パリ組曲⑮ 2018.04.21 15:42 エッフェル塔の最寄りの地下鉄に乗って、ホテルのあるPlace de clichy駅へと帰る。夜9時を回る遅い時間であったが、電車内はおそらく観光客ばかりなのだろう、危険を感じるようなことはなく、おだやかな雰囲気だった。 さすがに疲れたのか、座席に座りながらミヒャンが谷川の肩に顔を預けてウトウトしていた。そのため彼は車両の揺れでミヒャンが目を覚まさぬよう肩のバランスをうまく取りながら、座っていた。 おだやかな雰囲気という意味ではここはなんら日本と変わりない。すぐ近くの欧米人の夫婦はパリのガイドブックを覗き込んで何やら話していた。 駅について地上へと出ると、ニューイヤーのためか、まだまだ大勢の人で賑わっている。カフェやレストランはほとんど満席。しかも寒いというのにテラスまで大賑わいだ。そういえばフランスは夕飯の時間が遅いらしい。 2人はさすがに疲れていて、夕飯は近くのマックでハンバーガーを買っていき、谷川はミヒャンを送るついでに彼女のホテルで食べることにした。 のんびり歩いて10分。それでも部屋へ着くとミヒャンは食べるよりも先に「疲れました」と言ってベッドへ転がり込んだ。 谷川はハンバーガーを口に運びながら、明日はどうしようかなどと考えていた。ミヒャンと一緒にいるべきなのか。ミヒャンはどうしたいのか。自分はどうしたいのだろう。明日は主にルーブル美術館へ行く予定ではいる。一緒に行こう、と誘うべきなのだろか。それとも今日は、明日のことなんて決めずに帰ろうか。 お互い、一人で来た身だ、一人で行動したい時もあるだろう。どちらにしても明後日にはモン・サン・ミッシェルのツアーへ2人で参加する。そうなるとやはりお互いに少し一人の時間を持ってもいいかもしれない。 ぼんやりと考えていると声がした。 「明日も会えマスカ?」 ベッドに体を沈めたまま、ミヒャンが顔だけをこちらに向けていた。谷川はまさか心の声を聞かれたのではないか、とドキリとした。 谷川は質問には答えず、 「マック、食べないの?」 と誤魔化した。 「明日は、会えないデスカ?」 ミヒャンも谷川の質問には答えずそう続けた。 「ルーブル美術館、一緒に行くかい?」 「ハイ。行きます。マックも食べます。」 ミヒャンは口角をキュッと上げてニンマリ二つの質問に同時に答えたかと思うと起き上がり、ベッドの縁に腰掛けてハンバーガーに手を伸ばした。 「ワタシ、口大きいですから、パクっと食べマス。」 自分と一緒にいることができることをミヒャンが喜んでくれているのだと彼は気付いていた。 女性の、嬉しそうな顔を見ると安心するのはなぜなんだろう。女性の、寂しそうな顔を見たくないのはなぜなんだろう。男とはそういう生き物なのか、それとも自分の恋愛遍歴に何かあったのだろうか。 「タニガワさん、ルーブル美術館の後は、ワタシ、お料理の道具のお店に行きます。タニガワさんはきっと、1人でどこか動きたいでしょう。ワタシも1人で頑張リマス。」 谷川は女性に自分の気持ちをはっきり言えない性格だと自分で理解している。 好きだとか嫌いだとか、はっきり言わないから相手を困らせてきたことも知っている。はっきり言わないから、答えを相手に言わせてしまうのだ。 「心配ですか? 大丈夫です。ワタシ、地下鉄の乗り方、もう覚えました。」 ミヒャンが自分に好意を寄せてくれていることが分かっていたから、それを突っぱねてしまうようで、少しひとりの時間が欲しい、とは自分の方から口にはできなかった。 ミヒャンがマックを頬張りながらフランスのテレビ番組を観ている間、彼は明日のルーブルの行き方や、混まずにチケットを買える場所などを時間をかけて再確認し、ようやくガイドブックを閉じる頃には11時になろうとしていた。 「じゃあ、そろそろ帰るよ。」 谷川がそう言うと、ミヒャンが人形のような感情のない視線を彼に向けた。 「何もしないで帰るのデスカ?」 不安そうな囁きだった。谷川を見つめるその二つの黒い眼球は、部屋の光を受けて白い肌に浮いているようだ。 「何も、って?」 「ワタシの体に触れたり、です。」 谷川が自分からはそういったことをしたり、冗談でも口にすることはない固い男だとミヒャンは気付いているんだろう。からかっているのだと彼は思った。 「触れたり? どうして?」 言ってはみたがミヒャンの無表情を見て、急激に鼓動が早まる。不安や緊張ではない。もう、体が、今から何かが始まるのだと理解したようだった。もうこの子の視線からは逃げられないのだろう。視線に捕まるとはこういうことなのか。ミヒャンがゆっくりとこちらに歩み寄った。そして座っている谷川の上にまたがり、両手を首の後ろに回した。 「何もしないなんて、ダメです。」 眼前に迫る白い肌とじっとこちらを見る黒い瞳が、マネキンのような、そこに心などないかのような冷たさを伝えてくる。 「あと4日しか、アリマセンヨ」 「あと4日もあるじゃないか」 谷川はミヒャンをなだめるように言った。 「いいえ、あと4日しかアリマセン。」 「そのあとは会えないみたいな言い方だね」 「そうかもしれません。」 「どうして? 住んでるところが違うからかい?」 「タニガワさんは、日本でも、ワタシに会いたいデスカ?」 きっとミヒャンは、その答えへと会話を誘導したに違いない。谷川は王手をかけられたような負ける気分になり何も言えなくなったが、答えを言わされようとしている自分が微笑ましく思えた。良いとか悪いとか、おいしいとかおいしくないとか、会いたいとか会いたくないとか、聞かれなければ答えない、自分からはどこか恥ずかしくて言い出せない、そんな昔ながらの日本男児気質で生きてきた彼にとって、必要に迫られて答える場面というのは気が楽だった。 「会いたいよ」 谷川がそう言うと彼女の口角がキュッと上がった。それは真夜中の空に浮かぶ三日月のように輪郭の美しい形であった。 いつ塗り直したんだろう、ミヒャンの、赤い口紅が塗られた唇が近づいてくる。そういえばさっきエレベーターに乗った時、鏡を見ながら塗っていたような。もう食べて寝るだけなのに何故そんなことをするのか、あの時は気にも留めなかった。 オレは、この子とキスをするのか。 谷川は、状況とは真逆の冷静さの中に身を置きながら、生まれ来る欲望と対峙していた。 唇が接するまでの、そのわずかの間、彼は空港で彼女を見かけた時のことを断片的に脳裏に思い描いていた。それはどう考えても瞬間的にしか起こり得ない偶然だった。2人は同じ飛行機に乗って何百人という乗客と共に日本からパリへと来た。あの時、谷川は荷物受け取り場の番号をモニターで確認するために数秒立ち止まった。たまたま同じタイミングでミヒャンが立ち止まった。ただそれだけだった。 あの時の不思議な表情を見て、彼はミヒャンをとても美しいと思った。今、目の前にそれと同じ表情が存在する。自分ではない、どこか遠くを見ている。まるで自分の背後にどこまでも広がる世界でもあるかのように。 口唇が触れる。一度・・・、二度・・・。その度に谷川はとろりと垂れる彼女の目を見て、これが現実なのかどうか確認した。 「ヤワラカイデス。」 お互いが、お互いの人生を抱えながら、その1ページの中で日本からパリへと旅にやってきた。ミヒャンは韓国で生まれ育ち、大学の時にひとりで日本へ来た。そしてもう韓国には戻らないと言っていた。家族とはどうしているのだろう。本当にずっと会ってはいないのだろうか。抱える過去に何か影があればあるほど、その色が濃ければ濃いほど、谷川は人に惹かれてきた。自分が知らない世界を知っていればいるほど、その女性を欲した。自分にないものを相手に見出し、この手で触れようとした。 鉄は熱いうちに打て、といつも自分に言い聞かせて生きてきた。やるべきこと、やりたいことはその時やれ、動け。人の気持ちに関しても、相手の気持ちがあるその瞬間に動かなければ、相手の心を動かすことはできない。今、この女性を知ろうとしなければ今後の人生においてこの女性と交わることなどないのかもしれない。 膝の上に乗る彼女の背中に手を回し、そっと抱き寄せた。 「噛んでもイイデスカ。」ミヒャンと口唇を重ねるごとに堰き止められていた欲望が激流のごとく流れ出していく。自分の意思で抱きしめているのに、自分の意思とは別の力でミヒャンとの関係が始まった気がしてならなかった。たった一日、渡仏日がずれていればミヒャンと会うことはなかった。こうなるべくしてパリへ来たような来がしてならない。なぜ出会うことになったのか。なぜ話すことになったのか。谷川は彼女の黒目に映る自分の影に問うた。 つづく。