「パリとカエサル」
パリ左岸に、ローマ遺跡が二つある。現「クリュニー中世美術館」(「貴婦人と一角獣」のタピスリーが有名)の裏側にあたる位置にある「テルム」(公衆浴場)と、モンジュ通りから建物をくぐると開ける「リュテス闘技場」の遺構である(古代、パリは「ルテキア」「ルテティア」と呼ばれた。そのフランス語表記が「リュテス」。サン・ジェルマン・デ・プレ地区にある高級ホテル「ホテル ルテシア」(Hotel Lutetia)の名前も、パリの古代名ルテティアに由来)。
ローマが支配する以前、パリには紀元前3世紀頃からケルト系(ガリア人)のパリシイ族が定住していた。紀元前52年、ローマ軍はカムロゲヌス率いるガリア諸族連合軍を、壮烈な戦闘の後に打ち破る。ローマ軍は、その後セクアナ川(セーヌ川)左岸に植民都市を建設した。古代ローマ期に建設された都市は、碁盤目状の街路構造を持ち、「カルド」という南北の幹線道路と、{デクマヌス}という東西の幹線道路とが、軸心となっていた。パリ(「ルテティア」)の場合も、「カルド」にあたるサン・ジャック通りは、シテ島を橋でつないで、右岸ではサン・マルタン通りへと、一直線に軸を貫いていた。
ところで、パリを平定したローマ軍の指揮官はカエサルではない。兵士たちに「自分たちのこれまでの武勇や順風満帆だった戦歴を思い出せ、これまで何度となく勝利に導いてくれたカエサル本人がここにいると思え」と檄を飛ばして、戦闘開始の合図を出したのは誰だったのか?カエサルの副官ラビエヌスである。数多くの戦争経験を重ねた熟練の騎兵指揮官であり、カエサルが己の手柄とした多くもラビエヌスの補佐によるものであった。また、カエサルがガリアを離れた際は、ガリア属州全体の統治を別部隊と共にラビエヌスに一任した。また、ラビエヌスもカエサル不在のガリアを無難に治めたそれほどカエサルの信任あつかった彼が、ルビコン渡河にあたってただ一人ポンペイウス側に寝返った。もともとポンペイウスとの間にあった「クリエンテラ」=パトローネス、クリエンテス関係(親分・子分関係)に従ったということだが真相は不明。いずれにせよカエサルは手の内を知り尽くしたラビエヌスと「ファルサルスの戦い」、「タプソスの戦い」(北アフリカ)、「ムンダの戦い」(ヒスパニア)戦い続けなければならなかった。しかし、カエサルとたもとを分かってからのラビエヌスは目立った戦功をあげていない。やはり、トップリーダーにはなる器ではなかったようだ。一方、カエサルはラビエヌスも思いつかないような独創的な戦術を駆使して、ラビエヌスのいる敵軍を数の不利もものともせず打ち破っていった。
(「ホテル ルテシア」Hotel Lutetia)
(ガリア・ローマ時代のルテチア)
(「リュテス闘技場」跡)
(「クリュニー大浴場」跡)
(タピスリー「一角獣と貴婦人(触覚)」クリュニー中世美術館)