したいことは、他者に寄り添うこと 2023.01.18 08:55 気がつけば、小学校の中学年ぐらいからクラスや学年のリーダーだった。自分が望んだわけでもない。そうなっていた。多分、自分の言葉で物怖じせずに、発言してきたから。そのスタイルは議会活動でも変化なく、質問や質疑を物怖じすることなく常にしている。いや、しないではいられない。ただ、中学2年生の頃から、違和感を有した。中二病と言われるように、この14歳あたりでみんなが自我に目覚め、自己主張もはげしくなり、クラスがどやどやしだす。途端、イニシアティブは、関西のほうでいう、おだった者へと移行する。隠れたいじめも始まり、クラスはグループ化し、所属する集団のバイアスがかかり、いじめや対立は、個々人ではなく、集団対集団へ。まあ、集団性(結)を重んじてきた日本だから、この集団心理や集団への帰属意識は、致し方ないのだが、問題は、かならず、集団からこぼれるものがいる。このこぼれた者の呼び名が実に酷い。いじめらっこ、はばにされたもの、孤立したもの、負け組、落ちぼれ・・・・。マスコミが、こうした言葉を大いに煽ったのは罪。マスコミの人たちの勘違いした住民統制意識のなれの果て。だから、既成メディアはどんどんだめになるだろう。すでに己のペンのペン先が、すっかり錆び着いていることにも気がつけない。集団に帰属しない者は、大成功でも納めないかぎり、社会性なき者としてすぐにレッテルが貼られ、変な奴、根暗なやつ、今なら、隠キャとなる。これが、日本の限界であるなと、感じてきた。子どもの頃から感じてきた。個性や独自性が認められず、多様性を許さないから、変化の時代には対応が遅れ、後進国化していく。こうした議論は、別に、今のトレンドでもなく、昔から言われていたことである。今、変化のスピードに順応できなかった日本の経済や国民の暮らしが荒廃し、やっと、このままではまずいよね・・・とわかっただけ。今更である。激増する不登校児童・生徒。孤立してしまう子どもや高齢者。いや、若者や働き世代でもきっと多いのではなかろうか。社会が変化できなかったから、そうした方々の声を拾い、対応する仕組みが、特に行政では不十分となってしまう。また、旧態然の意識は変わらず、社会の課題を直視せず、自己責任を掲げ、新たな行政サービスを構築する積極的な姿勢は、未だに弱い。新しい仕組みを作らない。考えないのは論外である。闘わずして負けであろう。こんな時代だからこそ、私たち政治家は、小さな声に耳を傾け、そこに、現実と仕組みのズレを見出し、今後を予測しながら、行政サービスの見直しを図り、提案していかねばならない。それこそが、本当に他者に寄り添うこと=福祉の増強である。日本の自治体の中には、そこに気がつき、思考が硬直化した行政や公務員では難しいと考え、専門の民間企業や団体と積極的に連携し(学び)、今までと全く違う発想で、時代(届かない声)のニーズ対応した施策のチャレンジしているところも出始めた。本当に効果を上げる可能性があるのは、どこかのコピーでなく、オリジナルの施策である。違う方向から見れば、トライ&エラー(朝令暮改)が許される環境づくり、セットとして、市民へのたゆまない配信及び対話が大変重要となる。結果、市民からだけでなく、今まで隠れていた行政マンの中から、人財を発掘できる場合も多々有る。もう、行政だけではうまく行かない時代であることは、行政マンでも理解できているはずである。それは、私たち政治家も同じこと。今こそ、他者に寄り添い、声を聴き、共に連携・共有し、日本や地域の未来を模索し、新たに構築してゆかねばならない。