H・G・ウエルズ著『塀についた扉』
その先には
魔法の庭園が…
460時限目◎本
堀間ロクなな
わたしは心配している。
朝、勤め先へ向かうときに、最寄りの都営の集合住宅の一角からコミュニティ・バスを利用しているのだが、その時刻はたいてい他に乗客はなく、ひとりでバス停に突っ立って待つのがならいだ。そうしたところ、昨年(2022年)の春、小学校に上がった少女が大きな蛍光色のランドセルを背負い、母親と手をつないで目の前を通り過ぎていくのを目にした。
それがゴールデンウィークの明けるころには、少女がひとりで登校するようになり、バス停にやってくると、見ず知らずのわたしを見上げて「おはようございます」と挨拶してくれるのだ。だから、こちらも「おはよう。気をつけてね」と返し、相手が「うん」と応じるというやりとりが定着するまで時間がかからず、朝の小さな儀式として心待ちにしているわたしがいた。ところが、夏休みが終わり、秋の風も次第に冷たさを増した時分に、ふっつりと少女が姿を見せなくなったのだ。大したことではないだろう、登校時刻や通学コースの変更もありうるし、一家がこの都営住宅から引っ越したことだって考えられる。バス停でそう自分に言い聞かせても、ふつふつと不吉な想像が湧いてくるのを抑えられない。心配なのだ。
H・G・ウエルズに『塀についた扉』(1906年)という短篇小説がある。主人公は39歳の男で、オクスフォード大学を優秀な成績で卒業後、政界に入ってからもめざましいスピードで出世し、つぎの改造内閣では閣僚となることが取り沙汰されていた。そんなエリートのかれがずっと胸の奥にしまってきた秘密について、長年の友人に告白をはじめる。自分が5歳か6歳のころ、家族からはぐれて街中をさまよい歩いたときに、ふと白い壁についた緑色の扉を目にして、矢も楯もたまらずなかに入ってみたというのだ。そこにあったものは――。
「庭園の扉がぼくの背後でさっと閉じた瞬間、ぼくは塀の向こう側のことはすべて忘れてしまった。〔中略〕ぼくは喜びと幸福に満ちあふれた子供になっていたのだ……そこは別世界だった」。青い空からは澄んだ光が降り注ぎ、色とりどりに咲き乱れた花壇が広がって芳香を放っている。やがて、どこからともなく少女が現れてにこやかに声をかけてきた。「遊び友だちをそこに見つけたのだ。ぼくは独りぼっちの淋しい子供だったから、友だちほど嬉しいものはなかった。ぼくたちは、花をあしらった日時計のある芝生の上で、楽しく遊んだのだ。遊びながら愛し合った……」(橋本槇矩訳)
夢のような時間を過ごしたあと、ふたたび扉をくぐって現実の世界に戻ると、かれはもはや白い塀や緑色の扉を発見することができなかった。やがて長じてから思いもかけない場所で二度三度、その魔法の庭園につながる扉を見かけたものの、あえて手を触れないできたという。しかし、つぎに出会ったときには必ず開けてなかに入ってみるつもりだ、とかれは友人に告げて別れる。その結果、何が起きたか、小説の結末は明かさないでおこう。ただし、実のところ、こうした魔法の庭園は古今東西の男のだれもが幼いころに体験して、大方忘却したつもりでいながら、ひそかに人生に引きずっているものではないだろうか?
かく言うわたしもはっきりと覚えている。そのころ東京・小平市の木造平屋の都営住宅に住んでいて、やっと自転車をこげるようになり、西武線の線路沿いにのびた雑木林の道をはじめて走っていった。すると、雑木林が終わったとたん、青空の下に野原が広がって大勢の子どもたちが遊びまわり、ひとりの少女が「さあ、いっしょに」と声をかけてくれた。つまり、わたしの場合は白い塀の緑色の扉ではなく、武蔵野の雑木林の切れ目が魔法の庭園への通路だったのだ。やがて小学校を卒業すると同時に引っ越したわたしは、後年、その地へ足を運んだことがあるが、マッチ箱のような都営住宅も雑木林もすっかり消え去って、きちんと区画整理された住宅街となり、あの野原だった場所の片隅に三角形の児童公園がたたずんでいるだけだった。
おそらく物理上の問題ではないのだろう。みずから心を開いてそうと気づくなら、自分にとっての魔法の庭園は身近などこにでも存在しているはずだ。あの姿を見せなくなった少女もまた、その住人のひとりだったのかもしれない――。わたしは心配している。
【追記】
以上の原稿をまとめたあとで、朝のバス停でふたたび少女と会うことができた。4か月ぶりだったにもかかわらず、彼女は当たり前のように「おはようございます」と挨拶し、わたしも「気をつけてね」と返して、朝の小さな儀式が繰り返され、胸のなかで拍手喝采するぐらい嬉しかった。少女が、果たして魔法の庭園の住人かどうかはともかく。