、まだまだ君達は未熟です。自分達の実力を過信せずチームとして積み重ねをしていって下さい。2年目は問題児ばかりと良く言われますが、もう来年は3年目になりチームの中心になっていきます。続く4年目を支える自覚を持って1年間過ごしていってください。1年目は仲が良くて出来る選手も多いので期待しています。ガンガン上の年目を突き上げていってください。

・OBや保護者の方々

 4年間応援有難うございました。毎試合のように試合を見にきてくださる水谷さんや吉田さん、岸さんをはじめとしたOBの方々、飯に連れてってくださり話を聞いてくれる若手OBの方々、SNSを通じて私達の結果を楽しみにしてくださる保護者の皆様、平素から多大なるご支援をいただき感謝してもしきれません。今後とも北大サッカー部をどうか宜しくお願いします。

・応援団応援吹奏団関係者

 なかなか試合での応援は難しくなってしまいましたが、東北大定期戦での3年ぶりの応援は心震えるものがありました。毎日寮で会うたびにかけられる声が励みになりました。これからも応援よろしくお願いします。坪井くんは頑張って牛崎辻野と学校に行ってください。

・誠先生

 迷った時悩んだ時相談に乗ってくださり有難うございました。先生は常に私に前向きな声を掛けてくださり、いつも話し終わった後は頑張ろうと思えました。来年度以降は高校で講師として頑張りますので宜しくお願いします。

・4年目諸君

 いつも私の側にいてくれてありがとう。年目旅行や何気ない普段の練習が大切な時間なんだと4年目になってから痛感しております。卒業旅行で道東とか行きたいのでまた計画しましょう。1番私のことを理解してくれている皆と残り少ない時間を大切にしていきたいです。就活レースはここに来て最下層に躍り出ましたが、まだ捲れると思っております。来年度以降に期待。引退してからの目標は飲み会で一次会のみで満足せずに二次会まで残ること。粗相しない。頑張ります。卒業して皆んなの内大体は札幌に残るけど、偶には愛知に遊びに来てください。飛行機なら2時間で来れます。もし乗り遅れて新幹線なら9時間かかります。トンペー戦行けたら行きます。フリーターなんで暇だから行けたらいくってかほぼ確でいけます。結婚式は誰が1番早いかな。多分こたろー。1番遅いのはたなけい。逆に早いかも。そして最後にダケカーn欠けです。

・オヤジとオカン

 彼此22年間育てていただきありがとう御座いました。立派に成長して無事大学を卒業できそうです。我が家は食い物には困らないようにしてくれて、お腹が空いたことはあんまりありませんでした。きっとひもじい思いをさせないように頑張ってくれていたんだろうと思っています。昔から2人で私のサッカーを応援に来てくれて、恥ずかしいとは思いながらも自慢の父母でした。親より先には死ねないので事故や病気には気をつけて人生楽しんでいきたいと思います。孫の顔を見られるように2人とも元気で過ごしてください。

 皆さんへのメッセージを書きながら思うことは映画「千と千尋の神隠し」のテーマである「誰かのおかげで私は生きている」ということである。私を支えてくれる周りの人達は勿論、その背後にいる直接見えないながらも私の生きる糧になっている存在が無数にあるのだ。我々はそんな誰かへの想像力を中々日常生活の中では膨らませることは出来ない。このような節目の時に、1歩立ち止まって後ろを振り返る時、私たちの背中を押してくれる無数の存在に気づくだろう。

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私は残り1ヶ月ない最後の選手生活を悔い無く締め括れるように、笑って終われるように、全力を尽くしきる次第である。今年1年間の積み重ねを無碍にしない為にも、チームの力を1つにして総力戦で残りの試合を戦い切ろう。

最後に笑うのはオレたちだ!!!

#17 大嶽航希