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神の子どもたちはみな踊る

2023.01.15 09:09

 こんにちは。

 1月の真ん中ですね。気温も高くなってきたとあってはもう冬も終わるということなんでしょうか。いやそんなはずはない、きっとない。

 今回は1月12日がお誕生日の村上春樹さんの特集をしたいと思っていて、さらに1月17日ですよね。1995年1月17日、阪神淡路大震災。

 この間の日付でブログを更新するとなると、特集は自ずと一冊の本に決まりました。



村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

 文芸誌「新潮」にて1999年8月から12月まで、『地震のあとで』という副題をつけて連載がされておりました。そして2000年2月、書き下ろしを一作加わり、単行本として刊行されました。写真のものはその文庫版、そして現・ポラン堂古書店入ってすぐの村上春樹コーナーでございます。


 地震が1995年ですから、連載開始すら既に4年以上経っています。

 しかし、望まずとも2011年にまた東日本大震災という大きな地震を経て、また、あらゆる災害やどうにもならないことを経て2023年を迎えているいま、創作者、表現者が自身の表現にそれらを落とし込み、世に出すまで、単にその製作時間以上の年月を要することは自明のことのように思えます。

 表現者もまた何をすべきかということに惑い、方針に決定を出すまでに年月を要し、受け手側にも簡単に言ってしまえるものではないですが、心の余裕が生まれるまでの年月を要するでしょう。それらの表現を見ない、聞かないと遠ざけれらることも心の余裕の一つに違いなく、年月が充分でなければ、見ない、聞かない、ということすら選べなかったり、ストレスになったりしてしまう。

 昨年11月に公開されたアニメーション映画『すずめの戸締り』は、東日本大震災をはじめとする実際に起きたあらゆる地震をベースにした物語で、疑いようがなく新海誠監督が考え抜いて表現を導いた見事な作品ですが、十年が過ぎていようと、そのテーマには非難が少なくないようでした。


 『すずめの戸締り』をご覧になった方はご存知かと思いますが、今回紹介する作品集の代表的作品「かえるくん、東京を救う」が重要なモチーフになっています。映画館で「地面に巨大なミミズ」と聞いておっとなった人も少なくないはず。

 「かえるくん、東京を救う」はこのように災害を扱うあらゆる表現に影響を与えていますし、『神の子どもたちはみな踊る』という作品集自体、東日本大震災のときにはあらゆる書店で特集がされています。災害をテーマとする表現には年月を要しますが、長く時を経たのち、いまの自分には必要だと手に取る人も繰り返し現れるかもしれない。それぞれにとっての適切なタイミングで届くのかもしれない。

 『すずめの戸締り』についても、先程の文脈では賛否の否を取り上げてしまいましたが、私には刺さりましたし、誰かの胸に迫るものがあって今日のロングランに繋がっていることは明らかなのです。


 さて、話が逸れてしまいそうになりましたが、『神の子どもたちはみな踊る』についてです。

 4年以上経て連載されたとお伝えしましたが、物語の中だと、地震は各登場人物たちにとってつい先程起きたリアリティのあり過ぎるものとして描かれます。

 「かえるくん、東京を救う」では2月17日という日付が出てきますが、確かにどの作品もおよそ地震から1ヶ月後の世界が書かれて見えるのです。1ヶ月後の世界でそれぞれ生きている者たちの連作短編集という捉え方がしっくりときます。

 実は今作には村上春樹氏がかねてより言及していた人称についての挑戦があります。

 「私は」「僕は」のような一人称小説でなく、6篇全てが「小村は」「順子は」と三人称小説となっていることです。それまでの村上春樹作品と言えば、すごく似た顔をした「僕」が並んでいる印象だったと思うのですが(私にはそう思えたのですが)、『神の子どもたちはみな踊る』ではそれぞれ別の顔をした登場人物が各地でそれぞれ生きていて、世界観も相まって奥行をつくることに成功しています。この作品集が長く愛されている所以の一つだと思います。


 では、中身となる各作品のお話ですけれど、ここはこのブログらしく3作、紹介致します。短編ですし、何より平易な語彙と巧みな比喩、文脈、行間から、読者が物語を受け取る村上春樹作品のどこをどう紹介するんだ、という話になりますので、軽く、あくまで軽く参りますね。



「神の子どもたちはみな踊る」

 表題作です。

 阪神淡路大震災が起きた2015年と言えば、3月に地下鉄サリン事件が起きた年でもあります。意図して、そのテーマも示唆するような作りになっています。

 神の子ども、というのは、宗教二世です。

 生まれたときから母親しかおらず、父親は「お方(その宗教における神)」と教えられ、育ってきた義也は、17歳のときに自身の出生の秘密を知ることになります。やがて社会人になり、小さな出版社に勤めていたある日の帰り道、本当の父らしき人を見かけ、後をつけることにします。

 その父との邂逅が物語の主軸になると思われるかもしれませんが、そうではありません。息を呑むシーンは役割を失った夜のピッチャーマウンドに、あります。そこに辿り着くまでも合わせて、これぞ村上春樹文学というべき素晴らしい表現作品。



「かえるくん、東京を救う」

 触れずにおれないこの作品集の目玉。

 「片桐がアパートの部屋に戻ると、巨大な蛙が待っていた。」の一文で始まり、片桐はかえるくんに、自分と一緒に東京を地震による壊滅から救ってほしいと持ち掛けられるのです。自分と一緒に、震源地の地下に降りて、巨大な「みみずくん」相手に闘ってほしい、と。

 地底の暗闇に何十年も眠り続けているみみずくんは、ただ遠くからやってくる響きやふるえを身体に感じ取り、蓄積し、いまひどく腹を立てている。そこに1ヶ月前、阪神淡路大震災が起きた為、もう自分もやってしまおうと思っているのです。

 というあらすじですが、単にかえるくんと片桐がみみずくんと闘う話にはならないのは未読の方でもお察し下さるでしょう。とはいえ、どんな話と捉えるか、結末まで読んでも読者に委ねられています。

 ただ今回読み返したのですが、思ったより、説明がつくように感じました。いま語りたい欲が凄いのですが、あくまで紹介ですので控えます。こういう作品こそファーストコンタクトは大事です。

 ただ、主人公・片桐の勤める会社が「東京安全信用金庫」で、融資管理課で返済督促の仕事をしているのが実は巧い起点になっているので、ちょっと注目してみていただけると。



「蜂蜜パイ」

 単行本化する際、書き下ろしとなった短編集最後の一作。

 連載は「かえるくん、東京を救う」で終わっており、書き下ろしで付け足したことも含めて感慨深い作品です。

 そういう意図があるのだと思い、敢えて言いますが、「不器用な男がハッピーエンドを作る話」です。個人的にも、村上さんの短編の中で一、二を争うほど好きな作品です。

 主人公である淳平の職業は短編小説しか書かない小説家です。大学時代に知り合った親友の高槻、彼が引き合わせた小夜子と、三人で心地よい関係を築いていたのですが、高槻と小夜子は付き合い始め、小夜子に淡い想いを持ちながらも踏み出せなかった淳平は、想いを押し込め二人が望むように友人関係を続ける。しかし社会人になり、娘・沙羅も生まれた高槻と小夜子の関係はやがて破綻に向かうのです。

 あれ「螢」? 「ノルウェイの森」? この主人公こそ村上春樹作品あるあるではないか、と思われるかもしれませんが、しかし、三人称なのです。「僕」ではなく「淳平」なのです。

 沙羅に「ジュンちゃん」と呼ばれ、懐かれ、地震の報道を見てから悪夢に魘されるようになった彼女に即興で作った物語を聞かせることが彼の役割となります。あらゆる村上春樹的葛藤のすえ、最後主人公が一人考え出した答えには、この短編集ごと読んでよかったと思わせる多幸感があります。




 三作紹介は以上ですが、紹介しなかった三作もまた沁みるものがあり、どの作品もおすすめです。

 「UFOが釧路に降りる」は、なんでそこでラブホテルなんだ、と思うんだけど、その閉鎖具合が絶妙に合う最後が見事で、「アイロンのある風景」も村上春樹と火の組み合わせってやっぱりいいなぁと唸ってしまうし、「タイランド」のガイド兼運転手のニミットには「ドライブ・マイ・カー」の原点に近いのかもと思える心地よさがある。

 先生(ポラン堂店主)が村上春樹作品が苦手だという人もこの作品集はぜひ、と言っていたのを以前聞いたことがあるのですが、頷かざるを得ません。

 それはやはり、地震を経て、これほどの想像力をもって最後「蜂蜜パイ」に辿り着いた村上春樹という小説家を見てほしいという、願いのようなものです。

 あらゆる災害を前に、娯楽には直接的な役には立たないと軽んじられることが多いです。総オタク社会と呼ばれるようになった現代では、人を幸せにする、癒す作品なら、価値は尊ばれてしかるべきと言われるかもしれませんが、まだ世に出ていない、作り手がただこれを作りたい、生み出したいという意志は果たして全て肯定されるでしょうか。

 『神の子どもたちはみな踊る』にはどの作品にも閉鎖から解放に向かう、残酷さと恐怖と切なさと、そして勇気があります。これを書いて、世に出そうとしたところに2023年の今ですら全力で応援したい気持ちがわくのです。

 皆様もぜひ、これを機会に手に取ってみてください。